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「私には敵はいない」 全文掲載(日本語訳)

「私には敵はいない ー私の最後の陳述ー」 劉暁波

2009年12月23日

50歳を過ぎた私の人生において、(天安門事件の起きた)1989年6月は、重大な転機となった。それに先立って、文化大革命のあとに大学入試が再開され、その1年目に私は大学生となった。学士から修士、そして博士まで、学生生活は順風満帆だった。卒業後、北京師範大学に残り、教鞭をとることになった。私は学生たちからすこぶる人気があった。また同時に、私は社会的な活動をする知識分子でもあった。1980年代に大きな反響を呼んだ文章や著作も書いた。各地に招かれて講演し、欧米からも声がかかり、学者として赴いた。
私はみずからに課していることがある。それは、人としても、文字を執筆するうえでも、誠実に、責任感を持ち、そして、尊厳を保って生きることだ。私は、アメリカから中国に戻り、1989年の学生たちの運動に参加したあと、“反革命宣伝扇動罪”という罪で、監獄に入れられた。愛してやまない教壇から去らねばならなかった。そして、二度と国内で文章を発表したり、講演したりできなくなった。体制側と異なる政治的な意見を発表し、平和的な民主運動に参加しただけで、1人の教師が教壇を去り、1人の作家が世に作品を出す権利を失い、公に講演する機会も失った。これは、私個人だけではなく、改革開放から30年がたった中国にとっても悲しいことである。

思い起こせば、天安門事件以降、私の最も劇的な経験は、いずれも法廷と関わるものだ。私は2度、大衆に向かって話す機会を得たが、それはいずれも、北京市中級法院の法廷が与えてくれたものだ。1度目は1991年1月。2度目は今である。問われている罪名はそれぞれ違うが、実質的には同じで、どちらも言論によって罪を得たということだ。

あれから20年が過ぎた。天安門事件で、無実の罪で死んだ人の亡霊は、今なお、安らかに眠れないでいる。この事件をきっかけに、私は、体制側とは立場の異なる者としての道を歩み始めた。1991年に監獄を出たあと、みずからの祖国で、公に発言する権利を失い、中国本土以外のメディアを通してしか発言できなくなった。ただ、そのために長年にわたり、当局の監視を受けた。1995年5月から1996年1月まで、自宅にいながら監視を受け続けた。そして、1996年10月から1999年10月まで、労働矯正教育を受けた。そして、今再び、私は、政権による敵対意識によって、被告席に立つことになった。 しかし、私の自由を奪った政権に伝えたいことがある。私は、20年前に天安門広場でハンガーストライキをした時に宣言した信念を守り続けている。つまり、私には敵はいないし、うらみもない。私を監視する人も、拘束し取り調べる警察官も、起訴する検察官も、判決を言い渡す裁判官も、みな、私の敵ではない。もちろん私は、彼らの監視も、逮捕も、起訴も、判決も受け入れることはできないが、彼らの仕事と人格を尊重する。そこには、私を起訴した2人の検察官も含まれている。私が2人から調べを受けた時、彼らは私を敬い、誠意を示してくれた。

うらみは、個人の知恵や良識をむしばみ、敵対意識は民族の精神を堕落させ、生きるか死ぬかの残酷な争いを煽りたて、社会の寛容性や人間性を壊し、1つの国家が自由で民主的なものへと向かうことを阻むものだ。だからこそ、私は、個人的な境遇を超越し、国家の発展や社会の変化に目を向けたい。そして、最大の善意をもって、政権の敵意と向き合い、愛をもって憎しみをやわらげたいと願っている。

みなが知っているように、改革開放は、国の発展や社会変化をもたらした。私の理解では、改革開放は、毛沢東時代の「階級闘争が要だ」という政策方針を捨て去ることから始まった。それが転じて、経済発展や社会の調和が進んでいった。「闘争哲学」を捨て去るプロセスは、敵対意識をやわらげ、うらみを取り除くプロセスでもあった。そして、人の中にしみこんでいる“オオカミのミルク(敵対意識を助長するもののたとえ)”をなくすプロセスでもある。このことが、ゆとりのある環境を生み、人と人との間の敬愛の気持ちを回復させた。そして、異なる利益や価値観が平和に共存するために、柔軟な人間性の土壌が育まれた。国民の創造力を刺激し、思いやる心を回復させた。こう言いかえてもいいだろう。対外的に“反帝国主義・反修正主義”を捨て、国内的に“階級闘争”を捨てたことは、中国の改革開放が今に至るまで継続してきた基本的な前提だ。経済が市場化に向かい、文化が多様化し、秩序が法治化していったのは、いずれも“敵対意識”が希薄になったからだ。進歩が最も遅い政治の分野でさえ、敵対意識の希薄化によって、政権の社会の多様化に対する寛容度が増している。政治的に意見の違う者に対する迫害も大幅に減った。1989年の民主化を求める運動の位置づけも「動乱・暴乱」から「政治的騒ぎ」に変わった。敵対意識の希薄化によって、政権は人権の普遍性を受け入れ始めている。1998年、中国政府は、世界に向かって、国連の2大国際人権規約に署名するという約束をした。これは、中国が普遍的な人権の基準を受け入れたことを示すものだ。2004年、全国人民代表大会は憲法を改正し、初めて「国家は人権を尊重し保障する」と書き込み、人権が中国の法治の根本原則の1つになったことを示した。同時に、現政権は「人をもって基本とする」、「調和した社会を作り上げる」と提案した。中国共産党の執政理念が進歩していることを示している。これらのマクロな進歩は、私が拘束されて以来、みずからの経験の中で感じたものだ。

