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2015-11-13

ポストモダン人類学の代価-ブリコルールの戦術と生活の場の人類学 その1 小田亮

序論 問題の所在

 本論文の目的は、ポストモダン人類学*1の研究動向をサーヴェイすることではなく、ポストモダン人類学におけるオリエンタリズム批判や文化の構築論が基づく、本質主義(essentialism)と構築主義(constructionism)の対立という枠組みが見えなくしていることを明らかにすることにある。ポストモダン人類学は、従来の人類学が問うことなしに前提としていた「文化」や「伝統」や「民族」や「ネイティヴ」といった諸概念を疑問視し、特定の他民族(他者)の文化の本質を客観的かつ全体的に表象できるとする民族誌リアリズム批判することから始まった。さまざまに分岐するポストモダン人類学には、本質主義への批判という共通点がある。

 ポストモダン人類学批判する本質主義とは、イスラームや日本人やヌエル族といったカテゴリーに、あたかも自然種のような全体的で固定された同一性があることを暗黙の前提にしている(そのような同一性アイデンティティを、酒井直樹[1996]の用語を借りて「種的同一性」と呼ぼう)。けれども、本質主義は、たんに認識論の問題や、民族誌を書くときの他者表象だけの問題ではない。それは、近代に特有な支配のテクノロジーの問題なのである。

 E・サイードの『オリエンタリズム』(1978年)が明らかにしたように、オリエンタリズムにおける西洋/東洋という本質主義的な区分は、なによりもまず、西洋という想像された自己を、周囲の状況や関係性から独立し、首尾一貫した主体として固定するためのものだった。それによる種的同一性の確立こそが、「文明化の使命」といった主体性をもつ西洋の植民地主義帝国主義の支配のレトリックを可能にしたのである。つまり、その本質主義的な種的同一性は、西欧近代のヘゲモニーを確定するためのものだったのであり、サイード批判しているオリエンタリズムとは、西欧近代が創り出した「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」[サイード 1993a: 21]である。したがって、オリエンタリズム古代ギリシア以来の西洋/東洋の存在論的・認識論的区別とか、どこにでもあるエスノセントリズム一種として捉えることは、それが近代に登場した支配のテクノロジーであることを隠してしまう。

 しかし、構築主義による本質主義批判は、被抑圧者ないしマイノリティの対抗的文化の創造という文脈において政治的な議論を呼んでいる。それは、人類学主題としている非西洋の土着主義的な民族主義や伝統復興運動や、アフリカ系アメリカ人によるエスニシティ運動にみられる「アフリカ中心主義」といったものだけではなく、フェミニズム同性愛者の解放運動においても問題となっている。例えば、同性愛者が治療・矯正すべき病者として抑圧されてきた状況のなかで、同性愛解放運動では同性愛者はあらゆる社会に生来的に存在するもので、それは変わらない生まれつきの「本質」なのだという本質主義的言説が用いられる。それに対して、同性愛異性愛の区別は不変の特徴ではなく、近代におけるセクシュアリティという概念図式の登場によって文化的に構成された区別であるという歴史学者構築主義は、解放をめざす同性愛者の肯定的アイデンティティを崩すものであり、解放の希望に対する挑戦として批判されてもいる[cf. ハルプリン 1995:91]。

 構築主義の直面している政治的ジレンマは、そのような被抑圧者やマイノリティの用いる本質主義的言説を批判できるのかというものである。そこから、マイノリティが「戦略」的に本質主義的言説を用いることを認めるという「戦略的本質主義」が登場してきた。しかし、このような本質主義構築主義の対立そのものが、近代的支配のテクノロジーや「啓蒙主義主体」の枠内に囚われているというのが、本論文での主張である。それは、被抑圧者が本質主義的な言説を「戦術」的に利用する(すなわち、支配文化が規定している意味とは違う別の用い方をする)ことを否定するわけではない。むしろ、問題は、そのような利用ないし折衷が、近代の支配のテクノロジーとしての種的同一性を強化するのではなく、種的同一性を崩していくような場を見いだすことであり、いいかえれば、その場合の「戦術」とはどのようなものかを明らかにすることにある。

 構築主義のジレンマは、ポストコロニアル状況での「伝統の発明」ないし「文化の構築」という主題にもかかわっている。ホブズボウムらによって出された「伝統の発明」[Hobsbawm and Ranger 1983]論は、本質主義に対する強力な批判となったが、その後、より徹底した構築主義から、ホブズボウムの議論は「発明された伝統」とは区別された近代以前の「本物の伝統」を前提としているという点で本質主義であるという批判を受けている。

 そのような構築主義による脱構築の徹底化の一方で、西洋の学者たちが「伝統の発明」論のような脱構築を、世界システムの中で明らかなヘゲモニーをもつ自分たちの文化や伝統にではなく、植民地化された地域における再構築された伝統に対して適用するとき、その構築主義的な議論に対しては、現地の民族主義者たちから新植民地主義であるという批判が寄せられている。すなわち、自己肯定的アイデンティティの確立をめざす土着主義的な民族主義運動を「伝統の発明=捏造」と指摘する構築主義議論は、抑圧されてきたネイティヴ自身によるアイデンティティの確立の基盤を破壊しようとしているという批判である。

