植民地朝鮮の実情を記した当時の資料(1)の続き
朝鮮関連では「京城日報」がよく出てくるが、これは朝鮮総督府の機関紙である。
なお朝鮮は植民地ではない、という主張については過去エントリ日韓併合は植民地支配ではなかった、というウソ参照

時事新報 1919.6.10-1919.6.17(大正8)
朝鮮統治の現状 (一〜八)

(二) 武官政治の悪弊
統治の欠点
我朝鮮統治の上に現われて居る欠点は種々あるが其根本は武官政治、サーベル政治其ものに在りと云わざるを得ない蓋し現在の総督の権限は頗る広大であって兎角悪弊を醸し易いのである。即ち現今の制度に拠れば総督は陸海軍大将を以て之に充て、啻に委任の範囲内に於て陸海軍を統率し行政権を掌握するのみならず立法上に就ては一年以下の懲役又は二百円以下の罰金を課する府令を発する権限を有して居り又司法上に関しては朝鮮総督府裁判所令なるものを以て自由に裁判所の設置、廃止及管轄区域を定むるの権能を有って居る且つ総督が其出入に儀仗兵を付し又威儀を正して其人民に臨む有様などは如何にも威風堂々だが一方から云えば宛然専制君主の面影があると云う併しながら是れは決して朝鮮民を永久に心服せしむる所以ではない。彼等は之が為めに非常な圧迫を受けて居るのである、殊に併合の歴史を知らないで近時の世界思潮に感染して居る青年連には一層甚大な圧迫を感ずるのである 

憲兵政治の弊
加之武官は兎角サーベル政治を好むの癖がある、現に今日朝鮮に於て文官である司法官や学校教員迄が自然に武官政治に化せられて帯剣して居るではないか。是れなどは確に武断政治の弊所を暴露したものである元来我軍人連の中には未だに朝鮮は武力を以て併合したものであるかの如くに考え又武力を以て朝鮮を統治すべきものと信じて居るものが少くないらしい、是れは所謂時代錯誤であって斯かる頑迷思想が尚我軍人の心裏に存在する限り種々なる弊害の我朝鮮統治の上に現われて来るのは亦已むを得ない殊に武断政治の最も弊とする所は憲兵政治又は探偵政治に陥り易い事である、現に今日の朝鮮統治は全部憲兵政治と云うも過言ではない、仮令山県政務総監以下二三重要な文官があったにしても彼等は殆んど何等の実権を有せず徒に空位を擁して居る有様で実権は依然憲兵及警察の統帥者たる警務総監の手に握られている、即ち朝鮮の統治は実際左表の如き系統を以て施行されて居るのである。 
[図表あり 省略]  
而して彼等憲兵、警察官等は実際上単に警察行政のみならず司法裁判教育の上に迄も直接間接干渉を加え得る権力を持って居るのである、従って其弊害の及ぶ所意外に大である。今度の騒擾の原因も或は此の憲兵政治の弊害に堪え得ないで起ったものではあるまいか今一々其例証を列挙する事は其煩に堪えざるが故に之を略し其内既に外字新聞や其他外人及び朝鮮人間に一般に知れ渡って居る顕著なる二三の実例を挙げて読者の参考に供する(一記者) 

(三) サーベル教育の弊 排日思想を養成す
教育令の誤用
総督政治の他の欠点は「教育に関する勅語の趣旨に基き忠良の国民を育成す」と云う朝鮮教育令の実際の運用を誤って居る一事である、某朝鮮名士の談に拠ると朝鮮内地に於ける普通学校(小学校)の教員は大抵軍人上りで彼等は皆サーベルを腰にして教場に臨むと云う事である、帯剣は教員の威厳を保つ手段の積りかも知れぬが、斯くの如きは恐らく世界教育界他に見ることを得ざる現象であろう、現に朝鮮在住の外人は此の現象を見て頗る苦々しく思い又当局の政策の浅薄であることを憫笑して居ると云う、而して彼等教員は生徒に向い口癖の様に「汝等は陛下に忠良なれ、陛下の御恩を忘るる勿れ、然らずんば此のサーベルを以て切るぞ」と威嚇するのみならず、若し其際少しでも側目をして居る者があるとか或は私語して居る者があると、直にサーベルで酷く打擲することすら往々にしてあると云う、且つ余りにクドクドして忠君を説き立てるので生徒の耳には爛熟し過ぎて却て厭気さえ促すの結果を呈して居ると言う者もある斯くては折角の忠君論も説くに其道を以てせざるが為めに反対に不忠の人を養うの弊に陥らざるを得ない 

苛酷の処分
然るに現在の軍閥教員連は更に其態度を改めざるのみならず最近に於ては益々其□制の度を昂めて来たと云う殊に甚いのは折角朝鮮内地の普通学校を卒えて遥々日本に遊学に来たものに対する取扱い方である、本来なれば日本に来る程の篤学の人に対しては極めて親切に其教育を授けて遣るべき筈である、然るに事実は左うでなく矢張り厳酷な圧制教育を施し現に彼等留学生を監督して居る某憲兵大尉の如きは頗る厳酷な態度を以て是等の留学生に臨み例えば彼等の中に朝鮮語を以て相語るものがあると、貴様は排日を談ずるものであると云って直に打擲し若し右の留学生が再度朝鮮語を繰返すが如きことあれば貴様は留学生たるの資格なしと云って朝鮮内地に送還する、最近此の送還の憂目に遭った朝鮮留学生の数は頗る多い、而して其送還された学生は更に朝鮮に於て一層過酷な取扱を受ける即ち彼等が朝鮮に帰ると先ず総督府の憲兵から「貴様は何故に日本から追返されたのであるか、聞けば貴様は排日思想を懐いて居ると云う事では無いか」と詰責せらるるのみならず以後一切の自由行動を束縛さるるそうである 
或いは彼等を取締る事は已むを得ざる事情に出でたものとするも斯かる苛酷な手段を以て第二の朝鮮を形造るべき青年学生を束縛すると云う事は恰も排日党を日本自ら養成する様なものである。現に某朝鮮学生の如きは其身の潔白他意なき事を泣いて訴えたに拘わらず更に聞き入れられざるを憤慨して遂に自暴自棄、最愛の妻や児を棄てて遥々海外に流浪の身となった者さえある過般の騒擾に学生が主となって騒いだのも又彼等が満洲・支那及諸外国に逃亡して排日党と化するのも其主なる原因は上述のサーベル教育であるかも知れぬ 

差別的待遇
更に又翻って普通学校を卒業した朝鮮人の前途に就いて聞いて見るに彼等は極めて惨めな境涯に呻吟して居るのである、即ち彼等は更に進んで大学教育を受けんとするも其便宜を欠いて居るのである、又彼等に総督府に仕官せんとするも日本人よりは遥に劣等な待遇に甘んじなければならぬ彼等の受くる俸給は平均僅かに十八九円である、仮りに追々増給した所で最高三十五円以上貰う事は出来ぬのである、然るに日本人の方は仮令朝鮮人と同等の学校を出ても比較的多額の俸給を受けて居る、某朝鮮名士の談に拠ると、総督府の官吏に支払う俸給全額一千万円中其八・九割は人数の少い日本人官吏の占むる所で残り僅かに一二割だけが多数鮮人官吏の受くる所であると云う、教育ある朝鮮人の不平煩悶亦多少同情すべきものが無いではない 

(四) 苛斂誅求の弊 農民の苦痛大
農民に誅求
総督政治中更に大なる欠点は朝鮮の国礎を形造って居る農民に対して苛斂誅求の嫌あるの一事である斯く云えば総督府側は或は曰わん農民から種々の税や労役を徴するのは所謂仁政を施すの資を得んが為めであって彼の李朝時代に於ける苛斂誅求とは全然其性質を異にすと成程徴税の根本主義から云えば其れに相違ない、併しながら其徴税の結果を見れば李朝時代の苛斂誅求と左して選ぶ所がないようであるとも云う否、朝鮮人の談に拠ると徴税の手続が非常の煩瑣で且つ滞納処分の苛酷な事は時としては李朝時代の其れよりも一層甚だしく農民は之が為めに非常な苦痛を甞めて居ると云う事である、蓋し李朝時代に於ける苛斂誅求は単に富豪を苦しめるに過ぎなかったのであるが総督府の所謂徴税は動もすれば下層の農民を苦しめて居る傾きがある現に今の収税官は万一鮮民にして滞納する様な事があると其日の生活に必要なる鍋釜類までも無理矢理に之を押収すると云う話さえある 

強制土地徴収
殊に総督府が道路を築造する場合に当っては之に要する土地は全部農民から強制的に寄附せしむるのみならず其道路の工事の手伝いは勿論、出来上がった後の草刈掃除迄も一切無償で其土地の農民に行らせると云って朝鮮人は滾して居る近来外観の立派な道路が殆んど朝鮮全道に通ずる様になったけれども其反面に於て此の道路が大部分農民の強要的寄附と苦役とに依って出来上がったものであると云う果して真ならば如何に総督府の仁政なるものが農民に一大苦痛を与えて居るかが判る、現に彼等農民は今日でも尚其出来上がった道路の維持費は勿論、年二回の雑草刈取りの苦役をも無償で提供して居るそうである、然も総督府は此の憫むべき農民に対して更に同情を表しないのみか、若し彼等にして此の寄附行為を怠り又は賦役を忽にする者があると、直に厳重な刑罰を加えると云う 

農民の苦痛
二三年前総督府は朝鮮第一の名山金剛山を天下に紹介する為め、京元線の終点駅から同山の麓まで自動車の通じ得る様な大道を築造した事がある、所が此地方は山又山の難所で非常に工事が困難であった、然るに総督府は無理に同地方の農民に賦役を課して遂に之を造り上げたのであるが、之が為め同地方農民の大多数は先祖代々から譲り受けた大切な所有地を奪われたのみならず非常な苦役に服し中には病気の為め倒れたものもあったとさえ伝えられて居る然も総督府は此等憫むべき農民に対して何等の慰安を与えないのみならず其後も依然彼等に年二回ずつ此の道路の草刈りを命じ、万一之を怠った場合には其事情の如何を問わず上述の様な厳罰に処すると云う、斯様な次第であるから彼等農民の心中の不平煩悶は蓋し吾人の想像以上であろう 

農民と騒擾
現に過般の騒擾に参加した農民階級の人数が他の階級即ち天道教徒、耶蘇教徒学生及商人全部の参加人数に比敵する程多数を占めて居ったと云う事実に見ても、其如何に彼等の多数が現総督府に対して怨嗟の念を懐いて居ったかを知る事が出来る、而して其怨嗟の念が上述の様な事情から自然に培われたものだとすれば其罪は全く総督府の誤れる徴税方針にあると謂わねばなるまい、元来朝鮮に於ては二反百姓以下の小農民が多数を占めて居るのである、其多数の農民に対して総督府が過酷な徴税方針を採り之が為めに多数の破産者、失職者を出すと云う事は決して日本の為めに宜い事ではない、今や日本内地に於ては米の不足緩和の一方法として今後大に朝鮮の米田を改良拡張しようと計画して居る其重大時期に当り朝鮮の米作に多年経験を積んで居る所の彼等朝鮮農民を虐遇し且つ僅かの租税滞納の故を以て其家産を破らしめ、遂に路頭に迷わしむると云う事は朝鮮人の為めにも日本人の為めにも決して軽々に看過すべき事ではない或は斯の如き徴税の仕方は総督府の方針に非ず単に下級官吏の所為に過ぎずとするも監督の責に在る総督府は其責を免がるることは出来ない(一記者) 

(五) 過酷なる鎮圧手段 鮮人殺害の実況談
外人と騒擾
過般の騒擾に際して我官憲の取った鎮圧手段に就ては外人間に頗る非難の声が高い殊に朝鮮に滞在して居る某々国人は当時の鮮人戮殺の実況を写真や電報で各本国に送り伝えた、其れが又其国の新聞紙上に麗々と掲載せられた為め更に世界各国に拡がって行った。然るに我内地では此等の実情が少しも伝わって居ない、現に政府某当局でさえ、朝鮮在住の某国宣教師から其国の駐日大使に送って来たものを見て初めて其事の余りに大きく悲惨なるを知り遽に外務省から実況視察員を派遣した位である、従って我官憲が果して如何なる手段を執ったか未だ知るを得ないが併し支那及日本にある外字新聞は実地に其実況を見たと云う宣教師等の報告を長々と掲載して居る、現にジャパンアドバタイザー紙の如きも本月四日の同紙上に在京城の外人ミス フレーミス マーカー、コウインテーロ、ノーブル等に依って組織せられて居る罹災鮮人救済委員会なるものの報告書を掲載した、即ち之を左に訳戴する 
 
殺戮の実況
 水原の停車場の西方二十一哩のケンタリ町及其附近村落、チャイアム、スーチョン、ワチュリ等の都邑は日本軍隊の為め全部又は一部焼かれた、殊にワチュリにては其地方で一番大きな豪族の家が焼かれた。其家は三十七間(一間は八呎四方)の主屋と十七間の二階建から成って居ったが全部焼き払われ僅かに広大な邸内に門のみ残された尚此町では十三軒の家屋が焼き払われ三名の人が殺害された、又此処から半哩を隔てた或る小山の上の古寺も焼かれた、斯くて此村には耶蘇教徒の住むべき一軒の家もなくなった、即ち同地方に於ける焼失戸数は約三百十七戸で之が為め路頭に迷うに至った者か約一千六百人、又殺戮された者が三十九名に達した、尚附け加えて置くが此地方で一人の日本巡査が朝鮮人から石を投げられて死んだ、其原因は右の巡査が朝鮮万歳を唱えた一群の鮮民に発砲して一鮮人を射殺した為めである 
 次にチャイムに於ては悲惨□□人殺害事件があった其れは丁度□□十五日の正午過ぎであった其村は長サ五百碼幅一百六十碼の村で其中には四十戸の民家と一つの基督教会があった此の日日本の陸軍中尉は一隊の兵卒を従えて到着し二十三名の村民に講和を為すからと云って教会内に集合を命じた此命令を受けた者の内十一名は耶蘇教徒で他派全部天道教徒であった以上十一名の耶蘇教徒の内一名の若者は身を以て遁れ当時の光景を物語ったが其れに拠ると中尉は一場の演説をした後耶蘇教の本領に就いて質問した之に対しアンと呼ぶ鮮人がバイブルの教うる所を其儘答うるや中尉は耶蘇教徒の行為は其正反対であると云って教会から出て行ったすると此時迄教会の前に厳然と立って居った三名の士官と兵卒は一時に教会の方に向って発砲し而して多数を殺害した残りの二名は窓から逃れ出でたるも一名(ホン)は兵卒に射殺され一名は僅かに身を以て逃がれた教会内で死んだカンと云う青年は祖母、母、伯母、妻を一人で養って居った而して其妻は火に包まれた彼女の家を逃れ出でんとして日本兵の剣により頭を切り落された其時他の鮮人の目撃した所に拠ると日本兵は其死骸の上に藁を積み重ねて之を焼き払ったと云う事である又ホン氏の妻も夫が射殺された事を聞いて教会に赴いたが其途中に於て日本兵に射撃せられ僅かに二名の小供に助けられて家に帰ったが其夜死んでしまった尚其日其村から一寸隔った所に住む六名の耶蘇教徒も又野外に引出され射殺せられた 
 チャイムの両方二十里に在るアチャム村も日本兵の為めに焼かれ其処を遁走した一名の朝鮮婦人は一哩以上も追撃せられ遂に射殺せられた 

