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東南アジアの優等生・タイの政治経済史(前編)

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不安定な政治・発展する経済

2016年のタイ王国の名目GDPランキングは26位。

アジアで言うと、中国、日本、インド、韓国、インドネシア、台湾に次ぐ6位です。

日本を始め先進国のメーカーの工場がいくつもあり東南アジアの製造業の拠点となっており、首都バンコクは自他共に認めるメガシティ。新たな文化や産業が生まれる先端都市です。

一方で政治的には混乱が続き、2014年に軍部によるクーデターを経て、2017年現在の首相は陸軍出身のプラユット・チャンオチャです。2016年9月には政治のバランサー的存在だったプミポン国王(ラーマ9世)が崩御されたことで、国民を統合する求心力が失われ、政治的に不安定になることが懸念されます。

戦後のタイの政治・経済史を見ていくことで、この不安定な政治と発展する経済の背景にあるものが見えてきます。

今回は前編で、ナショナリストのピブーン政権が崩壊するところから、1970年代のプレーム体制までです。

 

 

1. 民間主導型経済(1950年〜60年代)

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ピブーン政権からサリット政権へ

第二次世界大戦後、タイの政治を独裁的に担ったのがプレーク・ピブーンソンクラーム。戦前戦後を含めると8回の首相在任歴があり、ピブーンの元でタイはナショナリズムの鼓舞に努め、「タイの経済をタイ人に取り戻すべきだ」と主張しました。

時は第二次世界大戦前後、世界の国々はブロック経済と愛国主義による極端な統制経済を行っており、その流れに則りピブーン政権下では外国資本を排除し、国営企業を中心に国家主導型の開発を行っていました。一方で国際的にはアメリカと同盟し、反共産主義の旗印を明確化しました。

 

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1957年9月、陸軍元帥サリット・タナラットはクーデターにより第8次ピブーン内閣を打倒。部下のタノーム中将が内閣を結成しますが政局は混乱し、翌1958年にサリットが再クーデターを敢行し首相に就任しました。

サリット政権下では「外資を導入した民間資本主導の工業化」が推進されることになります。

それにはアメリカの力が強く働いていました。

東南アジアの赤化を最も恐れるアメリカが建てた戦略は、民間主導の経済発展を促すことで、戦禍から回復した日本や西ヨーロッパの国々の投資先とし、西側諸国との連携を強めタイを東南アジアの反共の牙城にするというもの。

サリットも国内向けに「共産主義に対抗するために強い政治と経済の発展が必要」と説き、ピブーン政権下で庶民にも広まっていた「尊皇攘夷」的なナショナリズムの矛先を外資ではなく共産主義に向けることに成功しました。

 

若手経済テクノクラートの活躍

1950年前半、大勢のタイの若手官僚がアメリカに留学し、彼らが帰国して働き始めた頃にサリットのクーデターが勃発しました。

最先端の経済思想に触れた若手官僚たちは、古臭いピブーンの統制経済にうんざりしており、民間企業主体の開発と外国資本の導入によるマクロ経済政策の必要性を主張していました。

サリット政権下で彼ら若手官僚たちは重用され、新政権での経済政策を担うことになります。

日本や韓国が国家主導型で開発を進めたのと対象的に、タイではどちらかと言えばアメリカ型で、国内産業育成のために関税を課す以外には特定の産業の育成には力を入れずに、民間主導の開発を目指しました。

サリットも経済テクノクラートの政策には細かく口を出さず、経済政策はある種「経済官僚の聖域」のような状態になっていき、以降政治が混乱しても経済は安定して成長する、という現象が起きる要因となりました。

 

 

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2. 「半分の民主主義」の時代(1970年代)

サリット政権とタノーム政権下でタイは工業化が進み、GDPの製造業に占める割合は1960年に12.5%だったおが、1970年には16%に増加していました。

しかし、製造業の拠点はバンコクを中心とした首都圏に集中し、タイ東北部などから農民が流れ込んでスラム化が進行。また常に労働供給過剰の状態が続いたため賃金は上がらず、一方で政治家と資本家の汚職が蔓延し中間層には政府への批判が根強くありました。

1973年10月、政府を批判する学生運動が巨大化して軍も加わり、また国王も学生たちに賛同したことでタノームは首相を辞任して海外に亡命しました。

この「革命」によりタイでは軍事政権を脱して民主化を成し遂げたとされます。

 

