あの店のヒトサラ。
ヒトサラをつくったヒト。
ヒトを支えるヒトビト。
食にまつわるドラマを伝える、味の楽園探訪紀。
ヒトトヒトサラ35 / TEXT:嗜好品LAB PHOTO:岩澤高雄 ILLUST:山口洋佑 2016.06.30 足立区千住旭町「さかづき Brewing」金山尚子さんの「クラフトビール」
宿場町ならではの風情と新進気鋭の熱意や野心がモザイク状に交錯するターミナル駅=北千住に、ピカピカの醸造タンクがフル稼動! プレオープンのその日から、地元民ならず近県のビールマニアの喉を潤しているのが、「さかづき Brewing」だ。それもそのはず、オーナーの金山尚子さんはアサヒビールの元社員であり、本格的な醸造~商品開発までを経験したのち独立したプロフェッショナルにして生粋のビール好き。ひとりの「好き」が百千の「好き」を集めるということを、身をもって証明してみせている女性だ。
ヒトトヒトサラは、まだ内装もメニュー構成も終わらない準備段階から、この店に訪れ、再訪、再々訪。フライングも甚だしい迷惑な常連客になりながら、この地の新たな名物、つまりは「地ビール」が誕生するまでの経緯を追ってみた。
ビールの真価を知る理想のフォーム、「喉飲み」とは?
わたしがビールの美味しさにハマったのは大学生の頃です。大衆居酒屋でバイトしていたんですけど、そこのお客さんはいわゆるザ・サラリーマンが多くて、彼らがゴクゴクと「喉飲み」をしているのを見て、まずはそのフォームから入ったんですね。これはかつてのわたしがそうだったからこそ強く言えることなんですけど、ビールが苦手な人というのは、喉飲みの美味しさを知らないだけだと思うんです。居酒屋のジョッキって、口に含んで舌だけで味わおうとすると、確かに「苦い!」となってしまう。でも、喉を開けてグーーッと流し込めば、こんなにも完成された味……というか作法があったのかと気づいてもらえるはずなんです。その居酒屋は売り上げがよかったりすると、店長が「よかったらビール飲んで!」と勧めてくれて、自分で注いだビールを飲むのもまた美味しかった。労働後の1杯ってことでは、わたしもザ・サラリーマンと同じ飲み方をしていたことになりますね(笑)。
そんなビールの美味しさは、わたし自身がサラリーマンになってからもすごく役立ちました。同僚たちとの飲みのときは最低でもジョッキで5~6杯、2時間で8杯ぐらいは飲んでましたから。
ビールなら10リットルは飲めるが水だと厳しいという夜の不思議は置いておくとして、尚子さんの語る「わたし自身がサラリーマンに」とは、アサヒビールの社員時代のことである。
会社には2015年の1月まで勤務していました。大学では農学や微生物を専攻していたので、乳業会社や乳製品メーカーも受けましたが、やっぱりわたしにはビールだったんですね。約9年間の会社員生活は本当に楽しかったです。お給料も安定していたし、待遇も申しぶんなくて、なによりずっとビールに携わっていられるのがうれしかった。……でも、それと同時に「どうしても自分だけのビールをつくりたい」という夢も大きくなっていって、ついに脱サラを決めました。将来も不安だし、いまだにこの選択が正しかったのかどうかはわかりませんけどね(笑)。
これまでヒトトヒトサラでは(だいぶゆったりとしたペースながら)30名以上の料理人の逸話~味の舞台裏を覗いてきたが、こと「ブルーパブ」の取材に関しては初めての試み。前述の料理人たちとのもっとも大きな違いは「自分の味をキッチンで試作することができない」ということだと思うのだが。
あー、それは言われてみればそうですね。やっぱり衝動的な思いつきではできないことだと思います。最初は経営の全体像を掴むためにも理想とするお店で働くか、より大手に就職するか……あと、そこまで思い詰める人というのは生半可なビール好きではないと思いますけど、その愛がどこまで続くかを自分自身で見極めてからでないと、ちょっと難しいかもしれませんね。
幸いわたしはメガ・ブルワリーに4年、そこからの5年は新商品開発に携われたので、そこでの経験を活かすことができています。とくに後者の経験は大きくて、あの頃は200リットルの小さなタンク、ちょうどこの店と同じぐらいの規模での仕事があったんです。もちろんアサヒの場合は半自動の専門設備で、こっちはすべてが手動なんですけどね(笑)。そこまでの設備に投資する資金がなかったので、いってしまえばラーメンを茹でるような寸胴を買ってきて、少しでも節約しながら頑張ってます。自分たちで内装をやっているものだから、せっかく貼った天井がたわんでしまったり、こないだも空調が壊れてしまったり、トラブルだらけなんですけどね……。