外人の非難点
以上の報告の真偽に就いては今直に断言は出来ぬ、我輩は其事実の無根ならんことを希う而して政府の之れに対する説明を予期するものであるが兎に角外人は之れを信じて朝鮮人に同情を表し又我官憲の処置を非難するものが多いことは注意を要する。而して其非難の要点は「全然武装をして居ない朝鮮人が仮令一種の示威運動をしたにしても之に対して恰も戦時に用うるが如き武力干渉乃至殺戮を行うと云う事は実に非文明、非人道の遣方で之が為め却て鮮人の敵愾心を誘致した傾向がある現に今回の騒擾が初めの内は消極的受動的であったのに中途から積極的、自働的になったのは全く日本の憲兵及警察が不必要なる武力を用いたからである」と云うにある 

(六) 内地人の非行 法官不公明か
内地人の横暴
我官憲の鮮人に対する態度は略ぼ上述の通りであるが我在留邦人の態度も亦一般に頗る横暴不親切である、彼等は兎角朝鮮人を蔑視し不法に彼等を待遇するの傾きがある、近頃も朝鮮内地を旅行して帰って来た人の話に郡山の附近で一邦商が孱弱い一朝鮮婦人を捉え、物を盗んだと云う口実の下に、彼女を路上の立木に縛り着け而して自分の伴れて居た番犬を唆しかけて彼女の手足に咬み付かしめ、彼女が悲鳴を揚げて泣き叫んで居るのを素知らぬ顔で見て居ったと云う、又某鮮人の直話に拠ると邦商の一部には総督府の官憲と結託して朝鮮人に金銭を貸し与え其間に随分不当の利益を貪る者もあると云う、例えば高価な土地や建物を抵当として僅か許りの金銭を融通し期限に為って金を返済して来なければ如何に其鮮人が延期方を哀願するも直に差押え処分を決行し其土地や建物を奪い取ってしまうと云う、殊に甚だしいのになると、返済期限を例えば某日の正十二時迄と定めて置きながら自分の時計の針を一時間ばかり進めて置き、返済人が丁度正十二時に返済に来ても自分の時計が既に一時に為って居るからと云って契約の不履行を責め結局土地や建物を巻き揚げてしまう其他朝鮮内地を廻って居る邦商の中には安い粗悪な品物を誤摩化して高く押売する者も少くないことは申す迄もないと云う 

何人の罪
尤も総督府では予てから此等邦人の非行悪事に注意を払い十分之が取締りに力を入れて居った筈であるから今日では最早や邦商中斯かる悪辣な方法を以て鮮人を苦しめる様な事は無いかも知れぬ、又無からん事を切に希望する次第であるが今尚お内地人と鮮人との間に色々な係争事件が頻発するのを見ると或は尚上記に類する様な悪事が我邦商の間に行われて居るのではあるまいか、是れは誠に困ったものであるが併し前稿にも述べた通り総督府自身が既に鮮民の貧富如何に論なく農民の所有地を強制的に徴収したり又無報酬で労役に服せしめたりするものであるから、所謂上の好む所下之に習うの道理で在留邦人も亦自然に斯くの如き非行悪事を行うに至るのではあるまいか、して見れば先ず総督府の態度から改むるの必要がある殊に進んでは此等の非行を取締るべき司法官の立場に就いて注意するの必要がある 

司法官の改善
元来朝鮮統治の上に於て最も大切なものは司法官である、司法官は最も厳正公平でなくてはならぬ、即ち内地人に対しても朝鮮人に対しても是は是とし非は非とする底の公明正大のものでなくてはならぬ、然るに我朝鮮に於ける法官の態度に就ては朝鮮人側に於て兎角不公明であると云って非難して居る又某外人の談に拠ると邦商中に上記の如き非行悪事が公然行われて居るに拘わらず之を大目に見たり又日鮮人間に訴訟事件が起きても兎角朝鮮人を押え、内地人を擁護する様な嫌いがある殊に総督や総督府の役人がする事になると其行為が如何に鮮人に苦痛を与えても更に之に対して異議を申立つる様な事をしないと云う真逆とは思うが若しも果して事実とすれば頗る怪しからん話で尤も是れには総督府の官制が然らしむる点もあるらしいと云う蓋し同官制は司法官の独立を認めて居ないからである、換言せば朝鮮に於ける司法官は総督府に隷属して居る従って若し総督に対して異議を申立つる様な事があると是が非でも休職を命ぜらるる虞があると云う、此点から見ると司法官の立場も確かに同情に値する、併しながら我内地商の非行悪事に就ては彼等は飽迄公平な態度を以て之が取締りに任じ朝鮮人をして衷心から我司法官に信頼せしむる様にしなくてはならぬ(一記者) 

(七) 事件の責任者は誰か 輿論は何故に冷淡か
 先月二十八日のジャパン アドバタイザー紙は朝鮮に於ける道徳上の失態(日本政府及日本人の責任)と題する某寄書家(アルバータス、ピーターと称す)の論文を掲載して居ったが是れは他山の石として日本国民の一読すべき価値あるを以て左に其大意を紹介する 
 
重大問題
朝鮮事件は啻に朝鮮人に取ってのみならず日本人全体に取って真に重大問題である決して之を不問に附してはならぬ、先ず吾人をして水原事件に就いて考察せしめよ、同事件は騒擾が止んでから二三週間後に起きた事件である即ち騒擾が平穏に帰した頃、初めて日本軍隊は水原の附近チームニーに到着し武装なき村民五十名を教会内に呼び集め突然彼等に発砲し且つ教会の建物を焼き払ったのである、当時此事件の実況を見た宣教師は直に代表者を長谷川総督の下に派して之を報告した。すると総督は其の事件のありし事を承認すると共に其の責任者を処罰した事及び斯様な事件は再び起させないと云う事を言明した元来今度の朝鮮人の行動は戦争行為ではない、彼等は何等の武装をして居なかったのみならず日本軍隊に対し何等の抵抗をも試みなかったのである、然るに日本の正式士官の率ゆる正式軍隊は此の無抵抗者を法律上の尋問にも附せず(正式法廷があるにも拘わらず)突然殺害したのである、是れは確かに犯罪行為で決して不問に附すべきものではない。

責任の所在
アドバタイザーが此事件を発表してから既に一箇月以上も経過した又世界の人々は此問題の解決如何を期待して居った、又長谷川総督は宣教師に対して責任者を処罰した事を明言して居った、然も尚お問題の解決を見ないではないか、元来本事件の責任者は其事件に直接関係ある軍隊の隊長のみではない、仮りに其隊長が総督の命令に違反した行動を取ったとしても其責任は矢張り総督の上にあらねばならぬ 

総督の責任
然るに総督は今尚お何等の責任を感じて居ないではないか、若し氏が真に責任を感じて居たとすれば既に宣教師と会見した際辞職の決心を表示し且つ此旨を東京に電報した事を告げたに相違ない、然も氏が単に責任者を罰したと答えるのみにて辞職云々の事を語らざりしを見ると氏は確かに責任を感じて居ないのである一体日本人は独り総督に限らず一般に道徳上の責任観念が乏しい、其証拠には今度の事件に関する一般の輿論は甚だ冷淡ではないか、朝鮮在住の日本人の中には随分教育あり地位あるものが沢山ある、然も彼等は総督に対して何等責任を問わないではないか、又東京は輿論の中心地である、然も之に関する輿論は少しも起って居ないではないか、即ち本事件に関して未だ何等の会合、何等の演説会もないではないか、政治家も政党も新聞記者も一切之を不問に附して居るではないか、是れは決して日本将来の為め喜ぶべき現象ではない、若し斯んな風に進んで行けば日本は今に世界の各方面から道徳的観念の低い国民として排斥せらるるに至るであろう、又日本人は軍閥のする事は何んな暴悪でも之を是認するものであるとの誤解を受け、遂には独逸と同じ様な孤立の運命に陥るであろう。

日本人の冷淡
日本人の斯かる事件に冷淡な事は今回の時間許りではない、七年前の共謀事件に際しても又同様であった、当時アドヴァータイザー及ジャパン クロニクル紙は今回と同じく盛んに其事件の真相を伝えたのである、即ち該事件は日本警察官の誤報から起きた事、而かも日本官憲は無法にも百五十名を捕え其内百二十三名を訊問に附し六名を死刑に処したこと、加之訊問最中、虚偽の白状を為さしむべく囚人の多くを拷問にかけた事、而して之が為め一二名は死し二名は狂人となり他は全部打撲傷を受けた事等を報道した、すると世界各国、殊に英米両国の輿論は翕然として起り日本官憲の所為に憤激した、然るに当時の日本の輿論は今回と同じく頗る冷淡であった、加之当時の責任者たる寺内前総督は間もなく内閣総理大臣に、又当時の警務総監明石大将は台湾総督に栄転したのである。此等の事を考えて見ると日本人には果して道徳上の観念があるか何うか疑わざるを得ない、即ち日本人には曾て英国の議会が印度人に対して為せるワーレン ハスチングの暴虐弾を劾した様な又米国の輿論が助けなき比律賓人に対して米国軍隊の暴挙を糾弾した様な道徳上の憤激心がないではあるまいか、尤も日本国民の斯かる事件に冷淡なのは一面新聞紙が彼等に事件の内容を詳報する自由を有せないからであろう、現に某日本記者は、吾々は日本軍隊の非行は之を充分知って居るけれども之を掲載する自由を有せないと語った、確かに日本には輿論を造るべき正確な報道はない、蓋し政府は事実の真相を国民に知らしめないのである、が併し之れは決して日本国民将来の為めに採るべき道ではない 

(八) 根本的改良を要す 司法官制度の改善
結論
要するに我朝鮮統治は武断専制の弊に陥って居る、朝鮮人に対し参政権は素より言論集会の自由をさえ与えて居ない、又彼等に不満不平を訴うべき公明な法廷をも与えて居ない、謂わば彼等に殆ど絶対の服従を強いて居るのである、之れでは到底彼等は真に日本に心服することが出来まい、仮令如何に仁風を鼓吹し善政を布いたにしても亦是迄我統治が表面上立派な治績を挙げ従来赤禿なりし山が漸く青味を帯び来った様に教育、交通、衛生、商業等総て著しく発展充実したと云いつつも此の武断専制が尚お其跡を絶たざる限り朝鮮人の不平不満は決して止むものではなかろう、否此儘に推移して行けば彼等は不言の間に無限の苦痛圧迫を感じ其憤慨反感は年と共に鬱結して遂に又過般の如き暴動を惹起するに至るであろう、故に我政府及国民は決して一時の鎮圧を以て満足しないで根本的に之が改善を図らなくてはならぬ、蓋し之れ日本国民当然の義務である 