共産主義勢力の伸張と中間層の保守化

中間層と学生が起こした民主化により、言論や集会の自由が大幅に認められるようになりました。それまで抑えつけられていた農民や労働者によるストライキや頻発するようになります。

中間層の中では農民や労働者の発言力が増すことに対し警戒感が強まり、また周辺国ではラオスやカンボジア、ベトナムで共産主義勢力が権力を掌握したこともあり共産化への警戒感が強まりました。

中間層で構成される右翼団体が農民・労働者層のデモやストライキを襲撃するようになり、農民指導者20人近くが暗殺されてしまう。全土が混乱する中で1976年10月に軍部によるクーデターが発生。国王の支持を受けた元判事ターニンが首相に就任しました。

 

ターニンは言論の自由を制限しストや労働者のデモを制限。共産主義はおろか、自由主義や民主主義全般への弾圧を敢行しました。これにより「もはや武力に訴えるしかない」と考えた者の多くがタイ共産党の武装塗装に参加するために山岳地帯の「解放区」に入ってしまう。これには軍や資本家のみならず、中間層も危機感を抱き、1977年10月に若手将校団がクーデターを敢行。ターニン政権は1年で崩壊しました。

 

 「半分の民主主義」の時代

クーデターにより首相に就任したクリアンサック国軍最高司令官は、言論や結社の自由を回復して78年に新憲法を制定し、大部分の国会議員の支持をも取り付けて政局は安定しました。しかし共産主義対策に成果が出なかったため、80年にプレーム陸軍司令官に首相の座を譲ることになります。

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Credit: Government of Thailand

初期のプレーム体制では議員の大半が軍人で占められ、資本家たちは彼らと定期的に会合を開くことで政府に対する要望を出すことができました。そこには当然談合や癒着も発生しました。中間層には言論の自由が認められ、首都圏では公正な選挙が実施されて中間層の意見を表明することができるようになりました。

一方で、地方の農民や労働者層が結社をしたり意見を表明することは極端に制限され、報道の自由も厳しく制限されました。

この体制は「半分の民主主義(プラチャーティパタイ・クルン・バイ)」と呼ばれ、表面上は民主主義が成されているようには見えつつも、国民の大半を占める農民・労働者層は旧来の抑圧的な体制が永らく続いたのでした。

 

高い経済成長の維持

このように相次ぐクーデターで政局は混乱し、体制もたびたび変化したものの、タイ経済は高い成長を遂げました。

1971年〜1975年のGDPは年平均7.1%、1976年〜80年には8.8%という高い数値を叩き出しています。これはサリット政権とタノーム政権時代に主導権を握った経済テクノクラートが存在を発揮し、政治に依存しない民間主導の開発を進めたため、政治が混乱しても一貫したポリシーのマクロ経済政策が実施されたおかげでした。

資本家たちはくるくると変わる政治有力者に頼ることをためらい、癒着による特権が起きづらかったため、国内同業他社との熾烈な競争にさらされて品質が向上し国際競争力が高まっていたため、日本や韓国、台湾などからの投資が殺到することになったのでした。

 

 

 

つなぎ

民主化と表現の自由を求めつつ、周辺国の共産主義勢力が国内の貧困層と結びつかないように難しい舵取りをする中で、何度も軍部がクーデターによる介入をしています。

一方で1950年代にサリット政権とタノーム政権で重用された経済テクノクラートは、ある程度政策を任せられたことで、政治が混乱しても安定的な経済運営を実現することが可能でした。それにより中間層が育ち、民主化への声が高まっていきます。しかし過度な自由も過度な制限も、この時は共産主義勢力の追い風になる可能性がありました。

 後編はより顕在化する腐敗との戦いの中で、ますます政局は混乱していき、頼みの綱の経済も通貨危機という試練を迎えることになります。

 

 

参考文献

 岩波講座 東南アジア史9 「開発」の時代と「模索」の時代―1960年代〜現在 1タイ 浅見靖仁

岩波講座 東南アジア史〈9〉「開発」の時代と「模索」の時代―1960年代〜現在

岩波講座 東南アジア史〈9〉「開発」の時代と「模索」の時代―1960年代〜現在

 

 

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