フリッパーズ・ギター始動!
僕はフリッパーズのファースト・アルバムの制作にかかりっきりになっていきました。
まずはサロン・ミュージックの吉田仁、竹中仁見のふたりに付き添ってもらって、都内を離れた富士五湖近くのスタジオで2泊3日の合宿レコーディングをやってもらいました。ただ、それは上手くいかなかった。ふたりも「まだ彼らにレコーディングをやれるだけの力はない」と言う。まだまだアマチュアのレベルだった。
そのときの報告がファースト・アルバムをどう作っていくかのヒントになりました。アレンジは彼らに、サウンドプロデュースをサロン・ミュージックに依頼しました。周囲を固めて、南麻布にあったスタジオインパルスをおさえて約1ヵ月半かけてレコーディングを進めていった。
フリッパーズ・ギターという名前が決まったのもその頃でした。レコーディングの終盤に僕が「ロリポップ・ソニックって造語っぽいね。何か他の名前はないかな」と言ったら、彼らも意外にもOKした。できればメンバー側から候補を挙げてほしいと言ったら、ドラムの荒川康伸が「フリッパーズ・ギター」という名前を考えて持ってきて、全員一致でそれに決まった。
そうしてファースト・アルバムが完成しました。かかった経費は自分でもさすがに驚いた、トータルで3000万円。時間を短縮する方法はいくらでもあったけれど、彼らを育てるという意味も含めてそれでいいと思った。
ファースト・アルバムの制作は、いわば彼らにとってミュージシャンとしての学校に通っているような体験でした。優秀なエンジニアがいて、サロン・ミュージックという優秀なサウンドプロデューサーがいた。そこでの経験が小山田圭吾、小沢健二を大きく成長させたのは間違いない。その過程を経て、彼らはアマチュアからプロになっていったんです。
最初に気付いたのは六本木WAVEだった
89年5月、こうしてフリッパーズのファースト・アルバムが完成しました。そして発売前のプロモーション用に作ったアナログ盤の音源をレコード店に持ち込んだら、六本木WAVEの反応がものすごくよかった。「これは日本の洋楽だ!」というようなキャッチコピーを付けて展開してもらえることになった。そこで「通じたな」と思ったわけです。
一方で、僕はアルバムの英語詞の日本語の対訳を書いてほしいと小沢健二に言うと、もともと彼もそういうことをやりたかったようで、二つ返事で「任せといてください」と応えてくれた。洋楽の日本盤に封入されているライナーノーツのような体裁にしたかったのです。すぐ仕上がった日本語の訳詞を読んで僕は直感しました。これだけの見事な日本語の訳詞が書けるということは、いつか彼ら自身が日本語の曲を作ることになるだろうという予感めいたものがすでにあったのです。
岡一郎が後日「そのときの牧村さんの得意げな顔が忘れられない」と語っていました。実際、そのときの僕の心の中には彼らが新しいポップスの階段をきっちり上っている実感がありました。
ちなみに、櫻木景が書いたアルバム用のキャッチコピーは「rm(レコード・ミラー誌)インディーズ・チャートになぜかひょっこり顔を出した、とっても爽やかでちょっぴりキンキーな日本のポップ・バンド ロリポップ・ソニック。カプチーノもいいけれど、コーヒー牛乳にくびったけな君へ。1989年夏、フリッパーズ・ギターとして国内デビュー!」。これも即採用でした。
信藤三雄のアートワーク
フリッパーズのプロジェクトは、最初からアートワークがとても重要でした。ファースト・アルバムのアートワークの打ち合わせでは、メンバーを代表して小山田圭吾と小沢健二のふたりがコムテンポラリー・プロダクションに行った。信藤三雄とふたりは会った瞬間から話が合った。小山田圭吾はファッションやデザインに精通していて、アートワークの重要性を認識していた。そこで信藤三雄に全面的にアートワークをお願いしました。
彼はノン・スタンダード時代にピチカート・ファイヴのジャケット・デザインを手掛けていて、そのコーディネートをしていたのが岡一郎だった。そういう経緯もあったので全く迷わなかった。
最初の打ち合わせから1週間経たないうちに連絡がありました。「ロケにしたい、それにあたっては最も信用している三浦憲治さんというカメラマンにお願いしたい」という話があった。三浦憲治と僕もかつて70年代にセンチメンタル・シティ・ロマンスで一緒に仕事をした仲でした。
信藤三雄は期待以上の仕事をしてくれました。以後、フリッパーズには欠くことのできないアートディレクターとなります。
次回「ロリポップとの決別、フリッパーズの本当の始まり」は7月14日更新!