河北新報 1919.6.23(大正8)
朝鮮統治問題
村松亀一郎

・・・騒擾事件の発生したる原因は固より種々あるであろう、が日本官憲の横暴圧迫という様な事が其有力なる原因を成した事は、何うも事実であるらしい、
実に在朝鮮の官憲の横暴は話の外な相で酷いのになると朝鮮人に臨むに恰も罪人に対するが如く常に圧制至らざる無きのみならず収賄涜職甚だしきは金品を強奪し婦女を辱むるというような言うに忍びざる悪業を積むだとさえ伝うるものもある勿論斯ういう事は稀に起る事であっても、それが誇大に吹聴せられ朝鮮人に対して日本の官憲は斯くの如く悪辣なものだという観念を与うる事は、慥に排日思想を誘発する動機たるに相違無い、夫れに役人許りでは無く一般内地人も亦常に軽侮の念を以て彼等に接し之亦横暴至らざる無き有様なので永い間鬱積した彼等の反感の一方ならざる事が容易に想像されよう。 
 我輩は明治三十八年日露戦争当時藤沢君や岩手県選出の故阿部代議士等と共に満洲軍慰問旁々彼地に赴いた時既に日本人の朝鮮人に対する態度を目撃して之は困った事だと思った、一二の例を挙げると我輩が俥に乗った、スルト向うから朝鮮の紳士が遣って来た、紳士は俥を避け様とした、所が俥屋の奴が避様とする方へ態と梶を遣突然紳士に突当って転がして置き乍ら却って散々毒口を叫いて其儘挽いて去ろうとする、其処で我輩大いに俥夫を叱責した所が、俥夫は済したものでナアニ此位な事をして遣らぬと癖になりまサア、とか何とか云って振顧ろうともしない又或停車場では鉄道の役人が何をしたか朝鮮労働者を酷たらしく殴り付け揚句の果てに彼等労働者の貴重なる道具の背負具を折棄た労働者は悲気に泣く傍で警官が見て居て制し様ともせず知らぬ顔をして居た又或時途上で一人の日本人が朝鮮の風俗で婦人が被衣を被って来のを突如捉えて被衣を捲り中を覗いた斯る事は彼地の風習として最も忌む処、何れは人妻であろうが、実に失敬千万な振舞と云わねばならぬ、此外言語道断と思われる数々の出事を到る処で目撃し将来の累を思うて私かに寒心に堪えざるものがあった。 
 我輩が渡鮮したのは勿論併合前であるから其後風俗や何かに余程変化を見たに違いないが内地人の此圧刮暴慢は併合後猶今日に至るも矯正されず、其の上に総督政治下の役人の圧迫不正が行われたとすれば鮮人の反感も強ち無理では無いで此度の暴動など確に其一因が此処に発して居るに相違ない。 
 併合後道路か非常に立派になったと云って総督府の役人は誇って居るけれ共段々取訊すとそれは総督府で賦役を命じ人夫を只使って行ったものだ、又併合後朝鮮人は非常に幸福になったという、無論幸福になったに違い無い。けれ共彼等の風俗や習慣等を改めるに就ては漸を以て不知不識改めるならいいが法令又は権力を以て強制的に改廃する事は植民地の統治上其当を得たものとは云われぬ、風習や其他の改廃に依って彼等が真に幸福を感じて居るか否やは疑問とせぬばならぬ。 
 圧制話の序だが、過般憲政会総務の某氏が原首相へ質問した事件がある、それは某外国雑誌へ載せて居た報道を都新聞が訳載した事実で、実に驚嘆すべき事件が報道されて居る、何でも朝鮮のある地方部落で日本の巡査が虐殺されたすると軍隊がその村へ急行して老若男女を問わず村民一同を其処の教会堂へ集めた、村民は多分一応取調べを受けるか或は説教を聞かされる位の事に思って参集した、所が一同教会堂へ這入と其儘戸を悉く閉鎖し逃路や塞いで置いて一斉射撃を行い之れを戮殺したという事件である、米国の宣教師などが此の光景を目撃して直ちに本国へ通信した事は云うまでもない此事に就て原首相も全然打消さなかった処を見るとそれが事実らしく偶在米の朝鮮独立運動等に立派な口実を与えた、斯かる事が凡て彼等に一層反感を募らせる本となった、而も彼等は之れ日本の総督政治の然らしむる処と考え総督政治を嫌う事蛇蝎の如きものがある、事実彼等をして此処に至らしめたのは武官総督政治の弊であるかも知れぬ、今にして根本的革正を断行するに非ずんば今後如何なる事件が勃発せぬとも限らぬのである。 
 殊に寺内総督の統治の方針が今猶大なる禍根をなして居る、寺内総督は先ず盛んに新聞政策を濫用し在朝鮮の新聞をして総督政治の善をのみ報道せしめ断じて悪きを掲載せしめず事実若悪ありとするも之を善に曲げて報道せしめ偶内地の新聞等にて悪政を摘発し若しくは不利益の記事を掲ぐるものがあれば直に之を押収した、其の他凡てが此の陋劣なる遣方であったから情弊纏線物議紛々総督府は方に暗黒の府と化せる観があった今次の騒擾事件に依って之等朝鮮統治上の悪政は遺憾なく暴露されたと同時に総督政治革正の叫びが国内の与論を喚起した。 
 今後は飽く迄国民の与論に随い真の民政を以て文明的政治を施さねばならぬ、就ては武官のみを総督に任ずるが如きは不可である、と同時に従来の制度を改正しなければならぬ、苟くも政党内閣たるもの之位の制度改正を断行し得ない筈はない、且朝鮮人に或程度の自治を許し、官吏任用等に関しても日本人同様の待遇を与えて遣るべきである、彼等と雖も相当の学問あり才智勝れたものが少くない才能あるものを其処を得せしめざるが如きは大いに不可である、勿論教育の方法も大いに改めなければならない、兎も角此の機会に於て従来の総督政治に大革正を施し凡ての禍根を絶たなければならぬ然らざれば何時復た過般の如き事件が勃発せぬとも限らぬ。 
 内能く統治が行なれて居るなら他の煽動の如きは敢て意とするに足らぬ筈である。(談) 

大阪朝日新聞 1919.6.24-1919.7.2(大正8)
文官か武官か (一〜九)
朝鮮統治の方針

(二)
 政治は時代に適応したものでなくてはならない、昨今非難の焦点になって居る寺内式の武断政治も決して併合の最初から悪政であったとは云えない、其の当時に於ては、民心も定まらず併合に反対せる反日派の勢力も中々侮る可らざるものがあった、此時に方っては威圧は唯一の手段であった、全道に憲兵を配置し、苟くも不穏の言動に出づるものあらば一歩も容赦せずとの態度を示したのは、其時代適当の措置でなかったとは云えない、其証拠には当時之に反対したものもなければ、又文官総督説を主張したものも無かったに見ても分る。 
 併し乍らそれは永久の政策として承認されたのではなかった、便宜から出た一時的の政策として已むを得ないと云うに過ぎなかった寺内総督の取った併合当時のやり方は即ち一種の戒厳令であった、戒厳令は平穏に復すると同時に徹せられなくてはならぬ、寺内総督に対する非難は、その十年一日の如く戒厳令の布きっ放しという点にある、長谷川総督に対する無能の声も、要するに此の前総督の遺した戒厳令墨守の愚を責むるのである。 
 某貴族院勅選議員曰く『寺内は其子の小学校時代に買ってやった靴を中学に入っても大学に入っても穿かして居る、足が破れるか靴が破れるか、其孰かでなくてはならない』と今度の暴動の如きは足の痛みに堪えずして起った必然の成行である。 
 当局の弁明中には、今度の暴動の原因としてウィルソン氏の民族自決の宣伝と、露国過激派思想の流入、及び某々国の尻押、外国宣教師の煽動を数えて居る。 
 若し当局が自己の責任を回避せんか為めの手前味噌としてならば兎も角、真に斯く信じて居るものとすれば、其愚や及ぶ可らざるものかある、当局の列挙する原因なるものは、我々より見れば、或は暴動を起す一の動機を与えたる副因ではあろう、けれども主因は飽迄其の失政に在るは争われぬ事実である。 
 寺内伯は我国軍人中出色ある政治家である、其人にして既に此の失政がある、武官総督の非なる自から明瞭ではないか。(一記者) 


(三)
 若し寺内伯の失政を一々事実に就て書くならば、恐らく読者は其煩に堪えまい、吾等は徒らに死児の齢を数えるを好まぬ、吾等は過去を繰返すよりも、将来に就て一層深く考えねばならない。 
 併し寺内伯の違法が今尚儼として存在し、其制度や施設の方針に変改を好まぬ官僚があり軍閥があり、而もそれが現在の政界に於て大なる勢力の一つである以上、吾等は建設工事の前に、先ず取毀しから着手しなければならない。而して何を第一番に取毀すべきかと云えば、それは総督政治に於ける根本の誤想である。 
 寺内伯の頭には参謀本部と内閣が雑然として同居して居たかの如く見ゆる、彼れは参謀総長即ち総理大臣であり、総理大臣即ち参謀総長であると云うが如き極めに明白なる誤想に陥って居たと見らるる、彼は徳川時代の将軍が武人にして政権を持したと同じ考えを以て朝鮮に臨んだ、彼は総督は文武を統轄すという文字其儘を、何等法理上の考えを加えずに実行した即ち政治と軍事とのけじめに就いて明確な観念を有たなかったと云える。 
 此の誤想に基く最も大なる産物は憲兵制度である、朝鮮に於る憲兵制度の害に就ては今日に於ては既に一般に認められ、官僚の間に於てさえ之が撤廃が盛んに唱道されつつある有様で、最早議論の余地なきものとせられて居る、吾等の知る範囲に於ても、某枢密顧問官の如きは熱心なる憲兵制度の反対論者である。今の警視総監岡喜七郎君は統監時代の警務総長であった、彼は憲兵制度を布かんとする寺内伯の意見に逆らい警察制度を主張した一人である、而して朝鮮を追われた一人である、現在山県朝鮮政務総監ですら、憲兵の有害を唱える一人ではないか。 
 今度の暴動が総督政治に対する反感から来たとは既に云ったが、その総督政治を代表するものは実に直接人民に接する憲兵である、憲兵に対する鮮民の感情は殆ど仇敵に対する如きものがある、無智の鮮民の間には独立運動の何物かを解するは稀である、而も彼等が一斉に蜂起し到る処憲兵の駐在所を襲うたのは何が故か、吾等は寺内伯の武断主義を中心とする官治万能主義、干渉主義、圧迫主義が憲兵に依って代表せられつつ斯程まで鮮民に反感を与えたかに想到し時代錯誤の政治が齎す其結果の恐るべきを痛感せずには居られぬ。(一記者) 

(四)
 更に寺内伯は軍人政治を押拡めて、文官の軍人化を望んだ、其頃の総督府の文官にして、制帽の冠りよう、佩剱のブラ下げよう、挙手の腕の角度にまで寺内総督の小言を喰わぬ者はなかった、是等は取るに足らぬ一小瑣事の如くであるが彼の武断主義が如何に徹底的であったかを語るには十分であろう。 
 文官の軍人化は尚恕すべしとするが、朝鮮の山河を挙げて軍国主義の犠牲たらしめんとせる寺内伯の諸種の施設に至っては其関係する所極めて広く且重大であった。 
 一例を挙ぐれば、朝鮮全道に亙る道路修築の如き是れである、素より朝鮮には道路と称すべき程の道路はなかった、寺内総督が之に着眼し、産業の開発に伴い交通機関の必要を将来に期し先ず道路の修築を思い立ったのは極めて緊切な事であったと云わねばなりぬ、寺内総督の事業とて一から十まで悉く悪い事のみではない、彼が朝鮮に禿山なからしむと豪語して植林に鋭意した如きは、何人も双手を挙げて賛成する処であった、道路修案の如きも、其思い立ちの極めて適切であった事を否む者はない。 
 併し愈着手せられた暁に及んで、内地人は失望し朝鮮人は泣いた、それは総督府の計画せる道路が余りに実際と懸け離れた事と、一つには其道路の用地を凡て寄附に竢ち工事は凡て朝鮮人の賦役に竢った事である、彼等鮮人は無代価にて土地を取上げられた上に労力をも無代に提供せしめられた、而して出来上った新道路は、実に内地に於ても多く見られざる程の立派なものであったが、之が真に交通に役立つものでなかった事は為めに怨嗟の声を一層甚だしからしめた。試みに大田(湖南鉄道の分岐点)より公州(道庁所在地)に至る新道路を見よ、坦々たる数理の大道は人の往来が無い為めに雑草が茫々と生えて居るではないか、鮮人は此の立派は新道よりも却て細い旧道を辿るのである、而も鮮人は此の無用の道路の為めに毎年草取りの賦役を課せられなくてはならぬ。 
 斯る例は各道到る処にあるであろう、然らば総督府は何故に斯の如き無用の道路を作ったか、是れは尋常人の了解に苦しむ所であるが寺内伯を為政者として見ず軍人として見る時は此説明は容易である。京城に遊んだ者は、市中の電車が街の中央を走らずして必ず街路の片側に偏して居るのを見る頗る奇異の感を抱くであろう、寺内伯は最初より電車線路に道路の片側に寄せて敷設すべしと命じた、其理由は『軍隊の通行に邪魔になる』と云うに在る。 
 即ち寺内伯の交通は、人民の交通にあらずして軍隊の交通を意味するのである、彼は一朝有事の際を仮想し、道路と云わず殖産と云わず、凡て軍事上の目的を第一とし、人民の為めは第二段の目的とした、軍人としては当に斯くあるべきである、吾等は軍人としての寺内伯を責むるものではない、唯軍人が政を執る場合は、此傾向を免るる事の出来ないと云う事を切言せんとする者である(一記者) 
 
(五)
 武官総督の支持者の一人たる某貴族院議員は最近に恁う云う事を語った 
 朝鮮人の文化の程度は未だ独り歩きの出来るまで進んで居らぬ彼等には一定の信念がない、日鮮合併が日鮮両者の為めに如何に必要な事であるかに就て深い考を持つまでに自覚が足りない彼等の心は常に動揺して居る、何者か之を煽動するものがあれば直に附和雷同する、此の意味に於て頗る危険性を帯びて居ると云わねばならぬ、斯る人民に対しては少しも取締の手を緩める事は出来ぬ、朝鮮総督が威信を以て彼等に臨むという事は最も大切な一の条件である、文官の長官を以て総督に代えると云う其主旨には賛成であるが、それは将来の希望であって現在の朝鮮には適合せぬ制度である。憲政会の加藤高明子が朝鮮に自治を許せと云ったのも、今直ちにと云う意味ではありますまい朝鮮人にして文化が進み自覚が出来れば文官の長官どころではない、モッと進んだ制度に改正さるべきである。次に今日文官で不便な点は、今回の如き騒擾のあった場合に、次官では軍隊を統帥指揮する権能がないから敏速に鎮圧の運びがつかぬ、又平日にあっても長官の命令は軍司令官に及ばぬから勢い二個の頭目が並び立って鮮民に対する事となり此間に少からぬ弊害が生ずるを免れぬ、是は韓国時代にも経験した事で、当時韓国の大官が我公使館と駐韓軍との間に往復して離間中傷反間苦肉の計を用い大に我を煩わした事は今尚は記憶に新なる所であろう最後に暴動の後に直に総督を廃し文官にする―即ち暴挙鮮民の云うが儘にすると云うは彼等をして慢心増長せしめ、要求せんとせば先ず暴動を起すべしとの悪風を将来に胎す虞れがある 
 要するに某貴族院議員の説は、(一)鮮民に対する威信の必要(二)軍隊の統帥指揮に関する権能の必要(三)今日直に文官にするは鮮人に軽侮の念を生ぜしむる事等である、蓋し武官制支持者の説は多く此の範囲を出でない、吾等の直接聞く所も主に此説に外ならぬ。吾等は今一々之に就て詳細なる反駁を加うるの必要を認めない、只一言して置きたいのは、威信なる者は、総督其人の威信を指すものであるか、或は本国の威信を指すものであるかと云う事である、吾等は総督の威信は即ち本国の威信であって、武官たるが故に威信があり文官たるが故にそれがないとの議論には到底推服し能わぬものである、殊に一種の威嚇であり圧迫であるが如き意味を以てする威信論には全然同意し能わぬものである、此の意味の威信が今回の暴動の最大原因であった事は既に屡縷述した通りである、況や彼等の最も大切にする威厳が、今度の暴動に於て全く蹂躪された観があるに於てをや。其他軍隊指揮に関する不便の如きは今更論ずるにも及ばぬ、政府は現に関東都督を廃し庁長官を置き別に軍司令官を置いたではないか、若し軍隊指揮権が其長官に於て必要とせらるるならば満洲の如きは朝鮮以上に其必要がなくてはならぬ。 
 第三の鮮人増長論に至っては実に言語道断の暴論と云わねばならぬ、若し文官総督を是なりとするならば、暴動後であると其以前であるとに係らず直に実行すべきである、鮮人の要求であるが故に与う可からずとの理由は無い筈である、鮮人の要求なるが故に与うべく吾等は寧ろ甚時機の遅れたるを憾みとするものである(一記者) 
 「附記」此稿を草しつつある時突然朝鮮から李完用伯一派の連中が文官総督制反対、武官総督制特続を其筋へ陳情の為め上京した、これ等貴族の運動の裏面には錯綜した種々の事情ある事を知って居らねばならぬ、一面に於て彼等両班中の党争があり朝鮮人民の彼等に対する反感に備うる自己保護の用意があり、又更に之に乗じて彼等を使嗾する或者があるを知らねばならぬ彼等の上京を以て朝鮮人の間に武官総督を謳歌する者があると速断する者があらば、其は非常な過訣に陥らねばならぬ 
 