 つまり、理論的には、サイードやホブズボウムやキージングらに対してもその本質主義的側面を批判する徹底した構築主義に立つポストモダン人類学者たちの弱点は、その構築主義的な議論を被抑圧者である(と認定される)第三世界の言説に適用すると「政治的に正しくない」と非難されてしまうということにある。その批判に対して防衛するために、すべての伝統を構築されたものという構築主義の理論を保ちながら、現地における文化の構築を、アイデンティティの確立のために必要なものと肯定的に評価するという戦略的本質主義の立場をとることが多くなっているが、それによって問題が解決されるわけではない。この立場からは、例えば、西洋による征服への反攻という、非西洋におけるアイデンティティの確立のための土着主義的な民族主義の一つでもある近代日本の帝国主義的侵略や大東亜共栄圏の構想を批判できなくなるだろう[cf.ミヨシ 1996: 68-9]。また、現地の言説が多様であったり、ハワイのように、民族主義者たちが、フラダンスウクレレなどのような観光産業によって創られたハワイの文化的イメージを自分たちの伝統文化とは無縁の、西洋の帝国主義的なまなざしに基づいて発明されたイメージだと批判しているとき、それに反して、観光文化も抑圧されたネイティヴ自身によるアイデンティティの構築であると評価することができるかというジレンマも解消されない。

 本論文において、私は、これらのジレンマが本質主義構築主義かという二者択一的な理論的枠組みそのものによって生じていること、そして、そのような枠組みによる議論においては、「自己の肯定」やアイデンティティの確立ということが、近代の支配のテクノロジーオリエンタリズムの装置)に規定された、啓蒙主義的な主体や知の観念によってのみ考えられていることこそ、問題なのだと主張したい。すなわち、それらの議論では、例えば、自己の肯定ということが、全体化され首尾一貫したアイデンティティ意識的・自覚的な確立などなしになしうるということ、いいかえれば、その時その場で断片的・挿話的に肯定しうるという可能性を考慮できなくなっている。

 また、ポストモダン的な構築主義者が、ホブズボウムらの「伝統の発明」批判を、本物の伝統と偽の伝統を区別する本質主義として捉えて否定することは、それが、サイードオリエンタリズム論やアンダーソンの「想像の共同体」論とともにもっており、ミシェル・フーコーの知と権力論などにつながる、近代の支配のテクノロジーに対する批判も盥の水と一緒に流してしまうことになる。ポイントは、一つには、近代以前と近代の知と権力の装置の区別や、あるいは支配文化と民衆文化との間のヘゲモニーに関する違いを、「純粋」な伝統文化と西洋化で汚染され破壊された文化との区別や、経済的な下部構造によって規定された「階級」の区別といった、本質主義的な区別ではない仕方で区別できるのかという点にある。そして、もう一つは、近代のオリエンタリズムのような種的同一性に基づく支配と表象への批判が、同じ種的同一性による主体化=従属化になること――すなわちアイデンティティ政治学となることをいかに避けられるのかということである。

 本論文は、種的同一性が、人々の生活の場における隠喩/換喩の変換による複綜した社会関係を、全体‐個の提喩的な関係へと一元化することによって成立すること、そして提喩的関係からなる階層的体系こそが、民族誌的権威につながる一望監視装置的な視座の確保を前提とすることを示そうと思う。その利点は、近代以前の実践や表象を、隠喩/換喩的関係の無意識の変換による一貫しない臨機応変の「ブリコラージュ」として把握することで、提喩的関係による種的同一性に基づく近代の支配と表象の「全体化と規格化」との区別を、本質論的ではなく構造論的にできることにある。

 そのような視点から捉えた民衆文化や被抑圧者の文化は、支配文化から断絶した固有の体系としてあるものでも、前近代にあったものでもない。それは、むしろ、文化の客体論[Thomas 1992]や被抑圧者の固有文化を主張する〈断絶論〉などが前提としている対立を横断的・断片的につないで別のものを作り上げてしまう戦術そのものにある。つまり、被抑圧者(サバルタン)の文化は、実体的全体としてではなく、断片性や横断性としてあるのであって、近代の支配文化によって生み出されたものを独特のやり方で活用(=流用)するそのやり方それ自体にある。ミシェル・ド・セルトー[1987]は、そのような独特のやり方を、支配のテクノロジーとしての「戦略」に抗する「戦術」と呼んでいるが、それは、支配文化に包摂された人々が、その包摂のただ中においてなんとか自己の生活を意味あるものにするために行うブリコラージュ的戦術なのである。

