2013年7月、米国ネバタ州ラスベガス、格闘ゲーム大会「Evolution 2013(以下、EVO)」。『スーパーストリートファイターIV: アーケード エディション』や『Ultimate Marvel vs. Capcom 3』といった常連タイトルが並ぶ中、公式種目としては初めて選ばれた任天堂の作品がある。『大乱闘スマッシュブラザーズDX(以降、スマッシュブラザーズ=スマブラ)』だ。当時『スマブラ』にも競技シーンと呼べる世界があったことを知る人は、それほど多くなかったのではないだろうか。そして実は「EVO」に『スマブラDX』が参戦する10年以上前から、国内でも現代の競技シーンへ繋がる萌芽が生まれつつあった。
あらためて、『大乱闘スマッシュブラザーズ』について。1999年1月21日にNINTENDO64向けにリリースされた『ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ』を皮切りに、『DX』『X』『for Nintendo 3DS/Wii U』と、全作品がミリオンセールスを突破している人気シリーズだ。最大4人のプレイヤーたちが戦う本作は、従来の2D格闘ゲームにはない「相手を落としストックをゼロにした方が勝ち」というルールを採用しており、またアーケードゲームではなくお茶の間の据え置きハードとして遊ぶ対戦アクションゲームとして、独自の歴史とコミュニティを築いてきた。
今回は国内の『スマブラ』史を語る上で運営側の人物として外せないキーパーソン「Rainさん」「エルさん」「アユハさん」の3人をお呼びし、現在でも競技種目として採用されている『スマブラDX』から、最新作である『スマブラ for Nintendo 3DS/Wii U(以降、スマブラ for 3DS/Wii U)』までの軌跡をお聞きした。
・1999年1月 NINTENDO64 『任天堂オールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ』
・2001年11月 ニンテンドーゲームキューブ 『大乱闘スマッシュブラザーズDX』
・2008年1月 Wii 『大乱闘スマッシュブラザーズX』
・2014年9月 ニンテンドー3DS『大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS』
・2014年9月~ 『大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS』発売後
・2014年12月 Wii U 『大乱闘スマッシュブラザーズ for Wii U』
――まず自己紹介をお願いします。
Rainさん:
Rainと申します。国内のプロesportsチーム「DetonatioN Gaming」のスタッフ兼選手をやっております。もともと「ウメブラ(※)」の前身となる大会の主催をやっていました。プレイヤー暦15年は、おそらく『スマブラ』の現役プレイヤーだと海外勢を合わせても一番長いのではないかと思います。
エルさん:
エルです。プレイ自体は初代『スマブラ』から遊びでやっていました。界隈で色々とやるようになったのは上京してからなので、『スマブラX』が発売された2008年ぐらいですね。最初は選手としてやっていまして、大会にも出ていたんですが、『スマブラX』の頃からは運営にちょくちょくと顔を出して手伝いをやったり。『スマブラ for Wii U』が始まってからは、ふたたび選手としても動いていますが、基本的には「ウメブラ」のメインスタッフとして活動しております。
アユハさん:
Twitchの中村鮎葉です。もともと『スマブラ』ではカタカナで「アユハ」と書いて活動していました。『スマブラX』の後半から界隈に顔を出すようになって、『スマブラfor Wii U』が発売されてからしばらくしてTwitchに就職したので、仕事的には色々なゲームに関わっているんですが、原点は『スマブラ』です。大会にはもう2年以上も出てないですけどね。
■『スマブラ』黎明期「テレビ番組主導で始まった競技シーンの萌芽」
――『スマブラ』にはいつ頃から競技シーンが根付いたと言えるでしょうか。
Rainさん:
ある意味では、スタートラインは初代『スマブラ』です。僕が小学生のころ、「64マリオスタジアム(※)」というテレビ番組があって、「及川名人(※)」という「カービィ」使いの方が有名だったんですよ。みんなその人を倒したいと思って、テレビ番組が主催する大会に参加応募していたんです。そこが日本国内では最古の競技シーンだったのかなと思います。テレビ側が大会を定期的にやってくれて、及川名人を倒すぞみたいな感じで。
氏が司会を務めており、『スマブラ』以外にも『マリオカート64』『ポケットモンスター 赤・緑』などの大会が開催されていた。
――最初はテレビ局主導だったということですね。
Rainさん:
そうですね。そういった番組で取り上げられたこともあって、『スマブラ』は爆発的に売れて、友達とワイワイやる環境になっていったんじゃないかなと思います。自分も「64マリオスタジアム」の大会に応募して、予選でベスト6だったりしました。当時はオフでプレイする環境もあったらしいんですけど、当時は中学生だったのでよくは分からないです。ただ、当時の『スマブラ』界隈のトッププレイヤーの中では、それぞれの家で『スマブラ』をプレイする「宅オフ」環境がすでにあったみたいです。
エルさん:
アーケードがないので、誰かが主催して場所を提供しないと、複数人で対戦できないんですよね。
――当時から競技として『スマブラ』を意識する空気はあったんでしょうか?