(六)
 又某枢密顧問官は曰う、『軍人政治にも弊害はあろう、それと同時に政党屋の政治にも亦遽に首肯の出来ないものがある、云う意味は、朝鮮の如き重要なる植民地に長官たるべきものは、相当の年月を以て徐ろに地積を挙げる覚悟がなくてはならない、即ち一定の計画を樹て之を遂行するには時の力というものを度外視する事は出来ない政党内閣に於ては朝鮮の長官だからと云って他党の人物を持って行く訳には行くまい、政友会内閣の時には政友会の人が任命せられ、憲政会内閣になれば直に更迭を余儀なくせしめらるるが如く、長官の地位が常に動揺し、其政策を完全に行う能わざる憾みがある。』と 
 此は現在、我国の如き政情の下に在ては有力であり一理ある議論である、政党の政治的良心が一層発達せざる限り、官職其他を党略に利用するは免れざる処であるが一面より云えば、政党が責任内閣を造る以上は、反対党の政策を奉ずる者を自己の内閣に列せしむる事は出来ない、此の理由に依りて吾等は陸海軍大臣の文官説をも主張するものである。朝鮮の総督(若くは長官)は大臣格である、内閣の更迭と共に更迭して決して差支あるを見ぬ、前者の政治に慊らぬものがあって新しき内閣は出来る、朝鮮総督も併合以来度々更迭があったならば、或は進んだ政治が行われ、暴動の如き醜態を演ぜずして済んだかも知れない、然るに朝鮮総督は僅に二代に過ぎぬ、否或意味から云えば全く一代だとも云える、何となれば長谷川総督は之を二代と見るには余りに前任者との相違がない、吾等は寧ら寺内総督の延長と見る方が至当の見方と信ずるからである。 
 之に就ては朝鮮に於て寺内伯と終始して居った児玉秀雄伯が恁う云った『朝鮮は官民共に停滞し沈澱し過て居る、凡ての点に於て改革すべき時が既に数年前に来て居た、政治は常に時代と共に進み時代と共に変化しなくてはならぬ』と、又新に出来た公正会の幹事某男爵は云う、『時代と共にと云うは語弊がある、時代より一歩先に行かなくてはならない、朝鮮人の要求に依って与うるものがあらば要求に先だって与うべきではないか、』と要するに同一の頭と同一の政策が、時代を見ずして一処に所謂沈澱するは断じて排斥すべきである。(一記者) 
 
(七)
 ジャパンアドヴァータイザーの紙上に報道せられた水原の惨殺事件は寝耳に水の驚きを以て内外人に読まれた、吾等は事件の真相が何の位の程度のものであるかを知るべき十分な林料を手にしなし、僅に外字新聞や在朝鮮の米国宣教師の吹聴から、之を想像して見るに過ぎない、之に関する最も多くの材料を有するは吉野作造博士であると開いて居るが、博士の発表がないから知る由もない、守屋此助氏は頃日朝鮮視察談を試み多少此事件に言及して居るが余りに簡明で事も無げに物足らぬ心地がする。官憲は黙して何事も語らぬ、原首相も憲政会の質問に対し、余り大した事でない様に云って居る。 ・・・
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神戸新聞 1919.7.3(大正8)
朝鮮統治改革案
内地同様の自由を与えよ
法学博士 吉野作造

朝鮮騒擾は武力主義に依り辛うじて鎮圧し得たるも其の手段の裏には、日本人の野蛮性を発揮せる跡歴然たるものありて痛嘆に堪えざる次第なり、而も今日事件の鎮静に帰するや、将来に対して、文明的政治の必要なる所以を、国民は異口同音に唱うるに拘らず、直接政治に関係するものの中には、殆ど忘れたるが如き雲煙過眼の態度を以てするものあるは奇怪に堪えず蓋し朝鮮の将来を如何にすべき乎、合理的統治の最高目的を達すべく如何なる手段を以てすべきかは、慎重考慮を重ぬべき我国民の一大懸案たるを失わず、此の意味に於て朝野の識者を網羅する、朝鮮統治調査会の如きを設け、尤も有効適切に調査機関の作用を発揮せしむるは、刻下の急務と信ずるも、その調査会たるや、勿論外交調査会の如き、屋上更に屋を架する、而も政治的機能の遅鈍なる官僚的なるものと同一視するべからざる機関たる事を前提とせざるべからず、即ち朝鮮自治問題乃至独立運動の如き此の機関に依り、慎重研究考慮を重ねて然るべきものなり、而して茲に吾人は吾人の信ずる最小限度に於いて朝鮮統治の四大改革案を提唱し、汎く世人の公正なる批判を仰がんとするものなり、即ち(一)鮮人の差別的待遇撤廃(二)武人政治の撤廃(三)同化強制政治の撤廃(四)言論自由の保障なり、鮮人に対する差別的観念は、恐らく今日の統治の最大、而も根本的錯誤にして、統治のあらゆる方面に、其の弊害を顕著に認むるも、その最も甚だしきは、人間能力開発の機関手段たる教育に差別を厳重に設け、朝鮮に於ては小中学校の数に於て著しく少く、程度又低劣なる事なり(小中学を通じて修学年限八年)而も内地人児童の就学に就ては学校組合補助規則の如き頗る完備するあり、鮮人児童をしてその恩典に浴せしめず、内地人も又鮮人の該組合加入を絶対に拒絶し居り、就学に差別顕著なるのみならず、鮮人にして高等教育を受けんとするものには、所謂手加減にて極力阻止し居るため強いて高等教育を受けんとするものは、難関門を突破せざるべからず、又人材の登用に就ても仮令ば官吏採用の如き、特殊の懐柔的目的を以てするもの以外に、甚だしく差別を設けあるは、差別そのものか不合理なるのみならず、所謂悪吏に依って政治の著しく混濁せられつつあるを知るべし第二の武人政治撤廃は今日殆ど世論となり、政府も改善の意志ありと雖も、由来朝鮮統治は文人ならざるべからずとする理由もなく、同時に現制度の如く武人ならざるべからずとする理由も更になし、軍閥の主張する如く、統治に軍隊を必要とするならば、陸軍部を設くれば足るべく、今日の軍閥が武人総督制を固持する心意は、寧ろその廃止に依り、根底に潜在する武官の専断主義に動揺を来たすを怖るるにあり、故に今日の朝鮮政治は形式に於て二重政治に、実質には武官専断政治の二つの弊に陥りつつあり、此の点の弊害は寧ろ内地人も当惑し居るものなり、併しながら有形的施設に顕れたるもの、悉く悪政治と謂うべきにあらず、仮えば道路政策の如き彼等の誇称する如く、一見甚だ善良なるもの無きにあらざるも、道路を造るに土地の寄付と労力を強制し、修理に又労力を強制する事に依って、惹起されつつある弊は、決して軽視看過すべからず、第三の同化政治の強制は朝鮮人に向って一切の伝統を棄てて、日本化せよとする態度は自己は歴史を尊重するを以て、民族の美点と誇称する日本民族として、一朝他に対する歴史を忘れよ、伝統を棄てよと主張するに至っては大なる民族性矛盾と謂わずして何ぞ、斯くの如く形式的偏狭なる強制同化の結果、朝鮮人をして表面同化追従を装い、内に反感の念を高め、徒らに民族の堕落を来すのみなり、第四の言論自由の拘束は内地に於ても真善に、その理由あるに非ざるも、朝鮮に於ては甚だしく、故に必ずしも絶対的自由を与えずとも、内地同様の自由を与えよと主張するなり、今日の如く朝鮮統治に関しては、内地人にも所謂「知らしめず依らしめよ」の方針にて、憲法に保証せられたる政治批判の自由すら、拘束するが如き結果は、決して統治の前途に光明を認むるものに非ざる也。 

福岡日日新聞 1919.7.5-1919.7.11 (大正8)
日本の帝国的野心 (一〜五)
排日米人の妄論
極東通信局長 ゼンクス博士 (一)

本篇の筆者は現に米国極東通信局長として辣腕を揮っているが彼は嘗て支那の幣制改革に特別任務を帯び米国の国際交換委員として支那に活躍し米国の為に功績を挙げ米国の東洋通として推さるる者本篇は米国月刊誌カーレントオピニオン六月号に掲げて米国人の対日感情を煽り東洋研究者に誤読されつつあるもの、他山の名として訳せん・・・

朝鮮の暴動
日本人の支那に於ける将来はその朝鮮に於ける行為から予断されよう、日本が朝鮮を併合して以来、その統治の精神は、兎も角も伊藤公の死後、朝鮮人を啓発し賑わすべきものではなく、彼等を属領の臣民とし朝鮮人を圧迫せんとするに過ぎなかった、菲律賓諸島や埃及や印度では、往々不平を漏らすに拘らず土民等は其の政府の恩恵の多きを認めている、朝鮮では左様でない朝鮮人は有利の地位を与えられず里長村長にさえも命ぜられていない、彼等は劣等人種として扱われ自国語を教える事を禁止され、外国遊学も許されず、ただ朝鮮と日本の高等小学校で学習する事が出来るだけだ、そこで此の被圧迫民族の革命が来た、且つ革命者は何等抵抗せぬに、非常に蛮的に苛酷に取扱われた、従って在留の英米実業家宗教家等の抗議を喚び起した、が之にも耳を傾けなかった、日本のデモクラシーの理想は大隈侯が最近に言った通りに恩専的専制主義である、侯の言葉を借りて言えば日本政府は人民の幸福に対して隻眼を開いて施政した、そして皇室は民本主義の標象となって来た、故に私はデモクラシーが恰も日本に事珍しい新思想の様に談ずる者は日本国史を知らぬ結果だと断言して憚らない」と
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時事新報 1919.7.7(大正8)
武官総督非なり

・・・故に此点に於ては我輩の如き自ら其不明を告白するに憚らざるものなりと雖も蓋し朝鮮の統治上に武人的な威容を必要と心得たるは単に軍人の一派のみに非ざるが如し現に総督府の前身なる統監府設置せられ故伊藤公が初代の統監に任ぜらるるや同府官吏の服制を恰も軍服類似のものと為し公の如きも自ら統監服に剣を帯び揚々得色あるが如き態度を目撃したるときは既に文勲の赫躍たるものある此老も尚お此種の痴心を脱せざるかとて独り密に失笑したることありき服制の一事、以て其施設の方針を卜するに足る可し況やいよいよ合併の後に於てをや更に輪を掛けて総督の地位を軍人に限り土地の父老に接し其子弟の教育に従事する学校教師までも制服帯剣、教場に臨ましむるの一例を見ても統治の方針如何を知る可しと雖も要するに今日まで斯る制度を実行し斯る方針を維持しながら国論に甚だしき反対を見ず遂に今回の如き事件を発生せしめたるは吾々国民も亦その責なしと云う可からず
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時事新報 1919.7.8 (大正8)
枢府異議無し 監督官制改正=本月中に解決
元老枢府諒解=文武両面候補

是より先政府は枢府有力者の面々にも夫々内交渉を試みたるに文武併用には異議なき模様なるも朝鮮統治の刷新を希望する向多く殆んど之を条件とする位の口吻を洩らす者さえあり斯の如く官制改正は元老「松方侯にも山公同様の諒解を得たるは勿論」枢府各方面に故障なきことを看取したるも後任の人選は政府の最も難事とする所にて
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大阪朝日新聞 1919.7.27-1919.8.22(大正8)
朝鮮の進歩に着眼せよ (一〜三)
京城特派員 橘香橘

(一) 騒擾の三大原因
朝鮮這般の騒擾は一部頑冥なる儒生両班等の妄動と異なり近因は排日不逞鮮人及び天道教徒の煽動、基督徒輩の策□□端を発し、而して其妄動の機会が例の巴里平和会議を利用して民心を煽動したものであることは更めて説く迄もない、陰謀は久しき以前より着手せられ全国一斉に蜂起し、而して其運動は附和雷同の暴徒は論外として一般に比較的穏健に、秩序を立てて遂行せられ其中堅は内地で育てられた学生並に智識階級の者なりしを見れば此の騒擾が単に一二耶蘇教輩の妄動とのみは見ることが出来ない、然り騒擾の根元は実に併合当時より助成せられ来れる政治的不満と一種の平ならざる思潮とが爆発したものである、仮りに政治の善悪は別としても這般の如き騒擾は我当局に対し少からざる戒めとなる事は否むことが出来ぬ、騒擾の三大原因を挙ぐれば 

一、併合以来五年寺内総督によりて創められたる不徹底なる報告政治、武断統治より来れる善意の悪政が既に騒擾の素因をなし居るに拘らず長谷川総督に至りても之を改むるの明を欠きたる事 
二、在鮮内地人の島国根性が新附民衆との融合を妨げ反抗的思想を助成せしめたる事 
三、世界の大勢より来れる朝鮮人思想の変化と人類本能の発現 