 そのようなブリコラージュ的戦術による「抵抗」に注目することによって、種的同一性にもとづくアイデンティティ政治学や、抑圧の仮説[フーコー 1986]によって見いだされる「抑圧されている犠牲者」というカテゴリーを介した「犠牲の政治学」や「無実の政治学*2を免れることができる。「抑圧の仮説」の問題点は、抑圧から解放される未来において実現される全体や、抑圧される以前の過去にあった全体という視点から、「いま・ここ」の生活の場を、抑圧された欠如態として否定的に捉えてしまう点にある。そこには、解放された状態や、欠如が再び埋められた状態が、完全なる「全体」として想定されているが、そのような全体化の思考こそ、種的同一性を固定し、生活の場におけるその時その場のしなやかな自己の肯定を見えなくしているものなのである。

 ポストモダン人類学議論が盥の水と一緒に流してしまったものは、そのような生活の場におけるブリコラージュ的戦術による自己の肯定や抵抗である。それに対して、本論文では、近代の資本主義システムや支配文化のイデオロギー包摂されながらも、いま・ここの場のただ中でなされる、なかば無意識の(より正確には、主体の意識/無意識という対立を超えた)「ブリコルールの戦術」に着目する人類学を提唱しようと思う。それは、民衆やサバルタンの戦術や生活知に注目することによって、民族や階級や性差や職業や地位といった同一性によって規格化された個人が、周囲の社会的結合から身を引き離すことによって、自己の言説や知や実践を首尾一貫したものとして意識的・自覚的に把握しているという「啓蒙主義主体」を前提とする支配テクノロジーや近代知から遠ざかることをめざすものである。

 第1章 オリエンタリズム本質主義

 1 人類学危機オリエンタリズム

 『ライティング・カルチャー』[Clifford and Marcus 1986]に寄稿したライティング・カルチャー派のポストモダン人類学者たちは、これまでの人類学民族誌客観的本質主義的な書き方、すなわち民族誌リアリズムを問題にした。彼/彼女たちは、そのリアリズムには、フィールドにおける部分的で個人的な知識と、テクストを書くときの全体化された客観的表象との間のギャップが隠蔽されていること、そして、その全体化された客観的表象正当化するために、人類学者が対象文化全体を見通すことのできる特権的な視点――アルキメデスの点――に立っていること、いいかえれば、帝国主義的な視線隠蔽されていることを指摘したのである。

 これまでの人類学者は多くの場合、自分の母国が政治的・経済的に支配している地域に出かけてフィールドワークをしてきた。つまり、そこには歴然とした不平等がある。しかし、それでもフィールドワークという作業には、たとえそれが対等な相互性ではなくとも、対話的・身体的な相互性がともなう。けれども、専門家たる人類学者がある文化について記述するという民族誌レトリックは、文化というものを明確な境界をもつ有機的な全体であるかのように前提し、フィールドでの相互性から自分を切り離して、フィールドでは部分的にしか経験できない現象を全体化し、その全体をあたかも神の目から見たかのごとく表象することを可能にしてきた。そして、神の高みから人類学者によって見通されたその全体は当該文化の「本質」となり、その本質はフィールドでの相互性からも歴史からも影響を受けない不変のものとされた。そのようなレトリックこそが、ポストモダン人類学による議論の中で、民族誌リアリズムと呼ばれて批判され、また、全体的・客観的表象という本質主義的なレトリックに潜む政治性が新植民地主義として非難されるようになってきたというわけである。

 このような民族誌レトリックは、エドワード・サイード[1993a、1993b]が「オリエンタリズム」と呼んだものと基本的には同じものと言ってよい。サイードの著書『オリエンタリズム』は、主に18世紀末から20世紀初頭までの中東に関する学問的・芸術的オリエンタリズムに焦点を当てており、直接には文化人類学に対する批判は含まれていなかったが、人類学がそこで批判されている近代オリエンタリズム系譜に連なることは明らかだろう*3

 サイードのいうように、オリエンタリズムはいくつかの側面をもっている。それはまず、「『東洋』と…『西洋』とされるもののあいだに設けられた存在論的・認識論的区別にもとづく思考様式」[サイード 1993a: 20]であるが、この意味でのオリエンタリズムは、古代ギリシア以来のものである。けれども、サイードの『オリエンタリズム』にとって、そして民族誌における文化の表象を問題にする人類学にとっても、重要なのは、18世紀末から19世紀初頭に始まる、近代のオリエンタリズムである。