Rainさん:
いま思えば、自分が一番強いみたいな意識というか、ある意味での競技性への強い指向はその頃からあったと思います。『ストリートファイターII』とかも一緒だと思うんです。最初はゲーセンでやっていて、自分が一番強いと思っている人たちが出てきて、それが気付いたら競技シーンに繋がったりしている。『スマブラ』においては、それの基礎が生まれたのは、「64マリオスタジアム」の大会だったんじゃないかと思います。
アユハさん:
「64マリオスタジアム」は2000年まで放送されていたんですけど、1990年代から2000年代くらいまでって、年に一度はゲームソフト一本でテレビが大会をやってくれる時期だったんですね。力を示す場所はそこだけだったと思います。
『スマブラDX』の登場と、シーンを牽引する公式大会
Rainさん:
そこから2001年に『スマブラDX』が発売されて、すぐに「ファイティングロード」という公式大会が開催されたんです。東京に始まり名古屋と静岡、大阪、広島、福岡、仙台などで予選が開かれました。東京だと幕張メッセで決勝大会の代表者4人を決めるんですけど、参加者が1000人ぐらい居ました。各地の代表者が広島の決勝大会に行けるって話で、そこでまたみんなが熱を持って大きく盛り上がっていたと思います。
自分は静岡大会で優勝したんですけど、広島への交通費とかも運営側から出してもらっていました。予選は乱闘形式で、決勝だけ一対一という大会システムでした。大体そのころに、前作をやっていた人たちとオフで対戦することに興味を持ち始めました。ちょうど携帯電話が流行り始めたこともあって、SNSの前身のような掲示板で募集がかけられるようになったのも大きいと思います。僕も実際に募集していました。色々な方法で募集しながら、少しずつ広がっていった感じですね。やっぱり強い人に「一緒に練習しよう」って声をかけていくんですよ。また公式大会があるかもしれないし、次は自分たちが勝とうって声をかけて、そんな流れでコミュニティが出来ていった印象ですね。
――『スマブラDX』の「ファイティングロード」は何年ほど続いたんでしょうか?
Rainさん:
「ファイティングロード」自体は発売一年目に一度だけで、その後はトイザらス主催の「トイフェスタ」という公式大会がありました。各地のトイザらスの店舗で予選をやって、東京で決勝戦をおこなう、完全シングルの大会でした。
非公式だと、いまでも画期的だと思うんですけど、当時「ファイティングロード」と「トイフェスタ」のあいだに、「連合オフ」というのがありました。熱海のホテルを借りて、全国から64人のプレイヤーを集めて、三日間のリーグ戦をやったんですね。今でも考えられないようなことをやっていましたね。『スマブラDX』の大会は常に多くの人が集まっていて、みんなに気づかれはしないけど盛り上がってはいましたね。
――気づかれないけど盛り上がってるって、不思議な話ですよね。
エルさん:
僕とかは『スマブラDX』というゲームは知ってたんですけど、当時の盛り上がり方は調べたら出てくるくらいで、一般の方の目には入らなかった。
Rainさん:
自分は当時、『スマブラDX』のコミュニティを作るためにかなり一生懸命動いていて、オフで会った人にはどんどん声をかけていました。一応インターネットもあったんですけど、ほとんど目につかないんで、口コミですよね。店舗大会とかに行って、強かった子に声をかけて「一緒に練習しようよ」って感じで広げていきましたね。「連合オフ」に関しては、全国各地のコミュニティが集まるみたいな感じで、交通費も宿泊費も自腹ですし、もちろんスポンサーがついてるわけじゃない。テレビも足りない分はみんなで持っていくし、ゲームキューブも持っていく。
アユハさん:
『スマブラ』って、NINTENDO64の初代から最新作までどれも売れていて、アクティブなプレイヤー数もかなり居るはずなんですけど、コミュニティ同士の繋がりはそれほど無かったんですね。でも、だんだん現代に近づくにつれてインターネットが強くなってきて、分散していたコミュニティ同士が繋がりを持てるようになった。その大きな集まりが競技シーンになったというか、現代的なゲームの競技シーンになっていると思いますね。
Rainさん:
もともと人気があったゲームなんで、声をかければ一緒にやってくれるゲームだったんですよね。インターネットがまだ主流ではなかったので口コミで、それが『スマブラ』のコミュニティの始まりじゃないかなと思います。
――「連合オフ」の内容を聞いていると、とても大変な労力が必要だったと思いますが、みなさんなぜそこまで熱意を持てたんでしょうか?