寺内伯が朝鮮に●みて挙げたる功もあり長谷川総督が更任してから又其短を補った功も吾人は決して之を絶対に認めぬというのではない、只寺伯が貽した肝心の病源が何時までも存続して百の改正も畢竟ずるに枝葉に止まり遂に其根幹と触るる事能わざりしを深く遺憾とするのである、朝鮮総督として寺内伯の第一の欠点は軍紀と官紀を混同した事である、伯の階級思想は絶対で下僚に対し上官の命令は殆んど理解を加うる事すら許さずして只々死守を厳命した伯は此妙諦(?)によりて自己の意志を全道に徹底せしめ得べしと浅薄にも早了した、伯は総ての官吏を兵卒扱いにした、山県政務総監の如きすら意見を開陳するも決して耳を藉さなかった、況んや政務協議のために開かれて居る各部長官会議の如きは単に寺内宗の説法聴聞会に終り唯一人面を向けて侃諤の意見を述ぶるものがなかった。 
 
(二) 船頭多くて舟は山に
寺内伯は功を急いで無闇に朝鮮を自分の型に鋳込んだ、財政独立を策し濫りに増税し法令訓示は雨下した朝鮮人は目を眩し且つ食傷した、其結果万事形式主義に堕して官吏は無気力、不誠実の代名詞となり常に印刷報告物の多寡によって事功の目安とした 
報告書の結論は必ず「民は仁政を謳歌し産業の成績頗る良好なり」と書かねば上司から受付けられなかった偽造報告作製に忙しい官吏が実質的事務を顧みないのは当然である寺伯は自分で吐いた蜘蛛の巣で自分の眼をギリギリに巻き掩うて尚悟らず其余弊は彼の民度に適せざる事務の形式が徒らに繁縟に流れ、昔時尤も簡易に行われた一群庁事務も今は半歳一年の長日時を要するという有様だ是では朝鮮人も呆れざるを得ない 
地方吏僚の勧業、教育、衛生等に対する施設は民意習慣風土の如何を顧慮せず遮二無二強行するから朝鮮人の反感を買うのみだ朝鮮人の有識者は皆「舟夫数多面船迷津」と笑って居る、更に記者が或る朝鮮人に「官府の指導誘掖は能く朝鮮人に徹底するや」と尋ねると答えて曰く 
 内地人官吏知識饒多ナルモ朝鮮人民ノ智識ハ低下ナリ其浅識ヲ考賦セズシテ百事ヲ指導ス可ハ則チ可ナルモ鮮民甚ダ或フ、或フガ故ニ内地人官吏更ニ指導ヲ加フ惑亦復加ハル其レ然リ果シテ両者得ル所ナシ好意変ジテ怨嗟トナル 
記者は民情視察をなすべく朝鮮服を纏い汽車中に一鮮紳士と筆談を試みた一節を摘記して見よう 

(記者) 内地人郡守鮮人郡守と比して可否如何 
(朝鮮紳士) 閲歴智識は内地人郡守鮮人郡守に優る、故に郡民変化あるべきなるも旧慣習俗に通ぜず鮮語を解せず又道書経書を知らざる者多し是等は鮮人郡守に劣る事遠し予は暫らく可否を言う能わず只内地人を基縄として●郡するに臻ると恐るるのみ 
(記者) 公は蚕業を営むや 
(紳士) 妻児小許是を飼養す、桑樹栽培の事指導懇到なり、却って枯死せしむ、嘆ずべし 
(記者) 指導懇到なるが故に桑樹枯死すとは甚だ怪訝なり如何 
(紳士) 道官吏、郡教師、農学校学徒呶々として指教す、其言う所多岐にして適従に迷う、其間幾日桑樹萎枯す呵々 
(記者) 新政中尤も民心に感銘することありや 
(紳士) 多く語るを欲せず只歛税の急催、旧慣の打破内地人の傲暴無情等新政の事績を蔽う真に歎ずべし 
(記者) 汽車の利便は新政の施措なるべし 
(紳士) 旧政時代汽車なし行族客機に幾日京畿に到る、今日喫煙談笑将に数百里を行馳す而も是れ開明の徳にして新政の徳にあらず、開明は日本天皇の賜なり、新政の官吏口に陛下の仁慈を唱うるも其真情は朝鮮人民に徹せず 
(記者) 新政勤倹質素の風を勧誘す、公の衣服袖緞羅絹なるが如し富者と雖も贅沢ならずや 
(紳士) 勤倹の事官吏郵逓吏是を勧誘す、聴くべし、実行は甚だ遠く且つ迷う其所似たるや官吏の徽章金線なり、衣服亦毛織物なり、而して佩劒徒らに長物是等の費用を節して官吏先ず躬行するに其衣を倹にして勧誘せば其効果大ならん是に反し現時の吏僚勤倹の説詰後置酒歓笑絃弊を洩らし、人を送迎するに笑婦を待せしめて淫酒を勧む、是の如きは庶民を帰服せしむる道にあらず、昔時聖人は治民の訣を実践躬行に置けり今時の官吏は口頭の語、眼前の教のみ民庶の感孚せざる将に是に因由す、危い哉総督政治 

と書いて更に記者に反問して来た彼れ記者に問うらく 
 「公は内地人にして朝鮮服を着く何故なりや又便否如何」と記者「郷に入りて郷風を趁うのみ他に故なし、温突の起臥内地服に優ること万々、且つ費用に於経済なり「彼れ莞爾として「公朝鮮の民情を知る敬すべし何官なりや敢えて聴くを得んか」記者「予江湖の処士のみ草莽の一布衣のみ」と答えて名を告げなかったが彼は尚残り惜げに見えた 
此一鮮紳の答は辞令巧妙であるが亦彼等の感情の一端を卜すべきである
 
(三) 国家的野望と本能的欲求
更に進んで総督府の民心誘導即ち教化政策の運用を見るに為政者は朝鮮人を一面余りに低能視し而して一面又余りに危険視して居る、故に朝鮮人を指導するに彼等の風俗習慣を無視し極端なる干渉主義を以て少しの緩りも自由も彼等に与えない、だから新政の恵沢によりて物質的幸福を享受しても彼等は此干渉の苦痛と多大の義務負担と法律的、社会的の差別待遇から来る不満不平とによりて少しも新政を有難がらぬのである、パンのみに生きたる朝鮮人もやがて権利を欲し言論を欲し自由を欲するに至るは人類当然の慾求である、故に吾人は這般の騒擾を(一)少数独立運動者の有せる国家的野望と(二)人類の本能より来れる社会政治に対する大多数者の慾求との二つの叫びが相合して発したものと見るを至当と信ずるものである、朝鮮に於ける非文明的言論の圧迫は最早吾人の呶々を要せない位有名なものである、寺伯は言論を統一せずして之を撲滅したのであるる其一面に於て又我党局は朝鮮貴族を余りに大きく買被って居る事を特記せざるを得ぬ、言う迄もなく彼等は併合当時勲功あるもの、而も時勢は一刻も停止して居ない今や彼等は一般社会から置去られた状態にある彼等の一挙一動は却って民間識者反感の標的となって居る騒擾に際して戒告文を発した某貴族なども一に利己的迎合主義に外ならぬと伝えられて居る最近東京で武官制撤廃について頻と説き廻って居る某氏の如きも全く自己吹聴であると解せられて居るなどに見るも現今新しき朝鮮人間の思想を窺うに足るであろう然るに当局は尚昔時を夢みて彼等を政治諮問機関として信頼して居る、心細い事ではないか 
 
(四) 新進登用と民論機関
朝鮮人の思想界も其中心は漸く新しい人、即ち当世の教育を受けた壮年者に移って居る彼等の中には弁護士も居る著述者も居る裁判官も居る宗教家も居る実業家も居る内外留学生も居る、其他益増加しつつある各方面の新人物が今や朝鮮の思想界を事実に於て支配しつつある然るに此階級の者に対して当局は何等政治的社会的の待遇を与えず寧ろ却って彼等を危険視し彼等を遠ざけんとしつつあるが如き傾きあるは誤れるの甚だしきもの、就中内地留学生に対し何等登用の途を構ぜざるのみか、彼等が留学中に於てすら彼の社会主義者と同様な監視取締をして徒に反抗心を招きやがて恐るべき排日的思想を醸成するの愚を為しつつある新しき人物を善用するの門戸を開きてこそ初めて朝鮮統治の妙諦に触るることが出来るのではないか、併合初年から内地人同様の教育方針の下に矢鱈に理想の型に朝鮮学童を鋳込もうと焦り却てそれが反日思想の一因となった由来忘恩的利己的と言われた朝鮮人が独立を叫ぶは何を物語って居るか吾人は深く之を考えねばならぬ 
朝鮮には何等民意を聴くべき機関がない是ら即ち上意下情相通ぜざる朝鮮特有の大欠陥である、道に道参与官あり郡に郡参与官あるもこは昔時韓国政府の下にありて虐政を施した官吏の古手が多く却って地方朝鮮人の怨恨の的となって居る此れも貴族と同様に無用の長物である、政治の百弊茲に萌す長谷川総督に至って初めて此欠陥を悟り改善の途に進まんとしたらしかったが未だ其根幹に触れて制度を刷新するに至らなかった民情の真実を聴くべき諮問機関の設置は現下の一大急務である而して言論集会の自由を許し(若し不逞の言論者あらば法に照して厳重なる取締を加うること毫も妨げなし)就中朝鮮文言論機関の創設を容れて統治の補助機関たらしむるの策は最も賢明なる措置である諮問機関は内鮮人各階級各職業より民選による代表者を以て此れを組織すべきである各部長官は進んで朝鮮人に接近し、朝鮮民情を聴かんと欲するも之が専属通訳官を有せざるが如き現状態では如何にしても徹底せる政治を施すことが出来ない 
 
(五) 朝鮮の進歩と伴わぬ憲兵制度
朝鮮に於ける憲兵制度の批難も随分久しいもので、之れが寺内伯に□□□□□□□□□□□□□□□□□□□る哉寺内伯は遂に憲兵制度と心中して猶悟らざるものである、さあれ併合当初に於ける憲兵警察制の必要は何人も否定せない世論の反対は云うまでもなく之を無意義に存続して其弊害を深からしめた点にある総督府は渦中に居りながら確に朝鮮の進歩に着眼することを怠った更に言を切にすれば朝鮮を指導した筈の総督が却って朝鮮よりも時勢に立ち遅れたとも云い得るのである 
現政府は既に輿論に察して此制度を廃止するの方針らしいが吾人をして云わしむれば現下直に全部の憲兵網を徹し一時に一万の憲兵を引揚るにも当るまい之れを為すに自から時機と方法があろう、従来の状態は憲兵伍長直に是れ総督府警部である、分遣所長として辺陬の地にある、即ち直に是れ警察分署長であって他に官衙を有せざる地方では一部普通行政の衝にも当り村長たり町長たるの有様である然も彼れには更に大なる司法権の行使さえ許され検事の代理事務を執行するの権能を与えられて居るのである、憲兵必ずしも無学無識とは言わないが世情に疎き軍人気質で専恣横暴に陥り易きは理の当然である、之がやがて職権濫用人権蹂躪となる、地方に於ける憲警と文官との軋轢も総督政治の一醜態で、政務進捗の大障害を為した前述の朝鮮紳士が記者に答えた一節中に 
 昔時郡守苛斂誅求、寃属多し今此の事無し唯憲兵恐るべし懼るべし憲兵制度の弊は今言明を憚る、朝鮮人憲兵巡査(憲兵補助員及巡査補何れも朝鮮人)亦甚だ不良且卑賤なり 
とあり彼等はよくよく懲りたものと見える 
 
(六) 総督は時代の活人たるを要す
併し朝鮮に於ける弊害は決して総督府の専売ではない吾人は今や筆を転じて在鮮内地人に加えざるべからざるを遺憾とする、即ち騒擾事件の責任一半を彼等に分つべきである言う迄もなく朝鮮は欧米人の所謂植民地ではない内地人が朝鮮を矢鱈に植民地呼ばわりすることは朝鮮人に取り大なる不平である朝鮮人は法令又は条約に於いて規定せる外は全然内地人と同一の地位を与えらるべきもので爾来此方針によって施設経営を進め来ったのである、然るに最近朝鮮人が進歩して差別的法令の撤廃を叫ぶの声を聞くと共に我が内地人の朝鮮人に対する日常の態度は遺憾ながら総て政府の所謂一視同仁や、同化政策や、懐柔政策を裏切るものである是は内地人の島国根性に因るもので朝鮮人如何に愚昧でも此侮蔑圧迫には憤慨せざるを得んやである況んや新しい朝鮮人の智識階級は之を無教育なる在鮮内地人に比すればお話にならぬ程の差異で此等の優良鮮人が年々増加して来て一種の勢力を為すに於てをやである最近演ぜられたる京城弁護士会の紛擾の如き何等正当の理由なく只感情のために朝鮮人弁護士を排斥せんとしたるが如きは寧ろ内地人の劣等さを示した違例である、朝鮮人は或は増長傲慢の悪癖があるとも云い得らるるが併し夫は内地人が朝鮮人を劣等視して居る一種の愚情からで理智的判断ではないのである此感情に囚われて居ては両者の一致融和は決して期せられない記者は一度朝鮮服を着て出掛けた事がある 
 知人は何故朝鮮服なんか着るかと鼻先で笑った△人集りの場所に行くと内地人同志は込み合う中にも譲り合うが自分には少しも譲らない却って押出さんとする、国語で「押すな!」と怒鳴ると流暢なる言葉に驚き「巧い通訳だな」△汽車に乗らんとして改札口に至れば駅夫は背を突いて押し出す、込み合う二等室で車掌は内地人同志の席を斡旋すること懇到なるも自分には三等に行けがしの振舞をする車掌に其不都合を詰れば初めて内地人で新聞記者なるを知って恐縮措かず△内地人の商店に行く恰も品物を只で渡すかの様に突剱鈍に無愛想極まる△官庁の受付に行く給仕の奴自分を通訳と見て柄になき役人風を吹かす馬鹿!と一喝すれば彼れ面ふくらせて「威張る朝鮮人だな」△人力車に乗らんとして値段を問えば法外な事をいう馬鹿をいうなと躾むれば「馬鹿とは何だヨボの癖に」と言って反対に剱突を喰う 
以上は単に記者が実権せる一節に過ぎぬが我内地人の朝鮮人に対する態度は概ね此類である、然もこはその相手たる朝鮮人の上流下級たるに論なし多少事理を解する鮮人の内地人に反感を持つは当然であろう 
騒擾の真因は略上述の如くで騒擾後の民心は内鮮人で通じて殆ど四分五裂の有様である官憲と内地人との意志も甚だ融和を欠いて居る此時に当りて只武断政治、武官総督を廃して民衆の熱望する文官総督となし人心を新たにして徐ろに政治の改善を庶幾するの外途なきを切言する、政府は既に文武官併出制度に決したらしい蓋し妥協の本家たる原首相には夫れ以上の勇気は出ないものだろう幾ら併用としても武官は最早出る幕はあるまい苟くも世界大戦後の世界の大勢に順応し得る国民ならば速かに朝鮮に文官総督を置いて着々従来の弊害を芟除すべきである之が出来ぬ国民なら最早「世界の日本」として立って行く事も出来ないだろう吾人は日本国民の将来を朝鮮統治の手並に卜し得ることと固く信ずるものである日本人が支那問題に失敗するのは常に日清日露戦役を通じてのみ支那を観、最近支那の進歩に着眼せないからである是と同じく朝鮮も只単に過去の亡国的廃頽のみを観て現下進歩の機微を捕え得ない処に即ち朝鮮統治上の欠陥が胚胎するのである進歩に着眼するは即ち自ら進歩する時代の活人であることを知らねばならぬ(完) 