 近代の支配と知の装置としてのオリエンタリズムは、単なる存在論的・認識論的区別にとどまらず、「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」であって、それ以前のオリエンタリズムが、未知の土地と未知の他者であるオリエントに対する《驚異》(憧憬と嫌悪両面の)を核としていたのに対して、近代のオリエンタリズムは、ヨーロッパを中心として編成された、未知などすでにない世界の中に、自分たち西洋とは反対のもの、いわば逆転した自己としてのオリエントを生産する装置である。サイードはそのようなオリエントの生産を「オリエントオリエント化」と呼んでいるが、それによって全体的・還元的なカテゴリーとして生産されたオリエントは、現実の東洋にではなく、西洋近代に属している。そこでは、オリエントは「オリエント的停滞、オリエント的官能、オリエント専制オリエント的非合理性」といった紋切り型の言説の流通によって、後進性や不変性や受動性、非合理性といった、固定されたアイデンティティの付与された還元的カテゴリーに押し込められていた。このようなオリエント化されたオリエントのヴィジョンは、西洋が自らの首尾一貫したアイデンティティ合理的能動的な主体として形成するために必要な鏡像だった。そして、そのような鏡像としてのオリエントによって、ヨーロッパは自身のアイデンティティを首尾一貫した固定的な全体として形成することができるのである。近代オリエンタリズムは、単なるエスノセントリズムでもなく、また支配‐被支配の力関係の表現でもなく、オリエントの沈黙を前提とした「規律=訓練の秩序立った遂行の学」[Said 1993: 99]なのである。

 その分類学において、オリエンタリストはオリエント全体を一望できる外在的な点に立ち、自分で自分を表象する能力のないオリエントに代わってオリエント表象できるという現実が創りだされる。「オリエンタリストはオリエントを高みから概観し、自分の眼前にひろがるパノラマ-文化、宗教、歴史、社会の全貌を掌握しようとする。それを行うためには、彼は、一連の還元的カテゴリー(セム族、ムスリム精神、オリエント、等)の装置を通して、細部をくまなくながめなければならない。こうしたカテゴリーは元来図式的かつ効率的なものであり、東洋人はオリエンタリストが彼らを知るようには自分自身を理解できないということもまた、多かれ少なかれ前提とされているのであるから、オリエントのヴィジョンはどれも究極的に、その所有者たる人物、制度、言説に依拠して、その首尾一貫性と力をひき出すことになる」[サイード 1993a: 92]。

 そして、今日よく言われている人類学危機は、ある意味では、第一次大戦後にオリエンタリズムが迎えたヴィジョンの危機の反復ともいえる。近代のオリエンタリズムが生み出したステレオタイプによってオリエント化されたオリエントのヴィジョンは、オリエントの沈黙を前提とし、オリエントが西洋のオリエンタリストによってのみ捉えうる不変の本質をもっているという前提によっていた。けれども、第一次大戦後に興ったオリエントにおける民族主義的な運動や反乱は、不動の受動オリエントというヴィジョンを揺るがし始めた。永遠に変わらない本質をもつ停滞的で受動的なオリエントという固定的なヴィジョンの虚構に反する現実が西洋の読者たちの目にも明らかになってきたのであった。

 このような危機に対する近代オリエンタリズムの対応は、オリエントを変化する現代史に参入させるために積極的に介入するという「帝国の代理人」(専門知識のある学者が政策決定に参与することを含む)の対応と、オリエント独自の価値を認め、それを閉塞する西洋の思想を救うために用いようとするアカデミック研究者たちの文化相対主義的な対応とに分けられる。

 前者の介入という対応では、たしかに永遠の不動性に閉じ込められていたオリエントは変化の可能性を与えられ、西洋との同時代的な主体性を獲得しているように見える。しかし、オリエントを変動する歴史に導きいれるのは、専門的知識をもった西洋人であり、オリエントの盲目的な反抗に規律正しさや目的を与えるのも、また西洋の普遍的合理性や論理性を正しく教えるのも西洋人である。つまり、オリエント現代史に参入しても依然として受動的であり、能動的であるのは、彼らを眠りから目覚めさせ、正しく指導する西洋のほうなのだという図式は変わってはいない。

 そして、後者のアカデミック研究者たちの対応は、基本的には、オリエント民族主義などの運動をオリエントの本質からの逸脱と解釈するというものであった。その種のオリエンタリズムは、オリエントの文化や思想を価値のないものとはせず、「価値のある文化や思想は西洋のみにある」という西洋の人種主義的で排他的な観念を批判する。しかし、そのような文化相対主義的な思想を示す一方で、オリエントにおける民族主義には反対したのだが、それは「民族主義によって、イスラームを東洋的たらしめている内的構造が蹂躙されると感じたからであった。彼は、世俗的民族主義の最終的な結果として、東洋が西洋と何ら異なるところのないものになってしまうだろうと感じたのである」[サイード 1993b: 146]。つまり、オリエントが西洋とは別の実体としてのアイデンティティを有するということだけは保持されていたのである。

