新聞記者はなぜ
取材源に「忖度」をするのか?
ならば、なぜ日本の報道は「萎縮」をしているのか。
実はその答えを、ケイ氏は昨年の訪日調査ですでに導き出している。日本にやってきて、ご本人いわく、さまざまな立場の報道に関わる人たちへの聞き取りをした後におこなった会見でこのように述べているのだ。
《記者クラブのシステムは廃止すべきだと思う。アクセスを制限するツールだ。記者クラブに加盟している人と記者クラブ外の人の両方に話を聞いて思うのは、(取材源へのアクセスを維持するために自分の論調を変えてしまう)「アクセス・ジャーナリズム」を助長しており、調査報道を弱体化させているということ。メディアの独立性にとって障害になっていると思う》(J-CASTニュース 2016年4月19日)
助長どころか、「アクセス・ジャーナリズム」こそが日本の報道における「王道」だというのは、官邸を取材源とする「読売新聞」と、前川前文科事務次官を取材源とする「朝日新聞」の論調がきれいに分かれたことが雄弁に物語っている。
情報源に依存して「忖度」をするというのは調査報道が必ず直面する構造的な問題だが、「文春砲」や「新潮砲」の場合はこのリスクを最小化できる。フリー記者という個人の人脈によって情報源にバラつきがあるほか、毎週異なるネタが報じられるという自由度から、そこまで「アクセス・ジャーナリズム」の影響を受けないのだ。
一方、新聞やテレビ、通信社の場合は「記者クラブ」という各社の利益調整をおこなう談合組織に頭までどっぷり浸かっているので、組織がまるっと情報源に依存する。ビタッと「アクセス・ジャーナリズム」が固定化してしまうのだ。
これこそが、規模や資金的には世界一ともいえる日本の新聞ジャーナリズムから、「文春砲」のような権力の不正を暴くスクープが出ない理由である。