東京朝日新聞 1919.7.19-1919.7.29(大正8)
朝鮮総督政治に就て (一〜十)
武断政治の真相
京城特派員 橘破翁

極端なる言論圧迫
吾人が更に筆を新にして説かんと欲する所のものは即ち朝鮮に於ける非文明的言論の圧迫である、併合初年以来総督府は朝鮮言論機関の統一、否撲滅方針を樹て当時存在せる新聞雑誌中其能うべきものは買収し非寺内派に属する言論出版物は悉く発行を禁じ新に出版物取締規則を発布して総て許可制となして当時残存せる新聞雑誌以外には絶対に新発行を許さざるのみならず既存新聞雑誌の発行所移転、刊行物の改題、発行回数の増加等をも許さぬ方針を以て今日に至って居る、而して之等言論機関の掲載する所の記事なるものに対して総督府が如何なる方針を以て対して来たかというにこれは亦武断と言うか、頑冥と申すべきか、野蛮と評そうか、殆ど言語道断の非文明的圧迫政策を以て臨み来ったのである、世に「言論圧迫」とさえ言えば直に朝鮮を連想する程左様に顕著なる事実である、何人も知る如く朝鮮の言論は一二御用紙を除けば何れも自力自営の下に惨憺たる経営の苦楚を嘗めて居る、之に対して官憲は自己の官務とそれから自己一身の御用を強いて居る、筆端苟も官憲の批判に渉るか、官務の攻撃的論評をなすか或は上司に対する印刷報告を裏切る如き記事を掲げんか直に仮借なき圧迫を加え発行停止、発売禁止の如きは殆ど毎日の如く発令されたものである、只夫れのみでない、言論者の日常の行動営業の区域に迄追及圧迫を加えて遂に筆を抛ち彼に降るにあらずんば止まぬのである、我社歴代の京城特派員が寺内政治を論評するに尤も公平正大なる筆を揮って止まなかったが為めに危険思想宣伝者として監視せられ畏くも御上の御名代として任にある自分総督を攻撃する奴は国賊だといって有らゆる圧迫を加うべきを命じたという如き、又記者の如き嘗て寺内伯の為めに退鮮命令の憂目に逢わんとした事実もある如く彼れ寺内伯の言論対策は頑冥と非文明との時代錯誤に凝り固まって居ったのである 

(五)極端なる言論抑圧(承前)
当時の朝鮮各新聞雑誌に見よ、而して彼等言論者の声に聞け、何者か侃諤の言議能く官憲の非を誨うるものがあったであろう、誰か私に悲憤を洩らさざるものがあったであろうか、尤も公明正大なるべき政治上の批判、政治に関する経済問題は元より地方一官憲、一属の私事に至る迄苟も官憲の不利なる記事は絶対の禁止事項として圧迫の手を下したのである、我言論者は内に憤懣反抗の熱火燃えつつも非立憲的圧迫の魔の手を恐れて僅に其鋒鋩を収めて居るもの計りて、誰か一人として総督政治に対して善意の了解を有して居る者があろうか、実に当時の言論者は全部総督官憲に対して恰も仇敵の如き想いをなして居ったものである而して現長谷川総督に至って斯くの如き非文明的規則は一掃せられたかというに決してそうではない尤も其取締に就いては昔日に比すれば頗る緩和され互いに了解を持つ様にはなったが、其根本方針たる新刊行物の不許可主義、移転、改題、内容変更等に対する不認許方針は依然として踏襲されつつあるのである、朝鮮の言論圧迫は啻に刊行物のみではない、一切の政治的集会、演説等に対してはヨリ峻烈である、吾人は総督政治以来只の一回の政治演説を耳にした事がないのみか、吾人同業者の親睦会等に於てすら尚且密偵の付回るありて手に取る如く其場の光景が官憲に報告さるるのを知って甚だしく不快に感じて居るものである我内地人に対してさえ以上のごとくである官憲の取締が朝鮮人に対する言論取締は如何であろうか、刊行物に対する方針は内地人に対する如く絶対禁止に等しき方針なるは勿論苟も政治を口にし政治的経済問題を云為するものなどがあらば直に仮借なき圧迫を加える、茲に之れに因んだ一挿話を加えよう、某郡一富豪が官署の依頼を受けて其地方民情の調査をしたが端なくも其処の警官の耳に入り直に検束された。而して其調査の内容が偶警官の不利益なものであったが為めに、一旦放還された富豪に対する警官の報復は何かにつけて未だに絶えないと云うことである、之を見るも一般朝鮮人に対する言論取締は如何に峻烈であるかそして如何に下級官憲のために悪用されて居るかが窺われるであろう、朝鮮人に対する、言わしむべからず、聞かしむべからず、只従わしむべしと云うのが寺内伯の対朝鮮人言論策であったのである、吾人は敢て泰西の文明をそのまま朝鮮に移植せよとは言わない、殊に我国には我国特有の国家的教権あり、朝鮮は我新領土として又之が統治上相応わしき政是の存在も否定するものではない、只現今の如き非法なる圧迫政治を言論の上に施すが如きは断じて左袒し能わざると共に出版物や言論取締の採量に於て下級官吏に重大なる権能を与え直に其法の威力の下に自己の意見又は思想に反するものに禁圧を加うるが如き頗る遺憾に感ぜざるを得ぬ、況や其官吏の教育、頭脳が甚だ時代後れなるものあるに至っては遺憾更に甚だしきを覚ゆるのである(付、釜山に於ける内地新聞雑誌の検閲の如き一警部の指揮の下に部長が随意に採量して居るが如き其最も甚だしきものである)況や朝鮮人に対する言論政策の如き其弊の及ぶ所遂に這般の如き騒擾醸成の一因たりというに見ば誰れか慄然たらざるを得るであろう 

(七)上下意識疎隔
次に吾人の尤も異とする所は朝鮮には何等民意を聴くべき機関がないことである、是れ即ち上意の下達、下意上達の道なき朝鮮特有の欠陥であらねばならぬ、道に道参与官あり、郡に郡参与官あるもこは昔時韓国政府の下にありて虐政を施した官吏の古手が多く却て地方朝鮮人の怨恨の的となって居る者が多いのみにならず、此れも前述の△族と同様に一種の棄扶持政策の無用な長物に過ぎぬのである、吾人は常に朝鮮に世論政治を行うべきを力説して居る者であるが今日之れを見れば益吾人の所説の誤りならざるを証拠立てて居る、今日の朝鮮の中央地方制度、同化政策、開拓方針其他万般の施設経綸は悉く十善万能であって一点の非議すべきものなきが如きは是れ単に寺内伯一味の吹聴に過ぎずして斯の如きは正に誇大の沙汰のみである、吾人をして僅に其一端を数えしむるも既に以上の如し、就中上意下達、下意上達の円満を欠くことに於ては其弊の尤もなるものである、政治の百弊即ち茲に萌し百害即ち茲より生ずるのである、現長谷川総督に至って初めて此大欠陥を補い、山県政務総監の如きも地方視察に当りては可成官服を私服に着替える位に留意はして居るらしい、是れ聊か当局の自覚を物語っては居るが、未だ其根幹たる制度の刷新について一指を染めたるを聞かざるを遺憾とするものである、彼の寺内伯の如きは前段叙説した如く誤れる各道の報告を蒐めて更に之れに修飾を加えたる偽造報告を信じ、自ら天下泰平を誇号し此自画自賛の報告書によって得たる外交的辞令に惑溺し、赤裸々たる地方の実情を究めざりしが故に、施設緊切を欠き且事功を急ぐ事益急にして民意に逆行するの施設を敢てし、野に怨嗟の声を聞くも地方官より得たる、己が首大事の印刷報告に誤られて無上の善政なりと思惟し、又無謀の財政独立を画して今や朝鮮政治をして手も足も出でざる行詰りの□境に陥れ、盛んに善意の悪政を施して逐年朝鮮人の反日思想の薫醸を助成したるに気付かず、然も「民は仁政を謳歌して施政の実大に挙り云々」と称して内外を欺きたるの罪は、彼の騒擾を未前に防圧し得ざりし現総督の責めに比して果して何れぞや、唯恐るべきは政治を解せず、時代錯誤に彷徨する武人政治。 
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10118190&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

大阪毎日新聞 1919.8.5 (大正8)
対鮮根本政策
宋秉●子の意見書

朝鮮暴動の善後策並に朝鮮総督府官制改正に就て過般上京し山県、大隈各元老、原首相、寺内伯等を歴訪し熱心に之に対する意見及び政策を開陳したる宋秉●子は最初当面の責任者たる原首相に対し十三箇条の意見書を提出して其採用を求めたる事実あり此事極めて秘密に付せられ未だ何人も窺知せるものあらざるも右意見書は元老及び首相の脳裏に頗る考慮の材料を与えたるものの如く鮮人窮極の熱望及び其実状を披瀝して元老首相等を動かすと少からざりしものありと思惟すべき理由あり今後の朝鮮統治策及び総督府官制改正案中には全然とは云わざるも該意見書の真核に接触せるもの少からず宋秉●子も頗る満足し居れる由なるがその意見書の概要は左の如きものなりと(東京電話)
一、日韓併合の聖意を徹底せしめ内鮮同根の実を明かにする事
一、内鮮人を見るに区別あるべからず
一、朝鮮は植民地と見るべからず
一、総督の名を廃改すべし
一、長官は文官たるべし已むなくば暫時文武併用も可ならん
一、鮮人中の有為者を要地に登用すべし
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10117986&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

大阪毎日新聞 1919.8.5(大正8)
鮮人の感想
総督府機関紙の調査

愈々朝鮮統治上に一大刷新を行われんとするに当り朝鮮人の忌憚なき感想を聞くべく総督府機関紙京城日報、毎日申報両社長加藤房蔵氏は全鮮九十四箇所の支局及分局長(何れも朝鮮人)に対し左の四問を掲げて其地方鮮人の感想を徴したるに七十通の回答を得たる由朝鮮現下の民心を知るに足るべきものあれば其要領を摘記すべし 
第一、施政上に対する不平、不満、不快の事例 
一、明治天皇一視同仁の聖詔あるに拘らず統治の方針之に副わざる事 
二、朝鮮の施政は余りに官吏専制にして人民の意見を採用せざる事 
三、言論及集会の自由なき事 
四、法令規則煩密且文明的に過ぎ朝鮮現在の民度は其煩に堪えるざ事 
五、朝鮮人官吏の待遇及取扱が内地人官吏に比し甚しき差別ある事 
六、相当の資格技倆あるものと雖も朝鮮人は高官に任用せられず唯旧来の門地あるもの又は阿諛の輩のみ多く採用せらるる事 
七、財政独立の早計なる事且つ其の結果課税額を高め微税手続煩雑を加えたる事 
八、朝鮮人学者に研究の機会及材料を与えず彼等の前途に光明なき事 
九、朝鮮人学徒は校門を出づるも官途に就くこと至難なること之に反して内地人は続々任官する事 
十、憲兵及警察官の横暴不親切なる事 
十一、内地人と鮮人との教育に著しき差別ある事且つ朝鮮人に朝鮮の歴史を教えざる事 
十二、旧来の良風美俗を尊重せず漫りに之を毀壊して顧みざる事 
十三、共同墓地制度の無理なる事 
十四、地方官吏の人民に接する不親切横柄なる事 
十五、願届等手続の面倒にして手数労力及び時間を要する多き事 
十六、道路改修の際土地家屋の寄附を強要する事 
十七、農の繁閉を問わず賦役を課して顧みざる事又賦役は多く内地人に課せざる事 
十八、内地人の移住を奨励して朝鮮人を圧迫し鮮人をして其故土を去り異境に漂泊するの止むを得ざるに至らしむる事 
十九、民間事業の経営に方り当局は内地人に与うる程の便宜を朝鮮人に与えざる事 
二十、武断政治なるが故に朝鮮人の服従は悦服にあらず威服なる事 
二十一、下級官吏は上司に迎合して事実を穏蔽する事 
二十二、朝鮮人警吏及補妨員に収賄の事実ある事 
二十三、中枢院顧問、参議及道参与官、府参事等の人選宜しきを得ざる事 
二十四、在来の建築物を妄りに破壊し取除く事 
二十五、儒教を無視し孝烈を無視し長幼の序を紊る事 
二十六、参政権の絶無なる事 
二十七、□笞刑を科する事 
二十八、裁判は長時日を要し訴訟費用多大なる事 
二十九、両班を常民と同一に取扱わん事(内地の士族の如く取扱われたしとの希望) 
三十、駅屯土の耕作を内地移民になさしむる為附近の農民失業する事 
三十一、旧韓国時代には都の大事ある時は有力者の意見を聴取せしも今は此事なく面長が勝手に指揮命令する事 
三十二、徴兵制度を布かざる事 
三十三、地主優遇に偏し智識階級を軽視する事 
三十四、官報政治の傾ある事 
三十五、貴族階級の優遇は中流以下の不快とする事 
三十六、郡守を人格織見に依りて採らず只国語に採るの風ある事 
三十七、古跡調査と称して陸墓を発掘し宝物を奪い去る事 
三十八、植民地政策を執り朝鮮を植民地扱になす事 