 このようなオリエンタリズム危機への対応は、現代の人類学危機への対応にも見ることができる。例えば、応用人類学や開発人類学の多くは、第三世界が近代化や開発を円滑にすすめることができるように自分たちの知識を活かそうというもので、本国の政府のためであろうと現地の政府や人々の立場に立とうと、西欧近代の価値を非西欧圏に教えようとする点で、「帝国の代理人」の対応と基本的には変わりがない。一方、異文化と自文化の差異を本国における文化批判に活かそうという現代の人類学者の意図は、アカデミックなオリエンタリストたちの意図と類似している。また、伝統社会の文化の中に、もうひとつの交替的選択肢としてのエコロジー的思考を見いだすという傾向も、第一次大戦後の「西洋の没落」を救済するオリエントの思想という図式と同一のものである。つまり、危機への対応においても、近代人類学の対応は、オリエンタリズムのそれと並行していたと言えよう*4

 サイードオリエンタリズム批判の後に登場してきたポストモダン人類学は、従来の危機への対応とは違ったやり方でこの状況に臨もうとしたと言ってよい。それは、近代人類学が保持してきた本質主義リアリズムといったパラダイムを、民族誌を書くという行為から放逐し、あるいは、そのような本質主義を可能にしている人類学的研究の政治性を暴こうという対応である。したがって、ポストモダン人類学者は、たとえ研究の主題を開発や観光といった状況に即応したものに切り替えたり、研究地域を「自国」へと回帰しても、本質主義リアリズム放棄しなければ、人類学が近代オリエンタリズム帝国主義的なまなざしから脱却することはできないという認識を共有していると言えよう。

 しかし、そのような共通認識から生じるポストモダン人類学議論はさまざまに分岐し、混乱しているようにみえる。それは、ポストモダン人類学においてサイードオリエンタリズム批判それ自体に対する読みや評価が分かれていることにも現れている。すなわち、サイード自身が本質主義リアリズムに囚われているという批判を浴びたり、サイードオリエント犠牲者として固定し、西洋が加害者であるのに対してオリエントは無垢の被害者であるといった「犠牲の政治学」ないし「無実の政治学」の図式に囚われており、オリエンタリズムの裏返しのオクシデンタリズムに陥っていると批判されている一方、逆に、サイード批判をするポストモダニストたちの言説があまりにも非政治化されていると批判されたりしているという状況がある。

 そのような議論においては、オリエンタリズムは、「認識論的側面」にそれとは別の問題である「政治的側面」を加算したもののように扱われている。つまり、どこにでもいつの時代にも見られる他者や異文化に対する一般的なエスノセントリズムに、言説化する特権が一方にしかない不均衡な帝国主義的な力関係を加えたものがオリエンタリズムというわけである。しかし、サイードオリエンタリズムを、M・フーコー用語を用いて、規律=訓練の言説として把握するとき、認識論的側面と政治的側面はそもそも不可分のものとされていたはずである。つまり、オリエンタリズムは、エスノセントリズムがたまたま力関係の不均衡によって普及したものではなく、その本質主義的な認識論がそのまま近代特有の政治的テクノロジーに属していることを意味している。

 たしかに、サイード議論には、帝国主義的なまなざしによるオリエントオクシデントの二分法と、どんな社会の生活の場にも多かれ少なかれ見られるエスノセントリズムにおける自/他の二分法とが連続した同質のものであると読めるような曖昧さがみられる。それは、例えば、サイードオリエンタリズムにおける心象地理説明をする際に、「自分の土地やその周囲と、その向こう側の領域とのあいだに境界線を設け、向こう側の土地を『野蛮人の土地』と呼ぶ」というような自/他の区別を「普遍的習慣」と呼び、「近代社会も原始社会も、ある程度までこうした消極的なやり方で、自分たちのアイデンティティの感覚をひき出してきたように思われる」[ibid.: 129-30]と述べているからである。このような言い方や、オリエンタリズム古代ギリシア以来の「『東洋』と『西洋』とされるもののあいだに設けられた存在論的・認識論的区別にもとづく思考様式」とするような言い方は、近代のオリエンタリズムのみが西洋/非西洋という対立を用いて、想像された種的同一性を確立しえたという核心を覆い隠してしまう。

 しかし、サイードにとって、どんな社会にもあるエスノセントリズム(これをエスノ‐エスノセントリズムと呼ぼう)は、とりたてて非難したりすべき筋合いのものではないのに対して、「アイデンティティ政治学」による近代のオリエンタリズムやそれに対抗するオクシデンタリズムは打破すべきものであった。であれば、それらをエスノセントリズムとして一般化したり、あるいは自他の区別によるアイデンティティの確立といった一般論に還元してしまわないためにも、エスノ‐エスノセントリズムと近代オリエンタリズムとの区別を理念的に明確にしておく必要があるだろう。

 そして、エスノ‐エスノセントリズムによる自/他の区分と、近代オリエンタリズムによる自/他の区分との違いは、本質主義についての理解にとっても重要である。その区別をしなければ、何らかのカテゴリーによるアイデンティティの創出をすべて本質主義として批判したり(それはエスノ‐エスノセントリズム本質主義として批判するようなもので、そのような把握は本質主義の乗り越えを不可能なものにしてしまう)、あるいは逆に、あらゆる自己アイデンティティの確立には他者を必要とするといった一般論的な関係主義で、本質主義を乗り越えたつもりになってしまう恐れがあろう。