Rainさん:
自分は「64マリオスタジアム」とか「ファイティングロード」で全国大会に2回出てるんですけど、まず『スマブラDX』で優勝したのがとても嬉しかったんですよね。誰よりも自分はこのゲームで優れてるんだって思えたのが、当時高校生だった僕にはすごく嬉しくて。このコミュ二ティをもっと大きくしていきたいし、公式大会を開催してくれれば、どんどん活躍する場所が出来る。そう思っていたら、気づくとコミュニティを広げようと努力していた感じですね。
エルさん:
一般の人に言っても理解されないところはあると思うんですけど、ゲーマーの人ってただ単純に勝ちたい人が多いと思うんです。賞金は出なくてもよくて、本当に名誉だけでいい。自分が最強だということを証明するためだけに大会に出て、「俺の強さを見ろ」と考えている人がけっこう居ます。その中で、Rainさんみたいに声をかけるかどうかは人によるんですけど、そういう「ただ勝ちたい」をモチベーションにしている人は多いですね。
Rainさん:
最初はコミュニティを広げていこうという考えは自分には一切なかったんです。自分が日本で一番強くなれる環境を作りたい、いくら新しい人がいても自分が一番強いことを証明したい。そして口コミでこの人が一番強いんだよって言われる場所を作りたい。
エルさん:
大会で勝つために周りの環境を作りたいっていうのもあったんじゃないかなと。
Rainさん:
たとえばサッカーでも、ユースと普通の練習は違いますよね。みんなは普通のサッカーチームに所属しているけど、自分はユースみたいな環境を作って、その中で優れた練習をしたいというモチベーションでやっていました。それが気づいたらコミュニティになったんです。
――純粋に自分のために動いていて、ふと後ろを見ると出来ていたものがあったと。
Rainさん:
完全に自分のためですね。『スマブラDX』の時は完全に自分のためです。『スマブラX』の時は考え方が少し変わっていたんですけど、最初は完全に自分のため。みんなもそうだと思います。
あと、純粋に友達として、みんなとプレイするのが楽しかったというのもあります。同年代で趣味も合う、ゲームの話をバカみたいに出来るし、寝ないでずっとプレイしていられる感じだった。『スマブラ』はアーケードに無かったんで、あればほかの格闘ゲームのような道を歩んでいたのかもしれないですけど、無いので自分たちで盛り上げていくしかない。そうすれば任天堂もテレビ局も、もっと大会を開いてくれるかもしれない。そういうことはずっと思っていましたね。「宅オフ」なんかはまったく知らない人を自分の家に上げるので、そこで『スマブラ』コミュニティ独特の密な色合いが形成されていったのではないかと思います。
エルさん:
店舗大会すら無いので、自分の力を証明する場所がどこにも無い。誰もやらないなら自分がやるしかないって人がいて、それに協力する人がいたって感じですね。
海外勢との交流の始まり
Rainさん:
『スマブラDX』の頃、自分はまだ高校生だったので、逆に大人の人がそれをやっていたんですよ。20歳前後の方は仕事もしているし、会場も借りることが出来たんで、たまに大会をやってくれていた。ただ、その人たちが居なくなってからは、僕らの世代で小さな大会をやっていました。関西とか関東のコミュニティに声をかけて、100人ぐらい集まる大会もありました。あと、国内の『スマブラDX』大会で海外勢を招待したこともありました。「Jack Garden Tournament」がそれですね。
――「Jack Garden Tournament」。
Rainさん:
2005年の大会ですね。経緯としてはまず、「キャプテンジャック」というプレイヤーが「アメリカの『スマブラ』は強いのか」ってことで、2002年ぐらいにアメリカに行ったんですよ。2002年の「MLG(※Major League Gaming、北米の賞金制ゲーム大会の運営団体)」の招待制の大会に呼ばれて、そこで海外の『スマブラ』プレイヤーたちと交流を持った。その繋がりで、アメリカの大会で3回しか負けたことがなかった「Ken(※)」という、スマブラ界のジャスティン・ウォン(※『ストリートファイター』シリーズにおける有名プロプレイヤー)みたいなプレイヤーが日本の大会に出たんです。そして当時は中学生だったプレイヤーと決勝戦になって、中学生の子がリセットまで持っていったんですけど、最後は対応されてしまい負けました。『スマブラDX』のなかでは、大きなインパクトを持った大会でしたね。
――「Jack Garden Tournament」で、初めて日本に海外選手が遠征してきた。
Rainさん:
海外のプレイヤーが日本の大会のために来日したという意味では、確実に最初ですね。その後は一回途絶えてしまうんですが、日本の『スマブラ』勢と海外の『スマブラ』勢の交流という意味では、非常に意味のある大会だったと思います。
『スマブラX』での「ネット対戦」「オフ環境」の融合
――『スマブラDX』から『スマブラX』まで、最新作が発売されるまで約7年もの期間があります。
Rainさん:
長いですね。自分も『スマブラX』が出る直前の2年間ぐらいは、プレイしていなかったです。
――いままで築いてきた流れが途絶えた?
エルさん:
関東の方はゲーム人口が多いんで、当初はいろいろ盛り上がっていたんですけど、逆に関西ではずっと極める、長くやり続ける人が多くて、後半は関西で続いていた感じですね。
Rainさん:
その頃は関西のコミュニティがずっと『スマブラ』を引っ張っていた感じですね。関東のコミュニティは自分が辞めちゃったら、そのまま流れるように全部止まってしまった。そのころの関東ではあまりにも大会がないので、関東勢でまだやりたい人は関西に行くというぐらい、関西中心になっていました。関東では非常に過疎っていた時期ですね。
――その期間はどれぐらい続きましたか?
Rainさん:
2006年から2007年ぐらいですね。
エルさん:
たぶんそれは、プレイヤーにとっては倒す対象が居なくなったりすると、途端にモチベーションがなくなるんですよね。勝つためにやってるのに、倒したいプレイヤーが辞めちゃったので自然に消滅するとか、目標とする大会が終わったから辞めちゃうとか。
――冒頭でおっしゃられていた「勝ちたいから環境を作った」という気持ちのままで、純粋な動機には感じますね。
Rainさん:
自分はそれでモチベーションが無くなって、公式大会も無いから次回作まではやらなくていいかなと。ぶっちゃけて言うと、当初は次回作もやる気は無かったですね。
――どういう心境の変化があったんでしょうか。
Rainさん:
やっぱり2年離れたあいだに、ほかのゲームも遊んでいたんですね。ほかのゲームで一番を取ったりしたこともあったので、別にゲームは『スマブラ』だけじゃないみたいな気分になった。ただ、『スマブラX』が発売されたら兄が買ってきたんで、ちょっとやってみたら「オンライン対戦」があって、それが楽しくなっちゃった。自分はそれで再開しました。
――オンライン対戦の実装は、国内の『スマブラ』史の大きな転換点になりましたか。
Rainさん:
『スマブラ』の中でオンラインは大きな転換点になりましたね。ただ、オフに関して言えば、自分が途中で『スマブラ』を辞めたときのコミュニティの人たちを復活させました。みんなに声をかけて、「やろうよ。家に来なよ」って。ただ、インターネットもあったので、インターネットでも人を集めつつですね。非公式大会も発売から一ヶ月か二ヶ月ぐらいにあって、その時に100人ぐらい集まったんですよ。
アユハさん:
トーナメント参加者96人で設定して満員でしたね。
エルさん:
新作記念的な大会をモチベーションのある人がさっと開いた。
Rainさん:
シングルでは僕が優勝して、乱闘では及川名人でしたね。