読売新聞 1919.8.10(大正8)
帯剣廃止
朝鮮総督府官吏

現在朝鮮総督府官史は上は総督より下は小学校教員に至るまで服制の定むる所に依りて悉く一定の服装と帯剣とを要するは武断統治に伴う当然の結果にして併合当時に在りて勿論必要の制度なりしならんも今日に在っては害ありて益なく殊に小学教員の帯剣の如きは夙に内外人の指弾せる所又腕章の如きは筋の多少に依りて一見官の階級を知らしむる為知らず識らず各児童をして教育を侮蔑するに至らしむる等其の弊少なからず寺内総督の如きさえ其末期に至っては「儀式の場合以外帯剣に及ばず」との内訓を発したる程なりとなり然るに長谷川総督に至りて苟も服制令の厳存する限り之を空文に帰せしむる如きは不可なりとして再び帯剣を強制したるものなり左れど今回の官制改正と共に武断政治は一擲せられ文官統治を採用する以上一日も之を存置すべからずとして既に其の廃止に内定したり尤も是は斉藤新総督の意見に依りて確定すべきものなれど斉藤総督とても恐らく廃止に反対する如きことなかるべく従って改正官制施行と同時か又は遠からず廃止せらるべしと 

大阪朝日新聞 1919.8.10 (大正8)
騒擾事件結審
内乱罪として高等法院に移さる

去る四月三日の水原群一円に亙る騒擾に際し花樹駐在所巡食川端豊太郎を惨殺したる暴民二千余の内首魁と目せられ検挙せられたる五十二名の不逞漢は爾来京城地方法院西山予審判事に依り予審続行中の処愈七日を以て決定し内乱罪として高等法院に移されたり其終結決定書左の如し
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読売新聞 1919.8.17 (大正8)
植民地の統治に就て

特に日夕人民に触接する警官の人民に対する行動は最大の注意を要するのである、風俗習慣を同うせず、言語を異にする植民地人民に対しては本国以上に慎重の態度と親切を尽さねばならぬ予が十余年間の長い植民地生活の経験より観察すると、此点に就き頗る遺憾に思う事が多い、如何に偉い総督や政務総監が善政を施したとて、人民に直接する下級官吏が怠慢不親切誤解圧迫、二言目には熱拳の連発などを自由にしては政府は遂に怨府と化し、爆発して恐るべき暴動となり、累を国家に及ぼすことを覚悟せねばならぬ、又植民地在住の下級母国人の植民地人民に対する態度にも大に警戒を要するものがある、劣等人種と軽蔑して無理な註文をなし、応ぜざれば鉄拳を振ったり、或は無智の土民を欺き不法の行動を恥とせざる下級母国人の、取締を厳にすることは禍を未発に禦ぐのみならず、一般母国民の威厳を維持し施政の公平を保つ上に於て最も必要である、
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読売新聞 1919.9.2 (大正8)
朝鮮新財政計画
総監自身定案を携え東上直接当局と折衝

朝鮮総督府来年度財政計画は去月初旬以来河内山財務局長(当時度支部主計課長)携帯東上し将に大蔵省と交渉を開始せんとしたるに官制改革及び総督、総監等の更迭と為りたるを以て其儘新当局に引き継がれたる次第なるが抑々該計画たるや旧官制の下に立定されたるものなれば多大の変更を要するは勿論、殊に今春暴動の原因に数えられたる所謂朝鮮財政の独立を此際断然撤廃すべきか将た又た之を維持すべきかの問題あり之に関する総督府新当局者の意嚮を聞くに・・・
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満州日日新聞 1919.9.5-1919.9.20(大正8)
朝鮮時事管見 (一〜十二)
京城 東夷生

(四) 対言論政策如何
従来総督政治の欠陥として世上より指摘批難されたるもの一にして足らないけれども横暴なる権柄政治就中言論の圧迫に対する批難攻撃に如くものはなかったのである是れ抑々何によるか事実は最も雄弁なる説明者である併合前後京城に於て発行された新聞通信雑誌二十余種を算したに拘わらず一度当局の対新聞政策定まるや苟も総督政治を論評批判する者に対しては猶予仮借なく鉄槌一下発売発行停止に次ぐに発行禁止を命じ或は買収懐柔等有ゆる圧迫抑制を試みたもので強き者は挫かれ弱き者は気死し現在に於て新聞通信雑誌を通じ僅かに三四種の健在するに過ぎないので当時如何に辛辣なる対新聞去勢術の行われたかの一端を窺う事が出来るのである中央都市に於て既に然りとせば地方の状況推して知るべきのみで各道に於ても官報代用の意味にて道庁所在地若くは其附近に一二社を許可せるに止まり新なる発行を絶対に禁止すると共に一度び廃刊せんか再び其発刊を許さず甚だしきに至っては改題発行所の移転をも許可せず今日に至ったのである其結果は侃々愕々の士声を潜め総督政治は四面悉く贔負の引倒的謳歌者に囲繞せられてお手製の輿論が遺憾なく出来上り所謂善政施設が吹聴せられたもので上意は或る程度迄下達せられしも之れに反し下意下情は全く上達すべき機関がなかったのである偶々之れありとするもそは耳に逆わざる人言のみで当局が如何に専恣横暴でも既に社会の耳目を奪いたる結果として之を矯正すべきものなく官僚政治の勢力は一層其値基を堅うし妙上の偶語も尚且つ徳政謳歌の私語と自負するに至ったのである吾人は之れが適切なる一例を挙げて吾人の所説を裏書きしたいと思う本年四月に発行されに大正七年度朝鮮総督府施政年報が緒論の末節に於て地方行政に論究し「這般の施設益々充実し新政の趣旨□民心に貫徹し日に月に秩序ある地方の発達を促進しつつあり」と自画自賛し「顧うに朝鮮の現状は未だ以て世界の進運に副うに足らずと雖も既に積年の頽勢を挽回して日進月歩の発達を遂げ白事改善の跡顕著なるものあるは蔽うべからざる事実なり」と誇示したのである奚んぞ計らん此自画自賛の時は既に万歳騒擾の準備一部不逞徒輩により完成された時で之れをしも未然に防止する事が出来なかった時なのであった吾人は当局の言うが如く物質的方面の開発に対しては別に異論がないけれども形似上の開拓が幾何の功績を挙げたかに対して大なる疑問を有するもので偶然とは言い乍ら当局の自負をなしつつある時皮肉なる騒擾の勃発したことも畢竟言論抑圧より来た自業自得の一産物なりとして新人の鑑戒となすべき一例証と信ずるものである 

五) 対言論政策如何(続)
過般行われたる東京各新聞社の職工同盟罷業と各新聞社の結束休刊が例令一時的なりとするも帝都を暗黒裏に投入した事は今尚世人の記憶に新なる処で新政務総監水野博士は昨年の米騒動当時内務大臣として対新聞策に就ては最も苦き経験を有する筈である、朝鮮に於て真先に改むべきものありとせば社会の耳目として普通教育機関たり輿論の指導機関たる対新聞策の変更より急なるはないので今少しく取締を寛にし総督政治に対する偽らざる批判を傾聴して取捨選択自省の資料をする丈けの雅量を有して貰いたいと思う夫れには先決問題として現行の新聞紙条例に或程度の改廃を加うる必要があるが朝鮮現下の実情に於て従来の許可主義を届出主義に改め全然言論の自由開放を認容し玉石混淆新聞紙の発行を無制限に許容して自由競争に委するが如きは熟慮を要する問題で此等の点に就ては相当の手加減を要すべきも改額や発行所移転の如きは何等之を拘束すべき理由なく速かに改正さるべきせのと信ずるものである、幸に新任水野総監は任を帯ぶると共に朝鮮総督従来の対新聞策に言及し其情弊を指摘し莅任後此点を考量すべきを以てされた由来歴代の為政者は着任前内地に於て着任後の抱負を披瀝して大に為すあるべきを期待せしむるに拘らず一度び玄海の巨□を超えて鮮地に入れば多くは変質し改論し言論一致せさるものは少かったのである吾人は新総督新政務総監が啻に考量を費すに止まらず敢然起って従来の情弊を一掃するに勇ならんことを望むもので是れ其要望の第三である
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東京日日新聞 1919.9.6(大正8)
朝鮮統治の新方針
訓示の文句は金玉の美を連ぬるが如し
実績果して如何

道路施設の為に強いて小農をして其耕地を寄附せしめ、更に夫役を徴集するが如き、之を踏んで足らず、之を蹴り之を打つが如き暴政の面影をして復存在せしめざるを期せざるべからず。訓示の撤底は殊に地方に於て急速且十分なるを要す。 

東京朝日新聞 1919.10.27(大正8)
朝鮮新政
水野総督談

九年度朝鮮予算其他事務打合せの為め二十五日午後八時半入京したる水野政務総監は大要左の意味の車中談を試みたり

差別撤廃
余は朝鮮赴任前より自己の関係したる学校の留学生等を通じ又は種々の研究資料に依り聊か朝鮮事情を研究し居たるを以て総督府に入りたる後も別段意外に感じたることとてはなしただ自己の抱懐する理想を実現せんとすれば万端経費の膨張を来し順を追うて着手するの外なく夫れ夫れ調査研究を重ねつつあれば新施設は一に今後に俟たざるべからず総督更迭以来多少意を用いたる点は一視同仁の大詔に依り内鮮人間の区別を撤廃し(一)先ず内鮮人官吏の待遇を平等とし朝鮮人の官吏特別任用に就ては当分従前通りにて而も待遇は高等官も判任官も内地人官吏と全然同様ならしめたり 
 
教育普及
(二)学制に就ても成るべく内地と同様義務教育年限を六箇年とし現在の四年制を延長せんとの計画あれども之に先立ち教育機関の普及は最も急務とする所なれば寺内前総督案八年計画を短縮し大正九年度より四箇年計画とし速かに全鮮面に普通学校を設立することとせり(三)又朝鮮人に対する刑罰として笞刑存続し居たるも文明の今日内地人に課せざる斯る刑罰を鮮人に限りてのみ課するは当を得ざるを以て之を廃止し犯罪者に対しては獄舎を増設し適当の刑罰を課することとせり(四)更に騒擾事件に関連し不逞鮮人に対しては厳重に取締る方針なるも其の朝鮮以外に亙る問題に就ては他に適当の方策を講ずる必要あり是等は茲に言明を憚る事情あり(五)中枢院の意嚮を聞き(六)各道長官の腹蔵なき意見を徴するは勿論(七)外国宣教師の所見を窺うも大に参考となるべきに依り総督は各是等の手段を取り(八)別に総督府事務官を十三道に派遣し民情視察を行わしめつつあり這は初めての試みにて民情視察員が草鞋掛けにて各地に出張し居るは一般鮮人に非常の好感を以て迎えられつつあり 
 
自治問題
以上は新総督就任以来施設の一般なるが朝鮮総督としては自治制の問題に就ても着々調査を進め居り別段調査会を設け之に要する費用を計上したるが如きことはなきも決して等閑に附し居る次第にあらず、又集□、結社の自由、言論文章の自由等に就ても将来適当の機会には多少の手心を加うる方針なり現に朝鮮人の新聞発行計画の如き今日のところ之を許可し居らざるも当局は之を考慮の外に置くものに非ず 