 2 サイード批判の問題点

 サイードによれば、近代オリエンタリズムとは、西洋がオリエントの全体を眺望し表象するための固有の場を占有するというフィクションの下でオリエントの本質なるものを一面的に規定する権力をもつ一方、オリエントはそのような固有の場をもてないゆえに自らを表象=代表することができず、オリエンタリストのみがオリエントに代わってオリエント表象=代弁することができるという前提によっていた。

 その意味では、サイードオリエンタリズム批判は、明らかに、文化の本質主義ではなく非本質主義に属し、リアリズムではなく非リアリズムに属している。文化の本質主義とは、それぞれの文化は、伝統や民族性といった「本質」から構成されており、それを実体的に把握することによってその文化の本当の姿――オリエントやセム人やインドやトロブリアンド島民やヌエルの「真正な authentic」文化――を理解できるとする立場で、リアリズムとは、そのような本質が実体として客観的に存在することを前提とし、したがってそれらによって構成される文化の全体を客観的に知りうるし、また表象しうるとする立場である。そして、それらは近代の人類学が保持してきた立場でもあった。

 それに対して、サイードは、次のように述べて、文化の本質主義リアリズムの立場を明確に退けている。

 真実のオリエントはオリエンタリストの描くオリエントとは違うものだ、と言ったところで、また、オリエンタリストの大半は西洋人である以上、オリエントがそもそも何であるかについて、彼らが内的感覚を持つことなど期待できないのだ、と言ってみたところで、オリエンタリズムのもつ方法論的欠陥が説明されるわけではない。これら二つの命題は、いずれも誤りなのである。真実の、あるいは本当のオリエントイスラームアラブ、その他何であれ)といったものが存在することを示唆するのが本書の主題なのではないのだし、……「局内者」の視野が「局外者」の視野に対して持つ必然的な優越性を主張することに本書の主眼があるわけでもない。むしろ、これまで私が議論してきたのは、「オリエント」それ自体が一箇の構成された実体であるということ、そして、ある地理的空間に固有の宗教・文化・民族的本質にもとづいて定義しうるような、土着の、根本的に他と『異なった』住民が住む地理的空間というものが存在するという考え方が、やはりきわめて議論の余地がある観念であるということであった。[サイード 1993b: 273]

 このような明確な本質主義批判リアリズム批判にもかかわらず、サイードに対して、それがオリエンタリストの描くオリエントが真のオリエントの現実とかけ離れていると主張しており、リアリズム本質主義に依拠した弾劾が混じっているという批判が投げかけられてもいる[太田 1993b: 463-4、杉島 1995: 210]。

 例えば、太田好信[1993b: 462]は、サイードオリエンタリズム批判を「認識論的な批判」として読むことは誤りであり、政治的な批判と読むべきだとしながら、あえてそれを認識論的に読むなら、サイードは、一方でフーコー的な視点から、言説としてのオリエンタリズムがその描写対象の「オリエントの現実」を創出していることを明らかにすると同時に、他方で、ヒューマニスト的なモーメントによって、本物のオリエントなるものの実在を前提とする主張をしているというように、互いに矛盾することを主張していると述べている。太田が指摘する、サイードの「本物のオリエントなるものの実在を前提とする主張」の例とは、つぎのようなものである。

 サイードは随所で「あるがままのオリエント」、「オリエントそれ自体」、「真のオリエント」あるいは本物のオリエント所在を前提として、オリエンタリストらのテクストはオリエントの「まがい物・幻影」に満ちているという。結果的には、「主観的再構成(オリエンタリストによるオリエント表象)」に対峙する「客観的構造(オリエントという指示対象)」を想定してしまうことになる。[ibid.:463-4]

 けれども、サイードが非本質主義の立場(太田の用語ではフーコー的立場)にたっているのは明白であり、太田らのようにそれを疑う必要はない。サイードは確かに、上の指摘にあるように、「あるがままのオリエント」とか「真のオリエント」といった語を使っている。しかし、サイードが、オリエンタリストのオリエントが真のオリエントではないと言わなくてはならないのは、オリエンタリストが「あるがままのオリエント」を記述していると主張しているからに他ならない。つまり、「真のオリエント」が本質として実在すると主張しているのは、オリエンタリストたちであってサイードではない*5

