タコゾネスの朝は早い
タコゾネスの朝は早い。正確にはオクタリアンたちの朝が早い。彼ら彼女らは、陽が海からつむじを出したところで起床し、タッチの差遅れて鳴った目覚まし時計の頭を冷静に手のひらで押し返す。伸びをし、歯を磨いて、大人は仕事に、子どもは学校に向かう準備をする。イカリングたちが寝ぼけまなこで友人にメッセージを飛ばし、ハイカラな都市部の喫茶店で気の利いたフラペチーノをすする約束をしている頃には、せっせと縄張り奪還の下準備をしている。勤勉で野心家で、大がつくほど真面目なのが、タコの良き習性なのである。
で。
タコゾネスの朝は、中でも特に早い。
もちろん、それなりに理由はある。タコ種族の女性はやるべきことが多いのだ。各々が、ただの同僚とか、伴侶候補とか、私だけのヒーローとか呼称する対象のために、毎朝準備を怠るわけにはいかないのである。
今日も目覚めの朝がきた。タコゾネスはビゼンクラゲのようにふにゃふにゃとした足取りでキッチンへ向かうと、蛇口から地下水をコップに注ぎ、一気に飲み干して、目を二回ギュッとつむった。パチパチ。それだけで彼女の背筋はすっくと張りつめる。
彼女は服を脱ぎ、そのままシャワールームへ入る。浸透圧を気にせず頭から浴びる冷水はとても心地よい。海が全ての始まりと一部の歴史家は言うが、実は嘘ではないのかもしれない。
タオルで軽く体を拭いた後は、乾燥との勝負だ。潤いとか、ぬめりとか、吸着力とか、タコにとって失われてはならない若さの秘訣を死守せねばならない。タコゾネスは専用の保湿パックを取り出し、それを頭上に広げて、タコ足状の髪を覆った。パックには吸盤の凹凸を考慮した切れ目があるので、位置を調整しながらなじませていく――タコによってはパックを顔にも貼る個体もいるが、タコゾネスはこれはやりすぎだと思っている。大事なのは吸盤周辺の保湿なわけだし、顔に貼る科学的根拠がない――。きれいに貼れたら、時間が経つまで歯磨きだ。タコゾネスは夢中になって歯を磨いた。彼女は歯医者に行きたくなかった。
口をすすいだ後、目元のまつげを払って、ハサミをとった。パックからはみ出した分の髪をさっくりと切る。切った後の髪は、タッパーに入れて冷蔵庫へ。夕飯はこれでカルパッチョを作ろう、とタコゾネスは思った。
適当にパンの上にありものを乗せ、オーブンに放り込んで、ふたたび洗面所の鏡の前。体を拭いたバスタオルは、そのまま洗濯機だ。洗濯機は良い、とタコゾネスは思った。乾燥機も好きだ。どちらも蛸壺っぽい。
化粧品を取り出す。アイラインを引いて、濃いめのチークをさす(元々が赤いので、濃いめにしないと見えないのだ)。リップはツヤ感だけ乗せるのが流行りだった。人間の文献には他にもファンデーションとか、色々な化粧道具の名前があるが、タコにはいまいち用途がわからなかった。あまりベタベタやりすぎても、肌のぬめりやとろみを殺しかねない気がする。
「・・・・・・」
ワカメを頭に乗せるべきだろうか、と彼女は鏡の向こうの自分を睨んだ。乗せるなら、右?真ん中?
「ま、どうせ気づかないか」
制服をハンガーから外し、インナーの上に着込んでいく。タコゾネスの制服は支給制であるが、金属部分は非常に高価なため、紛失等すると多額の請求を被ってしまう。取り扱いには細心の注意が必要だ。そんなことも知らず、この前とあるオクタリアンが酒の席で制服にインクをかけた。タコゾネスの表情がどうなって、目つきや、拳の行方がどんなだったかについては・・・残念ながら軍事秘匿要項である。
最後にバイザーを装着して、完了だ。彼女の最新バイザーはブランドもので、縁に入ったイルカの彫金は見る人が見れば思わず唸ってしまう一品である。イカ共はダサいだなんだ言っているが、見る目がない。
「ほんと、見る目がない」
キッチンに戻るとオーブンを開いて、ようやく朝食だ。この頃にはもう他のオクタリアンも活動を始めている。彼らの朝は本当に早い。彼女もそろそろ家を出なければならない。
「ブキよし。服よし。靴の汚れなし・・・あ、香水、はスパイシーにしとこ」
パンをくわえながらタコゾネスは思った。ほんと、タコのメスって大変だ。イカのメスもこんな風に忙しくやっているのだろうか。オスとしか会ったことがないからわからない。
たぶん、そんなことないだろうな、と彼女は眉を寄せた。奴ら本当に好奇心で生きていて、きっちりするということを知らない。興味がわいたら公共の場にインクをばらまくし、地下に来たり、明らかに違法な仕事を引き受けたり、自由奔放だ。きっと家に誰かが忍び込んで、机の上の花瓶の位置を一センチずらしたとしても、イカは気づかないだろう。タコゾネスは奴らのそういうところが鼻についた。気になって仕方ない。私が花瓶をずらされたら、位置を戻した挙句に水を変え、首を傾げはじめた二本の背の高い菖蒲を新しくして、水滴を定期的に拭き取るはずだ。
そういうとこ、きっちりしてほしい。
「ごちそうさまでした」
台所でパンくずを払うと、きれいに揃えてあった靴を履いて、玄関を出る。忘れ物がないかもう一度チェックして、鍵をかけた。
「やあ、おはよう」
彼女に声をかけてきたのは、隣人のタコダイバーだ。緩やかな前髪のカールが今日もキマっている。
「化粧して、デート?」
「仕事よ」
「またかい、休暇とれるのに」
「勤勉なだけ」
「だって君の仕事ってあれだろ?なんとか隊の」
「からすとんび。歯のことよ?歯医者行って勉強した方が良いわ」
「その、歯隊が来てから命令が来るんだよね」
「そうね。出勤というより出動のお仕事」
「じゃあ相手が来なければ、一人で現場に行くだけ無駄なんじゃ」
「それはそれで、一日楽に過ごせるわ」
「はは、勤勉なんじゃなかったっけ」
彼女は肩をすくめた。
「じゃ。そろそろヒーローに会いに行かないと」
「奴らは狡猾だ。慎重にな」
「それじゃ埋もれちゃう。大胆に攻めなきゃ」
タコゾネスは手を振ってエレベーターへ向かった。遠ざかる背から鼻歌がわずかに聞こえる。
タコゾネスの朝は早い。もちろん、それなりに理由はある。
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