私はみずからが無罪だと思うし、私に対する罪の追及も憲法違反だという考えを堅持している。ただ、私が自由を失った1年余りの間に、2つの留置施設に入った。4人の警察官、3人の検察官、2人の裁判官と話をしたが、彼らが私を尊重しなかったことはなかった。規定の時間を過ぎて調べることもなかった。自白を迫ることもなかった。彼らの態度は、平和的、理性的であり、常に善意を示してくれた。6月23日、私は、住宅での監視状態から、北京市公安局第一看守所、通称“北看”に移された。ここでの半年間でも、管理や監督をするうえでの進歩をみることができた。

1996年、私は古い“北看”に入っていたことがある。今の“北看”は、その10数年前の“北看”と比べると、施設も、管理も、かなり改善した。とりわけ、“北看”で始められた人間味のある管理は、入所者の権利や人格を守るうえで、管理する側の発言や行動に柔軟な対応が定着していた。心温まる放送、雑誌、食事前や起床、それに睡眠の際の音楽など。これは、入所している人たちに尊厳やぬくもりを与え、彼らはそれにより秩序を守り、「ろう獄のボス」のような存在には反対するんだと自覚させた。入所している人に人間的な生活環境を提供するだけではなく、彼らの精神状態も大幅に改善された。私と私の管理担当者はその部屋で間近に接触していたが、彼の入所者に対する尊重や関心は、細部にいきわたっていた。すべての言動に浸透していて、温かみを感じさせた。誠意があり、正直で、責任感と善良な心を持ったこの担当者と知り合えたことは、“北看”にいた私の幸運だった。

こうした信念と経験から、私は中国の政治の進歩は止まることはない、と固く信じている。私は将来、自由な中国がやってくると楽観している。なぜなら、いかなる力も自由を求める人々の欲求を阻止することができないし、中国はゆくゆく人権を至上とする法治国家になるだろうから。私は、こうした進歩が今回の裁判の審理の中で示され、合議制の公正な裁判が行われ、歴史の検証に耐えられるものであることを期待する。

この20年で最も幸せなことを言うならば、それは、妻・劉霞の無私の愛を得られたことだろう。きょう、妻は法廷で傍聴することはできない。でも、君に言いたい。親愛なる君へ。私は固く信じている。君の僕に対する愛がずっと変わらないことを。これほど長い時間、自由のない生活の中で、私たちの愛は、外部の環境に押しつけられた苦渋に満ちていた。でも、振り返ってみれば、やはり私たちの愛に限りはない。私は形のある監獄の中で服役しているが、君は形のない心の監獄で私を待ってくれている。君の愛は、監獄の高い壁を越え、鉄の窓を通り抜ける太陽の光だ。私のあらゆる皮膚をなでまわし、私のあらゆる細胞を温める。私の心に、穏やかさ、清らかさ、輝きをもたらし、獄中の1分1分を意義のあるものにしてくれる。ただ、私の君への愛は、申し訳なさとおわびばかりで、時々気が沈み、足取りがふらつく。私は荒野に転がる石ころだ。雨にうたれ、風に吹かれるままだ。人はその冷たさに触れようとしない。しかし、私の愛は固く、するどく、どんな障害だって貫く。たとえ私が粉々になったとしても、灰となって君を抱擁するだろう。
親愛なる妻よ。君の愛さえあれば、私は平然と、まもなく言い渡される判決と向き合うことができる。みずからの選択に悔いはない。楽観的に明日を待っている。

私は望んでいる。私の国が表現の自由のある場所となり、ひとりひとり国民の発言が等しく扱われることを。そして、異なる価値観、思想、信仰、そして、政治的な考え方が共存できるようになることを。

私は望んでいる。多数意見と少数意見がともに等しく扱われることを。とりわけ、権力者と違う考え方であっても、十分に尊重され、守られることを。

私は望んでいる。この国で、あらゆる政治的な意見が公に語られ、国民が選択できるようになることを。すべての国民が全く恐れることなく、みずからの意見を表明することを。そして、当局側と異なる意見だったとしても、政治的迫害を受けないことを。

私は望んでいる。私が、中国で、文章を理由に、刑務所に入る最後の被害者となることを。そして、今後、言論を理由に罪とされる人がいなくなることを。

表現の自由は、人権の基礎であり、人間性の根源であり、真理の母である。言論の自由を封殺することは、人権を踏みにじり、人間性を窒息させ、真理を抑圧することである。 憲法に与えらえれている言論の自由という権利を行使し、1人の中国国民として社会の責任をまっとうするにあたり、私のいっさいの行為は罪にあたらない。たとえこのために非難されようともうらみはない。

みな、ありがとう!

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