 いちいち検証する必要もないと思うが、例えば、太田の指摘する「オリエントそれ自体」[サイード1993a: 166]という語は、むしろフーコー的視点から、言説としてのオリエンタリズムによる「オリエントの現実」の産出の一例を説明する文脈で出てくるものであり、オリエントを語るときの紋切り型の比喩表現が、あたかも決まり切った舞台衣裳が道化という役柄を創り出すように、オリエントの現実を図式的かつ無時間的なものとして創り出すのだと述べている部分に出てくるのである。念のためにその前後を引用しておけば、「オリエンタリズムの ディスクール のさまざまな構成要素――つまりオリエントが語られたり記されたりするとき、いつも用いられる語彙――の下層には、表象的な比喩表現の集合がひそんでいる。これらの比喩表現と現実のオリエント……との関係は、演劇における様式化された衣裳と登場人物との関係にも似たものである。それは、例えば『エヴリマン』のつける十字架や、コンメーディア・デッラルテのなかで道化アルレッキーノが身につけるまだらの衣裳のようなものである。言い換えれば、我々は、オリエントを描くさいに用いられる言語とオリエントそれ自体とのあいだには、対応関係を探し求める必要がないのである。それは、その言語が不正確だからではなく、もともと正確であろうとしていないからである。ダンテが『地獄篇』で行ったように、この言語が目指しているのは、オリエントを異質なものとして性格づけることであると同時に、それを図式的に演劇舞台の上にとり込むことであった」(強調は引用者)[ibid.: 165-6]。ここで、サイードが、オリエントを語る比喩表現とオリエントの現実(あるいはオリエントそれ自体)との対応関係の不正確さを非難しているのではなく、むしろその対応関係が正確/不正確を問うような性格のものではないということを問題にしているということは明らかである。

 また、太田がそのつぎに挙げている「真のオリエント」[サイード 1993b: 16]という語も、真理とは比喩表現が永い慣用の後に確固たるものと思われるようになったものだというニーチェの洞察を受けて、オリエントに関するさまざまな慣用句がヨーロッパの言説のなかに定着し、「オリエント的性格とかオリエント専制オリエント的官能といった、オリエントの本質的特徴へと収斂していく」ということを述べている文脈で出てくるのであり、それらの「オリエントの本質的特徴」に収斂するような慣用句からなる領域が「真のオリエント」とは無縁のものだと述べている部分を、言語(テクスト)と現実との客観的な対応を問題にしているのだと読むことは、どう考えても無理だろう*6

 なにもここで、「サイード読みのサイード知らず」といった指摘をしたいわけではない。これらの議論を取り上げたのは、そこにポストモダン人類学ポストコロニアル論における問題点が浮き彫りにされていると考えるからである。そこでは、自分たちのそれぞれの動機から、サイードオリエンタリズム批判認識論的側面(理論的側面)と政治的側面に分けて、そのどちらかを批判することによって、自分たちの立場を表明するという読み方をしているように思われる。いいかえれば、どうしても認識論批判という側面と政治的批判という側面とを分けて考えたいらしいのだ。そのように分けることは、近代の支配のテクノロジーとしての「オリエンタリズムの装置」への批判ないし乗り越えというサイードの可能性の中心を取り逃がすことになるというのが私の主張である。

 ポストモダニストは、サイードが「具体的な人間の歴史と経験」[サイード 1993b: 285]と呼ぶ「足場」まで放棄している。支配テクノロジーに抵抗するためのその「足場」を、サイードは別のところで「世俗性」とか「世俗的生活」と呼んでいる(われわれは後でこれを「生活の場」と呼び直そう)が、ポストモダニストがそのような「足場」を自ら切り崩していくのに対して、われわれは、そのような「足場」は、種的同一性に基づく近代の支配テクノロジー批判するときに必要不可欠だと主張するのである。

 サイードは、あるインタヴューで、「帝国主義への抵抗はもちろんナショナリズムの勃興です。……それはアイデンティティの主張であり、アイデンティティを問題として前景化することが文化的政治的運動の全波及を伝えるものとみなされます。……そこでは、抵抗すると同時に自らの完全性を保つ(セゼールの〈ネグリチュード〉のように)国家や国民としての自己同一性を創造することに強調が置かれています。たしかにアイデンティティを主張することに根本的な価値があるとはいえ、しかしそこには、政治的にはもちろん知的にも大きな限界があるのではないでしょうか。その限界は、民族的アイデンティティフェティッシュ化と関係しています。民族的アイデンティティフェティッシュになるだけではありません。それはベーコン的意味での一種のイドラ(謬見)、つまり洞窟のイドラ種族のイドラへと変化するのです」[サイード 1995: 81]と述べているが、ここで、サイードが言っている、フェティッシュとなりイドラとなる民族的アイデンティティとは、われわれの用語で言えば、種的同一性ということである。そして、サイードは、そのアイデンティティ政治学が「世俗性」の概念と対立するといい、「世俗的生活とは、民族的アイデンティティの名のもとで構成されるものでもなければ、偏執狂的に〈われわれ〉と〈彼ら〉を区別する境界線を引くというまやかしの考えに対応して作られたものではけっしてありません」[ibid.: 82]と述べている。