大阪朝日新聞1919.11.16-1919.11.25(大正8)
朝鮮統治論 ([一]〜十)
法学博士 小川郷太郎
[(一)] 第一、朝鮮統治難 
朝鮮の併合せられて以来、将に十年に垂んとする。其の間多少の動揺はあったかも知れないが、大体に於て無事平穏であり、内地人は皆、朝鮮は日本の化に服して居ると思って居た。然るに本年三月、万歳騒ぎ起り、それが朝鮮の津々浦々迄波及し、鮮人を挙げて我国に反抗するの態度を現し来ったので、吾人をして晴天の霹靂の如く感ぜしめた。曩に同化したと思った信念も、今は根底より揺ぎ初めたのである、朝鮮人が斯の如く飽迄反抗するとせば如何に之に処すべき乎、茲に朝鮮統治の重大問題が出て来る。 従来朝鮮を議するものは、総督政治の非を鳴らすことを以て能事了れりとし、曰く憲兵政治非なり、曰く圧政政治非なりと種々の非難の的は悉く皆総督府の政治振りに集められて居たのである。而して其の政治振を改むれば、朝鮮は容易に統治せらるものと考えて居た。朝鮮統治は仁政、徳政を布けば即ち足れりというもの即ちそれである。新総督も此議論に共鳴したと見え、朝鮮に入るに先だち盛んに徳政論を唱え、朝鮮人の為めにする政治、換言すれば朝鮮人本位の政治を行うことを揚言した。是れ明かに朝鮮統治の革新である然るに新総督が将に釜山に上陸せんとするや無数の暗殺団が釜山に潜び入って来たと云うことである。若し釜山に於て其の目的を遂げずんば、大邱に於て再挙を計り猶機会を得ずんば、京城南大門に於て初志を貫徹しようとの計画であった。斯かる空気が当局の眼に映って以来、総督警護の為めに兵員を要所に配置し、汽車中にも兵士を従えて行かねばならぬことになった。釜山及大邱にては無事であったけれども、南大門駅に於て新総督が馬車に乗るや否や爆裂弾に見舞われた。予輩は其の時恰度南大門駅頭に、立て居った、そを目撃して鮮人の如何に大胆に、如何に巧妙に暗殺を遂行せんとするかに驚いた、又同時に鮮人本位の政治、仁政徳政の筋書が、総督入城の刹那に於て皮肉的に嘲笑せられたような感じがしてならなかった、爆裂弾は総督にも政務総監にも当らなかったけれども、鮮人が日本の統治に服せないと云う一種の示威運動は大に成功したと謂わねばならぬ。朝鮮の貴族の中には此の凶行を以て鮮人の浅慮に外ならぬ、残念であると新聞紙上に談話を伝えて居ったが、然し鮮人多数の考えは決して然うでなく、実に偉い唯残念なのは弾丸の当らなかったことであると云い、暗殺者は彼等の間に於ては英雄視せられるの傾きがある。 
此の爆弾一件は一つの挿話に過ぎぬが、又以て鮮人が如何に日本に対して考えつつあるかを知るの一材料とすることが出来る。即ち、朝鮮を統治するのは、唯徳政とか鮮人本位の政治と云うことのみでは彼等鮮人の総てを満足せしむるを得ないと云うことである。此の断案が若し真でありとせば、日本内地に於ける朝鮮統治論には余程見当違のものがある。内地の識者、政治家は未だ鮮人の心理状態を知らぬと云うべきである。
  予輩は、朝鮮に於て屡鮮人と膝を交えて語り、多少彼等の意の在る所を知り得たが其中で、大に注意を要すべきは、日本に国難の来れる際、鮮人は挙げて日本に反抗し、日本の敵を援けるであろう。と云うような感じを有して居ることである。然し事実は国難の際を待たずして現に日本に背かんとして居る。而して其れを朝鮮の独立と云う標語であらわして居る。去る三月以来此の独立運動が各地に起ると同時に其の思想は普及し日本の官憲の力を以て圧えて居るも人心の帰嚮は決して改善せられず日々益悪化せられつつあると思う。 
(二) 第二、鮮人の独立思想 
一、独立思想普及 鮮人の独立思想は、本年三月の騒動に由って明白になって来た。固より以前から存して居ったのであろうが、三月には堂々と独立の宣言を為し、或は総督に之が請願を出すとか、或は米国大統領に訴えるとか、種々の手段に依って現れて来た。要するに目的は朝鮮の独立にあったのである。此の独立を希望するが為に、彼等は万歳を叫んだのであって、敢て最初より武器を執り抵抗したのでなく、寧ろ消極的の抵抗に過ぎなかった。然しながら朝鮮各道に亙り皆同一の形式を以て騒ぎ立った。その総ての鮮人を動かすと云う組織に至っては寧ろ驚嘆すべきことである。尤も外部にありて日本留学生も指導したこともあろう。又満洲並に西伯利の鮮人が結束して運動を起したこともあろう。更に進みては外国に在る鮮人が互に協力して崛起し、朝鮮の独立を宣伝し殊に上海には朝鮮独立仮政府を設け、李承晩を旗頭として政府や議会に類似せるものを組織し、其代表者を仏国巴里や米国に派して気脈を相通じて居ると云う。斯くの如く独立運動が朝鮮の内外に旺盛となり、鮮人の凡てに此の思想を注入し、鮮人の目標は独立に在りとする迄に至った。予の朝鮮に遊びて感じ得たる所は、独立思想なるものが今日既に余程普及して居る事である。今は朝鮮の独立を唱えなければ朝鮮人にして朝鮮人に非ずと云う風さえある。而して鮮人間に於ては独立の運動、独立の犠牲者を尊敬する。故に真に独立と云うことが好ましくないと信じて居る者でも之を公言するを得ない。若し口にする時は直に排斥せられる。曾て朝鮮の志士中の一人が日鮮離反の状態を憂いて、日本の当局者並に有力なる政治家及学者を歴訪したことがある。独立論者は之を同志の徒と見ず偶酒席に列しても席を蹴立てて辞る去ると云う風で、独立を唱えなければ、如何に国を憂うる者でも朝鮮では容れられないと云うことになって居る。故に其の行動は不知不識の間に現われ、鮮人の内地人に対する態度は一変したと云うことである。尤も之は概括的に証明せられた訳ではないけれども、至る所に於て予輩の見聞する所に依れば、例えば今日迄常に警察署に出入せる鮮人が姿を見せなくなったとか、官庁の雇員や面の相談役が出勤せずなったとか、又道路で出遭った時鮮人から途を譲ったのが、譲らなくなったとか。宴会の席でも従前快談した者が多くは出席せなくなり出席しても沈黙して避くると云うように、社交的には内地人を侮蔑するか、相手にしないと云う態度が顕れて来たと云うことである。又鮮人の家主地主は内地人の立ち除きを強要するとか、更に進みては内地人と事業を共同にする事を避け、会社の創立に際し、内地人の参加を申込む者あると断然拒絶する傾きがあるそうだ。何故に斯かる変化を来したかと云うに、鮮人の有識者は異口同音に、内地人には誠意を欠くから事業を共同にするのは困ると云う。日鮮の事業家が公会せる席上、鮮人の有力家が之を公言して憚らなかったのを予輩は実見したのである。勿論是等の挿話は断片的のものであって之を以て総てを律することは出来まいが、鮮人の内地人に対する態度が如何に変化しつつあるかと云う事の一端を知るに足りると思う。是れ即ち、独立思想が鮮人の頭脳に刻まれて、坐臥進退の間に之を表現したものと観て然るべきだと思う。
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国民新聞 1919.11.28 (大正8)
朝鮮独立陰謀暴露し李●公追捕さる
賤民に扮して国外脱出中安東県にて追跡の警官に捕わる
陰謀団愈よ剿滅されん
二十六日発 京城電報

彼等の不平 官吏に成れず金は儲からず=遂に勃発
一体鮮人中智識あるものは地位を欲し満足を冀うの情切なるに拘らず併合後は大抵の場合と云うよりは事実全く其希望する地位を与えられないので不平は益高潮するらしき形勢に在る彼等は畏れ多くも 併合詔勅に於て有りがたき御言葉を下し賜わり内地人と同等にお取扱い下さると宣らせ給うた爾来年処を経ても其有難さは忘れないが併し統治の任に当る人々は尊き詔勅の御趣旨を実行して呉れないという 一種の不平は可なりに深き根柢 を作して居るし今度の講和会議に於ても遂に其容るるところとはならなかったにせよ兎も角も西園寺使節から人種差別撤廃問題を提出し居る内地の政治家は何故に日本に於て等しく其国民である可き 鮮民に差別を附するか是れ甚だしき矛盾である抔の論議が今や一面の思想となって居るという様な事実に見ても浮浪の徒の集合ながら所謂独立運動の前途は楽観を許さぬらしい

満州日日新聞 1919.12.2(大正8)
朝鮮統治方針
当局の施政新鮮剴切なり

斎藤総督、水野政務総監●任後施政の方針を新にして、統治の刷新を期すべくこれに臨むに頗る新鮮凱切なる意図を以てせるに、今尚不逞鮮人の横行止まず、朝鮮の現状甚だ憂うべきものなしとせず然りと雖も此新鮮の統治方針は、軈て開明疎通の機近かるべく、吾人は朝鮮の施政が局面を一変して、新らしきスタートに立ちしことを喜ぶと共に、速に鮮人に理解を与えて其無謀の行動を止みずんばあらず。而して施政の要綱に就ては、総督総監幾度か之を声明して鮮民に宣示したるが、吾人は頃日水野総監が東京に於て、統治方針を説述し穏健なる政策を開けるを見て、流石に練達堪能の士能く将来の治績を挙けんことを期待して止まず。総監の言に依れば 朝鮮統治の根本方針は、徒らに鮮人を愚にして圧迫を加うるの非文明的態度を改め、温情を以て善導し、以て時勢適応の政策を施さんとす。然りと雖も独立運動は絶対に之を排除す、日清日露両戦役の起れる事情に顧みるも、併合は日鮮は固より東洋永遠の平和を確保する為に、必要且つ適切にして、今日独立運動を企画し実行を夢むるが如きは、大勢に通ぜざる暗昧の妄動なり。鮮人夫れ自身の不幸不利これより大なるはなし、総督府は近く此趣旨を中外に声明して嚮う所を知らしめんとす。・・・
  最後に総監は産業の開発を説き又言論機関に対しては、全然之を開放せざるも相当財力ある地方には新聞発行を許し、一般に従来の如き抑圧を改めんとすと言えり。吾人は所謂武断政治の弊害に就ては、一再ならず之を説けるが、今や斎藤総監、水野政務総監が、悉く従来の幣を察して刷新を加えんとするを見て、国家の為に慶賀せざる能わず。殊に治鮮方針に関して、日鮮間常に二様の見解あり、一は文明の自治的開放主義を唱え他は旧来の高圧方針を支持すべしと言うが如き、
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大阪朝日新聞 1919.12.9(大正8)
粟を食するは生活に余裕ある者
多くは粥を啜り二食をとる 惨澹たる西鮮旱害の跡此冬期を如何に凌がん

西鮮旱害地に於ける総督府の救済策の効果及び被害地方民生活状況等視察の為め出張中なりし生田商工課長の帰来談に曰く、安州、定州平原等の各郡に於ては被害予想以上にして農家の大部分は貯蔵米に乏しく各地方共節米食延ばしに留意し居れるが先ず五割の食延ばしをなし得たるものと思わる、黄海道は大体小麦粥を主食とし平安南北道は高粱唐蜀黍等の粥を常食とし粟を食する者の如きは比較的生活に余裕ある者にして孰れも二食主義をとり彼等の食糧購入資力に就ては其断定甚だ困難を覚えたり蓋し十日乃至二十日の食糧のみを有する者に対し今後の生活如何を質すも一人として前途の事につきて考究せる者なく小作階級は例年地主或は色内の資産家より負債し収穫時に至りて返還する状況なるを以て本年も到底貯蔵の余力存せずと観測せらる、地主自作農等は相当の余力あるが如きも数町歩を所有する地主等の生活状態を見るに食糧の種類数量等小作人階級に比し大差なきを以て現金等の余裕ありと観る能わず古来の慣習に依れば斯かる災害時期には地主が救済する事になり居るに拘らず今回は地主側は小作人の逃走を恐れてか貸出を制限する傾向あり従って金融頗る逼迫せり目下薪炭運搬草刈等により多少労銀を得て生活しつつあるも一旦傑氷期に入り労働不能となる場合に想到すれば実に寒心に堪えず故に此際地主側の協力活動を促し当局の救済施設と相呼応して其遂行を期するは最も必要なりと信ずまた各道に於ても共同組合等に依り地主小作人連帯責任の下に救済資金運転の円滑を図る要あるを認めたり、総督府に於ては此点に就き現に相等の方法を講じ居れば結氷期に入るも一般の予感せるが如き惨状を見ることなかるべしと信ず(京城) 

大阪朝日新聞 1920.2.5(大正9)
北陸版 
朝鮮統治に就て
日鮮同化を徹底せよ
鮮人政務総監の任用
宋秉唆子談

三十一日午前、伊豆の熱海町富□屋旅館に滞在中の宋秉唆子を訪えば、別館の奥まりたる瀟酒な構えの離れ春のような麗らかな日ざしが奥深くさし入り、初川の水声静かに伝わる一室に招じて左の如く語れり(熱海にて一記者) 
・・・然るに其後朝鮮統治の方針、明治大帝の日鮮併合の御従詔に副い奉らずして差別的待遇も以てし、日鮮同化の実挙がらず。鮮人の最も尊べる官には就く能はず軍人として時めく運も拓けず唯安寧秩序を保持さるるに至り、高枕安臥し得るを、最大の幸福とするに止まり、無資無産の下級民は、農繁期に於て無賃を以て道路の開拓に使役され、又は日人軽侮の下に虐使するるが如き有様にて、朝鮮の開発文化も鮮民の福利増進の所以とならず、斯ては日本国民となれるを誇るべき何物も享受し得ずして、却って亡国の民として涙なき能はざるに非ずや、昨年三月来陰謀事件頻発するは、世界の大勢に煽揚されたる点も認めざるに非ざるも、淵源実に茲に発せり、予は病を得て山に籠る事六年、癒えて京城に出づるに及び、時事の非なるを看守し、当時要路の大官及び知己に頻りに書を飛ばして、朝鮮統治の方針の非なるを訴え、其改革を求めしも容るる所とならず、遂に暴挙勃発するに及び座視するに忍びずして遥々上京し、各方面を歴訪して願望しつつあるが、日鮮同化の実を挙げ渾然たる融合を見んとするに外ならずして、予一個の為毫末も計る所のものあるなきに、未だ何等得る所なく、時政治季節に入れるより、暫く熱海に避けて形勢を観望し居る始末なり、

大阪毎日新聞 1920.9.10(大正9)
朝鮮統治上の一進歩
新聞記事の解禁
 
朝鮮総督府は従来朝鮮内外に於ける鮮人の不穏行動に関して新聞紙上に記事掲載を禁止し来れる方針を改め、今後は煽動的に亘らぬ事実の報道なれば自由に之を許す事とした。鮮人の不穏行動に就ては、従来新聞紙は詳細な報道を得て居たのであるが此禁止のために、一行も之を発表することを得ず、唯随時総督府発表の事件を取次ぎ報道し居たに過ぎなかった、従って内地では出し抜けに大陰謀や騒擾の勃発を報ぜられても、前後の関係が分らず、恰も遠隔な外国で起った事件位に感ずるに過ぎなかった。朝鮮を正しく統治する上からも、又不穏の事実は仮りに日本の新聞紙が沈黙を守っても、外人の眼の多い朝鮮では却て彼等を通じて外国の新聞雑誌に漏れる虞があり、且斯かる場合多くは内地人側に不利に報ぜらるるのを常とする理由を以て吾輩は常に此禁令に反対し来ったのであるが、今回斎藤総督が断乎として過去の過を正したのは吾等の双手を挙げて賛成する処である。・・・此点に於て総督府が言論に対する自由を認め、昨年末来鮮字新聞の発刊を認めたる如き無論当然である。国際連盟が第一回総会を開くという報道の如き、所謂独立運動者をして訴願の好機会と思わしめるかも知れないが、此の如き運動は日本の国際的地位の確乎である今日毫も驚くには足らぬ、寧ろ彼等の自由に任じて置く方が利益である。

時事新報 1920.10.30-1920.11.3(大正9)
朝鮮統治 (上・下)
斎藤総督談
 
重要施設而して余等赴任以来既に実施し、若くは計画したる主要なる事項を挙ぐれば第一、一視同仁の実現であって之は実に我が朝鮮統治の根抵なれば各般の施設は要するに之の一点に帰するのであって、之が実現の為には(イ)内鮮人の差別待遇撤廃を断行し従来差別待遇を設けてあった官等俸給令を同一にし叙位叙勲の如きも併合以後のみを認めて居たのを特に明治三十九年統監府設置以来の年数を算入する事とし其他裁判所令より差別的規定を削除し或は笞刑を廃止する等専ら差別待遇撤廃に努めると同時に