物件探しに製造免許の取得。「税務署の職員さんたちの表情が、やめたほうが…と語ってくるんです(笑)」
そもそもこの物件に出会うまでにもずいぶんかかってるんですよ。北千住はすごく人気のある街なので、まずふつうの探し方では物件自体がまったく出てこなかった。だからとにかく街を歩いて、空き家を見つけては法務局にいって持ち主を調べたり、菓子折りを持ってビルのオーナーさんにピンポンしたり。なんだか『ナニワ金融道』みたいな(笑)。
印象的だったのは、某熟女専門ソープランドの跡地です。従業員の女性たちの化粧品なんかもそのまま残っていたし、ずっとお風呂を炊いていたからボイラー設備が充実していて、なんだか工場みたい。そこのオーナーさんはすごくいい方で、「いつか貸さなきゃと思ってたんだ」と話してくださったんですが、なにせ広すぎるので諦めざるをえなくて。
この物件も不動産屋のネットワークに正式な情報が上がる前に見つけたものです。地元に住むある高齢の女性がやってるシェアハウスを店舗にできないかという相談が舞い込んだばかりのタイミングに、運よくわたしがその不動産屋さんに相談にいっていて、すぐに直談判。結局その方にはお店のドアやトイレ、あそこに飾っている海亀の剥製なんかも譲り受けてしまって(笑)、巡り合わせの大切さをひしひしと感じましたね。
「ブルーパブというのは特殊な営業形態だから、土地柄というのは本当に大切。ビールだからといってマニアックな男性やサラリーマンだけをターゲットにしたのでは無理があるかと思います」と尚子さん。そんな言葉の通り、いよいよ完成に向かう店舗には、地元の家族連れや御年配を優しく迎え入れる人肌の温もり、まさに「クラフト感」が漂い始めていた。
テーマはとにかく居心地のいいお店。あくまでめざすべきは気取らないレストランで、でもビールも美味しいという空間なんです。だから、ビールの専門書を置いたりホップを飾ったりということはあえてしていませんし、椅子やテーブルも新品を揃えちゃうと堅苦しくなってしまうので、ヤフオクを駆使したり、熊本の中古家具屋さんまで買いにいったり、人の身体に慣れ親しんだ家具たちを連れてきています。
ブルーパブ的にひとつこだわったことがあるとすれば、ガラスの向こうに醸造タンクを見せることですね。ビール好きの人はこのタンクを見ているだけで飲めると思うんですよ(笑)。汚れやすいところなので隠したい部分というのをあえてオープンにすることで信用にも繋がるし、わたし自身の緊張感にも繋がりますからね。
こうして物件探しや設備の手配を終えた尚子さん。しかしまだまだ「最初の1杯」への道のりは遠かった。
つぎは製造免許の審査が待ってました。これには泣かされましたね。作業的には決められた申請書を書くというだけのことなんですけど、とにかく時間がかかるんです。すごくザックリ説明すると、この書類というのは「ヒト」「モノ」「カネ」の3つを有しているのかを見てもらうためのもので、ヒトっていうのは醸造技術、モノっていうのはどんな設備でつくるのか、最後のカネっていうのがちょっと面倒で、申請書を出すためには物件や設備の図面が必要になるから、免許が降りるまでの半年とか1年の間、商売を「始められるのに始められない」まま、資金的に耐えていけるのかどうかというのを判断されるんです。税務署や国税局がしっかりと審査してくれているというのはわかるんですけど、2週間ぐらいのスパンでたまに連絡が入ったと思ったらまた追加の資料を提出、みたいな牛歩がずっと続くんですね。とくに今はクラフトビールのブームだから、店をやりたいという人がたくさんくるらしくて、申請を出す前の時点から、本気でヤル気があるのかどうかというのをさんざん訊かれましたね。さすがに職員さんたちも「やめたほうが…」とは言わないんですけど、彼らの表情がそう語ってくるんですよ(笑)。
だから最初の仕込みが終わったときには、感動よりも「あぁ、これでようやく営業できるんだ」という安心のほうがずっと大きかったですね。
いよいよ動き始めた醸造タンク!ほろ酔いでは終われない「ほろ酔いセット」とともに
笑いの裏に涙あり。鍛錬なくして勝利なし。とことんD.I.Y.での「クラフト」を貫いたからこそ実現した、尚子さんのビール。バナナや胡桃のような香りを持つヴァイツェン。どっしりとした苦味が香ばしいドライスタウト。ブラウンエールやIPA(そしてもちろん「スーパードライ」の生も!)。これらを日替わりで醸造することにより、メニューには「Ver.1.2」……「Ver.1.5」……と成長の足跡が記されるようにもなった。
