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守るための強さ
独身幹部宿舎に戻り、自室のベッドに寝転んで、枕に頭を沈めた真由人は、ウイングマークを見つめながら嘆息した。憂いを含んだ重い息は無限の宇宙には昇れず、天井に衝突して冷たい床の上に墜落した。どことなくウイングマークの輝きが弱まっているように見える。イーグルドライバーとドルフィンライダー。二つの間で揺れる真由人の心の迷いが、白銀の輝きを曇らせているのだ。瞑目した真由人は過去の記憶がしまわれている扉を開いた。
(今の俺の姿をあいつが見たら――どんな顔をするんだろうか)
真由人が「あいつ」と呼ぶのは彼の父親のことだ。10年前まで名前も顔も知らなかった父親は、真由人が生まれてすぐに、判子を押した離婚届だけを残して、妻と息子の前から永遠に姿を消した。なぜ父親は家族を捨てて出ていったのか。その理由を真由人は今も知らない。真由人は事情を知るであろう、母親の朱里に理由を尋ねようとした。だが部屋を満たす暗闇の中で、蹲って啜り泣く朱里の背中を初めて目にした時、それは決して訊いてはいけないことなのだと、真由人は悟ったのだった。
朱里は神奈川県横須賀市内の総合病院に勤務する優秀な医者で、家計を支えるために昼夜問わず働き詰めだった。医者という職業は、戦場で戦う兵士に似ていると真由人は思う。急患が搬送されれば、休日であろうが関係なく招聘される。おまけに人員が不足している時は、一人で何役も勤めなければいけない時もあったからだ。
そんな多忙の極みである朱里が、授業参観や運動会などの学校行事に、当然ながらこれるはずもなく、仲睦まじい家族の姿を見るたびに、真由人はいつも心に孤独を感じていた。寂しくないと言えば嘘になる。だが朱里は父親のいない家庭を必死に支えようとしている、息子の未来を明日に繋ごうとしているのだ。そんな朱里の姿を見て育った真由人は、女手一つで子供を育てるという母親の大変さを、自然と理解するようになっていた。
――家族を捨てて姿を消した父親の代わりに朱里を守りたい。
子供から大人に成長した真由人は、いつしか使命感にも似た強い思いを、胸に抱くようになっていた。あの時の自分が、無力な子供ではなく、強い大人の男だったなら、去りゆく父親を引き留められたかもしれない。暗闇で独り啜り泣く朱里を、優しく腕に抱き締められたかもしれない。朱里に対する強い思いは力への渇望となり、真由人は大切な人を「守るための力」を、欲するようになっていたのだ。
「母さん、俺、航空自衛隊の幹部候補生として、防衛大に入ろうと思う。ファイターパイロットになって母さんを守りたい、母さんがいるこの国の空を守りたいんだ」
日本列島に桃色の桜の花が咲き誇る春。高校3年生に進級した真由人は、今まで胸に秘めていた己の決意を朱里に告げた。息子の決意を聞いた朱里は、入り組んだ迷宮のように複雑な表情を見せた。母親の表情と自分を見つめる眼差しは、10年の歳月が経った今でも鮮明に覚えている。覚悟・諦観・悟り。その中に真由人が望んでいた喜びは含まれていなかった。
最初は防衛大学校から自衛隊に入隊するという進路は特に考えていなかった。だがミリタリーマニアの友人に連れられて赴いた、陸上自衛隊の中央観閲式で、輝くサーベルを携えて、凛々しく勇ましく行進する、防衛大学学生隊の姿を見た瞬間、あの場所にいけば求めていた「強さ」が得られると、真由人は確信したのだった。
「……私は反対しないわ。貴方の信じた道を歩きなさい」
朱里は箪笥の奥深くに押し込んでいた箱を取り出すと真由人に手渡した。厳重に保管されていたから、とても大切にしている物が入っているのだろうと思ったが、箱の中に入っていたのは、一枚の写真だけだった。写真に写っているのは、赤子を腕に抱いた女性と、凛々しい表情をした青年だ。赤子は自分で二人の男女は若かりし頃の朱里と父親に違いない。
だが何よりも真由人が目を奪われたのは、青年が着ている衣服だ。濃紺の背広の上下はまさしく航空自衛隊の制服だった。肩には三つの桜星と一本線の階級章が縫いつけられ、左胸には翼を広げた鷲を模した、銀色のエンブレムが輝いている。厳しい訓練に耐え抜き、鋼鉄の翼を手に入れた者だけに与えられる航空徽章、ウイングマークだ。写真から視線を上げた真由人は、驚いた顔を元に戻せないまま朱里を見た。
「……彼の名前は鷹瀬和真1等空尉。貴方のお父さんよ」
まさか父親が航空自衛隊のパイロットだったとは――。真由人は俄かには信じられず戸惑いを覚える。知らず知らずのうちに、自分は父と同じ道を選んでいたのか。陸上自衛隊、海上自衛隊、警察官、海上保安庁など、航空自衛隊の他にも強さを象徴する職業はあるであろうに、真由人は迷うことなく、数多くある選択肢の一つから、「航空自衛隊」という答えを選んだ。
――答えを選んだ理由は一つしかない。
和真から受け継いだ遺伝子が、真由人を空に導こうとしているのだ。

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