54/72
父の真実
部屋に反響した硬い音が、追憶の海に沈んでいた真由人の意識を現実に呼び戻す。瞼を開けてベッドから起き上がった真由人は、返事をしてからドアを開放した。開放したドアの向こう側にいた人物を見た真由人は驚きを露わにする。部屋を訪ねてきたのは、アグレッサーを率いる教導隊長の獅堂大輔2等空佐だったからだ。乱れていた襟元を整えた真由人はぴんと背筋を伸ばした。
「夕城2尉と燕1尉は、少し前にC‐1輸送機に乗って松島に戻ったぞ。出発ぎりぎりの時間までお前を待っていたらしい」
「――そうですか」
「お前は悩んでいるのか」
「えっ……?」
「このままアグレッサーのファイターパイロットとして飛び続けるか、それともブルーインパルスのドルフィンライダーとして空を飛ぶか。お前はそのことで悩んでいる。だからお前はあいつらと一緒に松島へ帰らなかった。そうなんだろう?」
心を揺さぶる迷いを獅堂2佐に言い当てられて真由人は黙りこむ。イーグルは10年前から欲していた力を象徴する灰色の翼だ。対してドルフィンことT‐4の白と青の翼は、真由人に戦いの空とは違うもう一つの空を見せてくれた。真由人にとってはどちらもかけがえのない翼だ。それゆえに真由人はどちらの翼を選ぶべきなのか逡巡を続けていたのだった。
「獅堂隊長……俺はどうすればいいんですか?」
「決めるのは俺じゃない。お前の『心』だ」
獅堂2佐の拳が真由人の胸を突く。飛行隊隊舎の応接室に真由人を訪ねてきた来客が待っていると伝えた獅堂2佐は立ち去った。決めるのは自分の心――。その場に立ちつくした真由人は、しばらく獅堂2佐の言葉を噛み締めていた。
部屋に戻り作業着の上着を羽織った真由人はアグレッサーの飛行隊隊舎に向かう。静まり返った廊下を早足で歩き、ノックをしてから応接室のドアを開ける。来訪者は無人の応接室のソファに座り、卓上に置かれたコーヒーカップの水面を見つめていた。ファンタジー映画に登場する魔術師のように、水を媒介にして未来を見ているのだろうか。
「母さん――?」
真由人の声を耳朶に受け留めた女性は、弾かれたようにソファから立ち上がった。二人の視線が一つに重なり合う。真由人の顔に驚きの色が滲んで広がっていく。真由人に会うために新田原基地を訪ねてきたのは、遠く離れた神奈川県にいるはずの朱里だったのだ。どうして朱里は神奈川県から宮崎県までやってきたのか。真由人は朱里に理由を訪ねようとしたが、先に開口したのは彼女だった。
「少し痩せたんじゃない? 食事はきちんと摂っているの?」
「三食ちゃんと食べているよ。そんなことよりどうしてここに?」
「ブルーインパルスを辞めて、新田原基地に戻ったって石神さんから聞いたわ。だから急いで会いにきたの」
「石神隊長が――」
「何があったのか詳しく話してちょうだい」
ソファに座り直した朱里は隣に座るよう真由人に促してきた。こちらを見上げる茶色の双眸は真剣な光を湛えている。覚悟を決めた真由人はソファに腰を沈め、訥々と言葉の糸を編んでいった。
小鳥を見舞いにいった際に流星と諍いを起こしたこと。新田原まで真由人を追いかけてきた流星と、1対1の格闘戦を繰り広げたこと。僅かに頭を垂れて床の一点を見つめ続けながら、真由人はこれまでの経緯を包み隠さず朱里に話した。静かに話を聞く朱里は無言だ。言葉での叱責かまたは平手打ちで頬を弾くか。そのどちらかを繰り出すべきか考えているのだろう。
「……ごめんなさい」
だが唐突に朱里は謝ってきた。叱責されると覚悟していた真由人は戸惑うと同時に驚く。彼女に謝られる理由がまったく分からないからだ。真由人は朱里の肩に触れて頭を上げるように促した。濃い赤茶色の髪を揺らし顔を上げた朱里の目尻は微かに濡れている。彼女が泣き出す前兆だ。
「何も悪いことをしていないのに、どうして母さんが謝るんだ? 謝るのは俺のほうだよ」
「私がもっと早く本当のことを話していれば――」
「本当のこと?」
朱里は横に置いていた鞄から茶色の封筒を取り出し、言葉の意味を理解できていない真由人にそれを手渡した。真由人は封筒を開封する。中に入っていたのは一枚の便箋だ。何度も繰り返し読まれていたらしく、便箋の端は擦り切れている。真由人は折り畳まれていた便箋を開き視線を文面に走らせた。
【愛する朱里へ。空は一度舞い上がれば二度と戻ってこれないかもしれない場所だ。だから航空自衛隊のパイロットは、常に死と隣り合わせの毎日を繰り返さなければいけない。毎日のように空を見上げて、僕の無事を祈る君の心痛は計り知れないだろう。君は大丈夫だと言ってくれたが、やはり僕は君と別れることにした。この決断が君と真由人を深く傷つけることは充分に承知している。身勝手な僕の我儘を許してくれ。――和真】
便箋に書かれた文字が網膜に刻まれていくにつれ、真由人の心臓の律動は高く速くなっていった。真由人は便箋の文面を読み終える。だが心に受けた衝撃の大きさのせいで声を出すことができない。努力して絞り出した真由人の声は、蜘蛛の糸に絡め取られた哀れな蝶のように震えていた。
「……母さん、この手紙は、まさか――」
真由人の声は途中で砕け散った。朱里は何も言わずに頷く。真由人が紡ごうとした言葉の続きを知っていたからだ。この手紙を書いた人物は間違いなく真由人の父親である鷹瀬和真だった。
「貴方のお父さん――和真は私と真由人を残して死ぬことを何よりも恐れていたの。私は平気だと何度も彼に言ったわ。でも駄目だった。私は彼を引き留められなかった。それからしばらくして、和真はその手紙と離婚届を置いて出ていったわ」
朱里は別の封筒を取り出すと中身を真由人に見せた。中身を見た真由人の心に二度目の衝撃が襲いかかる。その紙は神の前で誓った夫婦の愛が終わったことを証明する離婚届だったのだ。ここで真由人は疑問に思う。既に提出されているはずの離婚届を、どうして今もまだ朱里が所持しているのだろうか?
