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始めてのプログラミングは、幼稚園のころだった。「マイコン少年がプログラマーになったっていう、よくあるやつです」。照れ笑いを浮かべて、伊藤直也さん(27)は話す。
伊藤さんは新卒でニフティに入社。ブログサービス「ココログ」を開発した。社会人3年目となる昨年9月、はてなに移籍し、最高技術責任者(CTO)に就任。マイコン少年は「変な会社」を支えるチーフプログラマーになる。
社員500人の大企業から10人のはてなに。寄り道だらけに見えた人生は、今振り返ると、はてなにまっすぐ続いていた。
幼稚園のころ、父親が買ってきた東芝のコンピュータ「パソピア7」がすべての始まりだった。父や兄に教えてもらいながら、雑誌に載っていたコードをそっくり写してゲームを打ちこんだ。ブロック崩しからRPGまで、あらゆるゲームを試した。
4年生のころにMSX2+を手に入れ、野球ゲーム「激突ペナントレース」やRPG「Xak」にハマった。雑誌に載っていた通りにプログラムを改造し、無敵キャラを作ったりもした。ハッキングのまねごとは小学生で覚えた。
プログラミング少年の転機は、思春期に訪れる。「パソコンをやっていてもモテない」という事実に、ハタと気づいたのだ。MSXを持っていた友人が、オタクっぽくなり、クラスで浮いてきているのを感じた。
モテたい伊藤少年は、キーボードを叩く手をギターと竹刀に持ち替えた。中学、高校と剣道部で活躍し、バンドに精を出した。伊藤少年のプログラミング史は、しばらく止まっていた。
青山学院大学理工学部物理学科に主席で合格。生まれ育った秋田県から上京し、バンドサークルに入ったが、「当時のモテはもうバンドじゃなかった」。東京のカッコいい人に張り合って、モテようと考えるだけムダだと感じた。「やりたいことをやろう」。封印していたゲームやPCへの欲望を開放した。
PCに詳しいサークル仲間の影響で、東芝のAT互換機「BREZZA」を購入。ネットブーム勃興期の1996年に、パソコン通信にハマった。草の根ネットワークにつなぎ、見知らぬ人と音楽やPCの話をするのが楽しかった。
インターネットに目覚めたのはMMORPGの先駆け「ディアブロ」から。見知らぬ人と一緒に冒険できるオンラインゲームは、小さい頃夢想したゲームそのものだった。「ドラクエも、他の人と一緒にプレイできたら面白いとずっと思っていた」
人生を決定付けたのは「ウルティマオンライン」だった。世界中で数千、数万人が同時にプレイする世界に、鳥肌が立った。海外サイトの情報を翻訳し、オンラインゲームのニュースサイトを作った。1日何万ものアクセスが集まった。「ありがとう」のコメントが嬉しかった。ネットの仕事に就こうと決めた。
大学4年で選んだ研究室は、超並列計算機。「ここなら、PCを触りながら卒業できると思った」。ネットワークやプログラミングを基礎から学んだ。サーバの管理をしながら、プログラムを試し、UNIXの本を読む――そんな生活が楽しかった。
PCや本と向き合う毎日でも、“モテ系”の血は、たまに騒いだ。「こんなオタクっぽい生活でいいんだろうか」――せめて外見だけはと、身だしなみには気をつけた。
就職活動は「ミーハーだった」。ネット関連の仕事がしたくて、主要ISPやポータルを受けた。ネットワークもプログラミングも分かる新卒は、どの企業も欲しがった。選んだのはニフティ。規模が大きく、安定していそうだった。
ゲームとISPとUNIXですべてだったという伊藤さんのネット業界地図に、「ネットビジネス」という大陸が書き込まれた。ニフティでホームページサービスのソフト更新やサーバメンテナンスをしながら、ネットビジネスの多様性に触れた。
2年目となる2003年春。ブログツール「Movable Type」(MT)と出会う。「HTML手打ちだったサイト構築が、全部自動化されている。Webサイト同士がつながる仕組みまである」――驚いた。面白かった。MTで個人ブログ「NDO:Weblog」を開設。ブログに関する思いをつづった。
開発部隊にいた伊藤さんは、企画部隊の同僚と一緒に「ニフティでもブログをやるべきだ」と提案。しかし「ビジネスにならない」と反対され、話は全く進まなかった。PowerPointで何枚も資料を作り、何度も何度もプレゼンしたが、らちが明かなかった。
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