小宮信夫(立正大文学部教授)
犯罪学では、人に注目する立場を「犯罪原因論」、場所に注目する立場を「犯罪機会論」と呼んでいる。犯罪原因論が「なぜあの人が」というアプローチから、動機をなくす方法を探求するのに対し、犯罪機会論は「なぜここで」というアプローチから、機会(チャンス)をなくす方法を探求する。つまり、動機があっても、犯行のコストやリスクが高くリターンが低い、すなわち犯罪の機会がなければ、犯罪は実行されないと考えるわけだ。
3月に起きた千葉県松戸市のベトナム国籍の女児が殺害された事件で、逮捕、起訴されたのは被害者が通っていた小学校の保護者会会長だった。この会長は、ほぼ毎日通学路で見守り活動をしていたため、保護者は「もうだれも信じられない」と嘆き、住民ボランティアは「ニコニコしながら子供に声をかけられない」と戸惑いを隠しきれなかったという。しかし、この苦悩は、間違った防犯対策による当然の帰結であり、正反対の方向に舵(かじ)を切りさえすれば、すんなりと消えてなくなるものである。
結論から言えば、注意すべき対象を人から場所(景色)へ移動すれば、問題は解決する。詳しく解説しよう。
犯罪機会論では「機会なければ犯罪なし」と考える。犯罪は、犯行の動機があるだけでは起こらず、動機を抱えた人が犯罪の機会に出合ったときに初めて起こる。それはまるで、体にたまった静電気(動機)が金属(機会)に近づくと、火花放電(犯罪)が起こるようなものだ。
海外では、犯罪原因論が犯罪者の改善更生を担当し、犯罪機会論が防犯(犯罪の未然防止)を担当している。ところが日本では、犯罪機会論は全くと言っていいほど知られていない。そのため、防犯への関心を高めた人たちが飛びついたのが犯罪原因論だった。もちろん、その人たちが犯罪原因論を意識していたわけではないが、「なぜあの人が」を連発するマスコミの影響を受けて、自然と犯罪者という「人」に目が向いたのだ。
しかし、防犯の分野では、まだ犯罪が起きていない以上、犯罪者も存在しない。したがって、「犯罪者」という言葉も使えない。そこで、苦し紛れに登場させたのが「不審者」という言葉である。
本来、犯罪対策にとっては、「事後」に登場するはずの犯罪原因論が、そのまま「事前」に持ち込まれてしまったために、事前の世界にも、犯罪者が姿を変えて、不審者として現れたわけだ。こうして、海外では使われることのない不審者という言葉が、日本では、誰もが知っていて当たり前に使われるようになったのである。