いよいよ本格的に動き始めた醸造タンクを前に、仕込みの基本を説明してもらった。
まずは粉砕した麦芽をお湯に溶かして、栄養分を抽出します。50度ぐらいでタンパク質やアミノ酸、60~70度で炭水化物や糖質が分解されるので、火加減を調整しながら、ベースとなる旨味を引き出していきます。うちのタンクは底にメッシュのザルみたいなのを沈めてあるので、その下から液を抜いてあげると澄んだ麦汁だけが落ちてきます。ここまでが約2時間半ぐらいの工程ですね。
今度はその麦汁をべつのタンクに移して、100度で80~90分間煮込みながら、数段階に分けてホップを加えていくことで苦味や風味を麦汁に移し、同時に殺菌も行います。さらにそれを発酵槽に移すわけですけど、そのときに大切なのが熱交換チューブ。これは内側にコイル銅管が入っていて、その周りをピンク色の冷却液が循環しているというもので、ちょうどデロンギのオイルヒーターの逆版みたいな構造になるのかな? そこで熱交換しながら15~20度ぐらいにまで温度を落ち着けて、最後に酵母を加えて発酵させます。スタイルにもよりますが、発酵と熟成が終わるのがミニマムで10日間ぐらいですかね。
だから、失敗したらヤバいですよ。以前、麦を焦がしてしまったことがあって、そのときはビールに焦げたフレーバーがついてしまったんです。品質上飲めないというわけではなかったんですけど、そのままお出しするかどうかの判断というのは非常に苦しみましたね。結果、半額にして提供させていただきました。もちろん儲けはナシです。でも、それを「マイクロブルワリーならではのイレギュラーなハプニング」ということで楽しんで飲んでくれるお客さまもいて、これがあっという間に売り切れてくれたんですよ(笑)。
この商売は酒税の帳簿づけも大変です。液の移動をミリリットル単位でつけなくちゃいけない。仕込んだビールは1週間ちょっとで売り切れちゃうので仕込みが間に合わなくて、結局は週休2日になってしまったし、料理も安価に押さえちゃったので、トータルでいうと、そこまでの儲けではないんです。ビールといえば食事も欠かせないですから、なるべくいい材料を使いたい。でも高くするとデイリーに使ってもらえなくなる。いろんな面で、理想を仕事にするというのは本当に難しいことなんだなって思いましたね。
まさに「さかづき Brewing」はデイリーユースなレストランでもある。厨房の責任者でもあるシェフの明畠勝昭氏と入念なミーティングを繰り返し厳選された料理は、まだ品数こそ少ないものの、ビールの旨さや相乗効果を最大限に引き出すツマミばかりであり、その夜の「締め」までをドッシリと担ってくれるものだ。
明畠さんはドイツ料理の店で30年のキャリアを積んだ方です。肉、魚介、野菜、食事まできちんと出したいというのがあったので、「ドイツ料理で肉だったらやっぱりソーセージだよね」みたいに彼の得意料理をヒアリングしながら、自分の好みも伝えて選定していきました。もちろんわたしは食べるのも大好きなので、試食は本当に楽しい作業でしたね(笑)。
人気があるのは「ほろ酔いセット」です。お好きなビール1杯とおつまみのプレートで1200円だから、仕事帰りにこれを目当てに、というお客さんも多くて、やってよかったなって。サラダ、ザワークラウト、ジャーマン・ポテトはデフォルトで、メインの肉料理はソーセージとスペアリブから選んでもらえます。ソーセージを追加オーダーしてくれる人も多いですね。
恐るべし「ほろ酔いセット」の充実感。仕事帰りにサクッと入店するも、酒飲みであれば1杯で終わることなどできるわけもなく、「つぎはこのビールを合わせてみようかな」と、気づけば深酒に。そんな光景がありありと浮かぶ味、そして量である。
ソーセージも食べ応えを重視した大ぶりのものなので、これだけでも3杯ぐらいは飲めちゃうと思いますね。ほかにもグツグツの状態のまま食べてもらえるアヒージョとか、定番のフィッシュ&チップス、ゴロゴロの野菜を原型そのままに食べてもらえる「野菜のオーブン焼き」には、自家製のアンチョビ・ソースを効かせています。
あと、隠れた人気メニューはドライカレーですね。これはシェフの得意料理をそのまま再現してもらったものなんですけど、かなりスパイシーなので、ライスなのにツマミになるんです。もちろん締めに頼んでくれるお客さんも多くて、週末のランチでもよく出てくれますね。