「私はまだ和真と離婚していないの。もちろんあの人は知らないわ。私は和真を独りにしたくなかった。私は地上で生きて、空で生きる和真の道標になりたかった。役目を終えた和真が空から地上に戻る時、私たちのところへ迷わず戻れるように――」
真由人は嘘だと強く否定したかった。だが朱里の真摯な顔と眼差しがそれが嘘ではないと物語っていた。父は――和真は母と息子を見捨てて出ていった。ずっとそう思っていたのに真実はその逆だった。朱里の心の平穏を願い守るために、和真は家族の側を離れることを決意した。彼は家族を守るという己の使命を全うしようとしたのだ。愛する家族と離れなければいけないと断腸の思いで決断した時、和真の心は引き裂かれんばかりの痛みを訴えていたことだろう。
そんな和真の心境も知らず真由人は彼が家族を捨てたと思いこんでいた。彼を恥じて憎しみを募らせ、心の中で軽蔑しながら生きてきた。そんな自分が急に醜く思えた。まるで人間の皮を被った腐り果てた泥人形のようだ。だが電話でも手紙でもなんでもよかった。本当のことを話してくれれば、真由人は和真のことを憎悪せず嫌いにならずに済んだだろうに。不意に朱里を映している視界が滲む。真由人の双眸は自らが発生させた涙の海で溺れていたのだ。
「どうして本当のことを言ってくれなかったんだよ!! 言えばいいじゃないか!! 言ってくれればいいじゃないか!! 言ってくれないと分からないじゃないか!! 俺に言わないから、隠していたから、あいつのことを恥じて、軽蔑して、憎んでしまったじゃないか!! 俺は馬鹿だよ!! 大馬鹿野郎だ!! 俺はいったいなんのために強くなろうとしたんだよ!!」
真由人は号泣しながら叫んだ。今までずっと自分に父親はいないと強く言い聞かせてきた。でも本当は苦しかった。寂しかった。哀しかった。空を見上げるたびに無意識のうちに和真の姿を捜して、彼のことを思っていた。家族を捨てたあんたに国の空を守る資格はない。いつか空の上で和真に出会ったらそう言おうと心に強く決めていたはずなのに――今は違う言葉が言いたかった。
真由人は朱里を守るために強さを求めた。だが本当は父親とは違うことを証明するために、強さを求めたのかもしれない。家族を捨てて姿を消した和真は弱い人間だ。でも自分は彼とは違う。弱い人間じゃない、家族に背中を向けて逃げ出した臆病者じゃない。それを証明するために真由人は強くなりたかったのだ。
「……ごめんなさい、真由人。私が貴方を縛りつけていた、貴方を苦しめていたのね。もっと早く貴方の苦しみに気づくべきだった。貴方から自由な人生と夢を選ぶ権利を奪ってしまったわ。強くならなくていい、私を守る必要なんかない。真実を話して貴方にそう言うべきだったんだわ。本当にごめんなさい――」
朱里の懺悔を否定するように真由人は首を振った。
「違う、違うよ、母さんは何も悪くない。ただ憎んでいるだけで、父さんのことを訊こうとも知ろうとしなかった俺が悪いんだ。母さん、俺、父さんに会いたい。父さんに会って、いろんなことを話したい」
「ええ、今度一緒に会いにいきましょう。思いきり親子喧嘩をして、仲直りしましょう。きっと貴方のことを、立派なパイロットだって褒めてくれるわ」
真由人の心を凍てつかせていたものが、涙と溶け合い流れていく。
そして真由人は一人のパイロットに教えられたことを思い出す。
空は――こんなにも綺麗で自由だということを。

+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。