 サイードオリエンタリズム批判の中でその重要性を強調している「具体的な人間の歴史と経験」とは、アイデンティティ政治学に対立するこのような世俗性のことであり、それは固定された固有性の場とは違い、むしろ固定された固有の慣習を具体的な歴史と経験の中で絶えず改変していくような移動の場であって、太田[1993b: 464]のいうようなヒューマニスト的な意味ではまったくない。他方、太田は、オリエンタリズムの政治性について、「オリエントの人々の自らを語る権利や自主性を否認する力の行使である。もちろん、そのような力の行使が、オリエントについての研究を可能にしているのだ。語る力をもつオリエンタリストと、語ることはなく、ただその語りのための素材を提供するオリエントの人々という関係は、『根本的には力の問題』以外の何ものでもないのだ」[ibid.: 466]と述べる*7。太田の「政治性にそった読み」は、ポストモダン主義的な非本質主義の陥りやすい「政治」の現実の隠蔽を逃れている代わりに、近代のオリエンタリズムを「力の行使」(たとえ「真理」や「客観的な知識」の探究といった「行使」を含めても)に還元することによって、近代のオリエンタリズムの特殊性が抜け落ちてしまうという重大な代価を払っている。つまり、それが種的同一性による支配のテクノロジーによるものだということが隠されてしまうのである。太田がサイード認識論的読みと政治的読みをわざわざ分けて、認識論的読みの中にサイードの矛盾点を指摘する(私には矛盾しているようには読めないが)という迂回をしているのは、このような「政治」の次元――要するにそれはアイデンティティ政治学に他ならない――を普遍化するためだったと言えようが、それは、フーコーらが明らかにした近代の支配の「装置」とそれ以前の支配のあり方との非連続性を無視するという代価を払っているのである。(つづく

*1:本論文で「ポストモダン人類学」として念頭においているのは、主に、ジェームズ・クリフォードやジョージ・マーカス、マイケル・フィッシャー、スティーヴン・タイラーらの『ライティング・カルチャー』グループなどによる「民族誌リアリズム批判と、ジョスリン・リネキンやニコラス・トーマス、マイケル・タウシッグ、ジーン・コマロフらのポストコロニアル人類学者による「文化の構築」論である。

*2:「犠牲の政治学」および「無実の政治学」については、辻内鏡人[1995]を参照。

*3太田好信[1993b: 458]も指摘しているように、サイード批判している十九世紀のオリエンタリスト、W・レインの著書『現代エジプト人』の構成が、その後の人類学者によって書かれた民族誌の構成にそっくりであることも、近代オリエンタリズム文化人類学の連続性を物語っている。

*4:清水昭俊[1995: 159]は、マリノフスキーが晩年に推進しようとした植民地統治の政策 立案に人類学的知識を用いようという「実用人類学」を、「他の『科学的な』人類学者が避けて見ぬふりをしていた現実、植民地支配に、積極的に関与しようとした彼の姿勢を評価したい」と述べる。つまり、それが「救出人類学」や現地社会の同時代的現実の否定を乗り越えようとしていた点で評価しているわけだが、その「実用人類学」がオリエンタリストの「危機」への対応をなぞったものであることは明らかだろう。

*5:また、オリエンタリストたちが自ら主張していることと違ったことを結果としてしている(つまり「オリエントの現実」を描写していると主張しながら「オリエントの現実」を創り出しているということ)というサイードの指摘は、彌永がいうような「隠された意図」の暴くということとは無縁である。サイードのいう「オリエントの現実」の創出は、個々のオリエンタリストたちの意識的な「隠された意図」というより、個々の主体を超えたオリエンタリズムの「戦略」のことだからである。

*6:このようなつまらぬ指摘をこれ以上続けることはあまり建設的ではないだろうが、例えば、太田の指摘している「主観的再構成(オリエンタリストによるオリエント表象)」と「客観的構造(オリエントという指示対象)」といった語も、サシの詞華集などの名文集によって、「読者は、オリエンタリストが払った努力を忘れ、名文集が意味するところのオリエントの再構成を短絡的にオリエントとみなすようになる。客観的構造(オリエントという指示対象)と主観的再構成(オリエンタリストによるオリエント表象)とは相互置換が可能なものとなる」[サイード 1993a: 299-300]という文脈で使われているものであり、この「客観的構造としての指示対象」と「主観的に再構成された表象」は、オリエンタリストのテクスト内部(あるいは読者の読みそのもの)において相互置換されると述べられているのであって、その外部にある「客観的実在としての真実のオリエント」を問題にしているわけではないことは、これまた明白だろう。

*7:「断片であること」の批判性や重要性に最も敏感だったのは、おそらく批評家ヴァルター・ベンヤミンであろう。ドイツバロック悲劇の原理としてのアレゴリーを、寄せ木細工にたとえながら、「人的なものに対する事物的なものの優位、総体的なものに対する断片の優位によって、アレゴリー象徴の対極をなしつつ、しかしまさにそれゆえに同じように強大なものとして、象徴に対抗するのだ」[ベンヤミン 1995: 235]と述べるベンヤミンは、レヴィ=ストロースのいうブリコラージュ的な感覚をもっていた。



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