ビールを美味しくするのは食事だけではない。尚子さんは「それぞれのビールの特徴を殺さずにサーブできるグラスこそが名脇役」だと語る。
ひとまずこの4種類があれば自分がつくりたいビールは出せるというものですね。左の太ったブランデー・グラスは、おもに発酵の芳醇な香りを楽しむためのもの。ストレートなグラスはイギリス寄りのエールにピッタリで、1杯を常温で長くゆっくり飲むことを想定したものです。ボトムに絞りが入ったものは喉越しを楽しむためのもので、ある程度傾けないと入ってこないのと、そのたびに「揺り戻し」があるので香りもパッと立つんですね。いちばん右のはドイツのバイツェン向きで、グラスのカーブが特有の泡を保持してくれるんです。
こう見えてすべてが同じ300ミリなんですよ。あまり飲まない人にも多すぎず少なすぎずちょうどいいですし、いろんな種類を飲みたいビール好きの人にも、この量であれば負担になりすぎない。これなら1杯1杯のビールにじっくり向きあってもらえると思ったんです。
もしもこの世界にビールがなかったら……
自分自身が楽しめる味、通いたい店をつくるという、シンプルにしてタフなアティチュード。しかしそんな尚子さんにも、「始めてみないとわからなかったこと」があったという。
これはうれしい誤算といってもいいと思うんですけど、「世の中にはこんなにもビールを飲みたがっている人がいるんだ!」という驚きですね。わたしの苦労を知ってる人には、よく「初めての1杯を出したときのこと覚えてる?」なんて訊かれるんですけど、初日はそんなことすら考えられないぐらいに忙しくて、「とにかく飲ませろ!」という人たちの熱気に圧倒されるがままに終わってしまったという記憶しかないんですよ。地元の人はもちろん、自分のFacebookやクラウドファンディングの「Makuake(マクアケ)」というサイトで情報を知った人たち、ビール好きの横のつながりというのが本当にすごくて。
わたしは長年ビール業界にいますから、毎年ビールの消費量が減ってきているということは知っていましたし、データを見ても明らかでした。でも、まだまだ裾野が広がっていることが肌で感じられたし、厳しい舌で苦言を呈してくれるマニアの人も、これまでクラフトビールの美味しさを知らなかった人も、同じように幸せにできるという可能性というのを再確認できたんです。
それではそんな尚子さんに最後の質問。「もしビールがなかったら、世界はどうなっていたと思いますか?」
えー! それは難しい!……たぶんわたしは乳業メーカーに勤めて、たくさん日本酒を飲んでたんじゃないですかね(笑)。
ただ、ひとつ自身を持って言えるのは、「ビールほど乾杯に向いているお酒はない」ということですね。もともと「さかづき」という店名は、「酒好き」と「杯(さかずき)」をかけたもので、そこには、友だち同士でも、恋人同士でも、もちろんお客さん同士でも、杯を交わしていい時間を過ごしてほしいという思いを込めているんですね。最近は常連さんも増えてきて、彼らが仲よく飲んでいるのを見ていると、もしこれがウイスキーやスコッチだったら、もっとそれぞれに酔っ払ってしまうだろうし、ここまでの親近感というのは生まれなかったと思うんです。ようやくわたしもお客さんとコミュニケーションを取れる余裕が出てきたし、彼らの意見をフィードバックしているうちに、バニラビーンズやハーブを加えたフレイバード・ビールやバレル・エイジング(樽熟成)なんかもやってみたいという欲求も出てきて、ゆくゆくは自社ブランドのビールを発表できたら、なんてことも思い描けるようになってきました。
ビールはどの国でもそれぞれの文化に即して発展しているものだし、もしビールでの乾杯ができなかったら、いろんなことがうまく転がらなくなっていたでしょうね。人間関係ももっとギクシャクしていて、たぶん……、もっともっと戦争が起きていたはず! 平和のためにも絶対にビールは必要なんですよ! 今日のところはこんな回答で勘弁してもらえますか(笑)?
さかづき Brewing
東京都足立区千住旭町11-10
03-5284-9432
営業時間:16:00~22:00(水~金曜日)/
13:00~22:00(土曜日)/
13:00~21:00(日曜日)
定休日:月・火曜日
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