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RIDERS ON THE SKY 作者:蒼井マリル

第5章 ドルフィンとイーグル

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芽生えた想い

 緋色に燃える太陽は地平線の彼方に沈み、世界は深い藍色の宵闇に包まれた。小鳥たちブルーインパルスの隊員は、馴染みの居酒屋「あおい」で、真由人の復帰を盛大に祝福した。あのあと流星は堂上空将補に事の顛末をすべて話し、石神の説得もあって第11飛行隊に残ることを許された。初めはぎこちなかった里桜と圭麻の態度も、今は元通りになりつつある。そして流星と真由人は、あの時の諍いなど最初からなかったかのように明るく振る舞い、酒を酌み交わしながら第306飛行隊時代の思い出話に花を咲かせていた。二人に呼び寄せられた小鳥も会話に参加して、真由人が語る流星の意外なエピソードに、驚きながら頬を緩ませたのだった。

 飲み足りないので別の居酒屋に行くという石神たちと別れた小鳥は、独り松島基地に帰る道を歩いていた。誰かに名前を呼ばれた気がした小鳥は歩みを止めて振り返る。歩みを止めた小鳥はしばらく立っていたが、彼女の名前を呼んだと思しき人間は現れない。スマートフォンに熱中する若者や、肩を組んだ赤ら顔のサラリーマンたちが千鳥足で通り過ぎていくだけだ。目に捉えることのできない妖精の悪戯だったのかもしれない。小鳥が前を向いて再び歩き出そうとしたその時だった。

「夕城!」

 涼やかな低音の声が、深海にいるかのような静かで暗い夜の空気に響いた。名前を呼ばわれた小鳥は身を翻して振り返る。一人の青年が人混みを掻き分けながら小鳥のほうに走ってくるのが見えた。襟元に毛皮がついた黒色のミリタリージャケットに、胸元が大きく開いたVネックのシャツ、ダメージ加工を施したジーンズと、無骨なミドルカットのミリタリーブーツを履いている。走ってくる青年は流星だ。小鳥に追いついた流星は前屈みになって呼吸を整えている。ややあって呼吸を整えた流星が顔を上げた。

「燕さん? 皆さんと二次会にいったんじゃなかったんですか?」

「お前を基地まで送ろうと思って追いかけて来たんだ」

「えっ? あぁ~分かりましたよ! また私を馬鹿にしているんですね? 『歩道で転んで自転車に轢かれる』とか、『足を滑らせて田んぼに落ちる』とかって言うつもりなんでしょ? 別に気を遣ってくれなくてもいいですよ。こう見えても私は自衛官ですから一人で大丈夫です。燕さんは皆さんと楽しんできてください」

 一礼した小鳥は歩き出そうとしたのだが、突然流星に腕を掴まれたので、危うく転びそうになった。驚いた小鳥は後ろに立つ流星を仰ぎ見る。小鳥が見上げた流星は、鳥籠に閉じこめられた鳥のような、切ない表情を端正な顔に浮かべていた。

「……オレは本気で松島基地まで送っていくって言っているんだ。お前は、その、女性なんだから、たった一人で夜道を歩くなんて危なすぎるんだよ。それに、お前にまた何かあったら、オレは――」

「燕さん……」

 小鳥の腕を掴んでいた流星の手は下に滑ると、彼女の手を包み込むように握り締めた。小鳥と流星の視線が重なり合う。蒼い色を孕んだ月明かりが、未来に進む時間から切り離されたように静止している、二人の姿態を染め上げる。交わす言葉はいらなかった。心の深い部分がお互いの想いを感じ取っていたからだ。手と手が繋がり指が絡み合ったその瞬間、どうしようもなく甘く切ない感情が、小鳥の胸を静かに叩いた。強く締めつけられた胸の奥が熱く激しく燃える。キャンディーのように甘酸っぱく、サイダーのように泡を立てて弾けるそれは、小鳥が生まれて初めて経験する感情だった。

 心に湧き上がった未知の感情をどうすればいいのか小鳥は戸惑った。そして流星も自分と同じ感情を覚えているのではないかと小鳥は思う。長い睫毛が影を落とす流星の端正な顔に、虹の色を掻き回したような、複雑な感情の色を見たからだ。固く結ばれていた手は、流星の方から温もりと共にゆっくりと離れていく。いったん流星の側から離れて気持ちを落ち着けたい――。周囲を見回した小鳥の視界に、道の片隅でひっそりと佇んでいる、赤色の自動販売機が映った。

「あっ……あの……何か飲みますか? 走ってきたから喉が渇いたでしょう?」

「……そうだな。コーラを頼む」

「コーラですね? すぐに買ってきます」

 流星から小銭を受け取った小鳥は逃げるように自動販売機のほうに走った。体内で心音が鳴り響き、心の奥底から様々な感情が湧き上がってくる。それはまるで藍色の海で暴れ回る荒波のようだ。月明かりの下で小鳥を待っている流星の姿を横目で窺うと、彼女の中で渦巻く感情の波はさらに激しくなった。

 その感情の荒波に身を任せてしまいたい。今すぐにでも流星のところに走り寄り、彼の身体に抱きついて腕を回し、引き締まった胸に顔を埋めて、己のすべてを捧げたいと小鳥は強く思う。それから小鳥は過激とも言える自分の思考に気づくと、可憐な顔を恥じらいの赤に染めて、それを追い払うように何度も首を振ったのだった。

 小鳥と同じく流星も胸に芽生えた感情に戸惑いを覚えていた。だが小鳥よりも成熟した大人である流星は、胸を締めつける甘く切ない感情の正体を瞬時に理解していた。今まで何人かの女性と交際してきたが、こんな気持ちを心に感じたのは、今日が初めてだったような気がする。

 出会った当初は決して相容れない存在だと思っていた。だがいつの間にか小鳥が側にいることが当たり前になっていた。微笑みを向けられたり、名前を呼ばれたり、そして純粋で綺麗な双眸で見つめられると、流星は気持ちが落ち着かなくなるようになった。やがて流星の心に変化が現れる。小鳥を疎ましく思うことが少なくなり、彼女の存在を肌で感じるたびに、心が安らぐような感覚を覚えるようになっていたのだ。流星の心を大きく変えてしまうほど、彼の中で小鳥の存在は大きくなっていたのである。

 今ここで胸の奥で燃える甘く切ない感情を、小鳥に伝えることもできただろう。路地裏には派手なネオンに彩られた看板を掲げたホテルもある。その気になれば強引に想いを遂げることも可能だ。だがそうすれば小鳥の純粋な心は深く傷つく。それに彼女はまだ理解できずに戸惑っているに違いない。だから時期がくるまで、この想いは胸の内に秘めておくべきだと、流星は判断したのだった。

(――荒鷹さん、あなたが言っていたとおりになりそうですよ)

 ダッフルコートを着た小鳥の背中を視界に捉えた流星は苦笑した。小鳥は自販機の前で深く思い悩んでいる。たかがコーラの一本でそんなに悩まなくてもいいと思うのだが。いずれにせよしばらく待たされる羽目になりそうだ。

 ミリタリージャケットの胸ポケットから煙草の箱を取り出し、その中の一本を口に銜えてライターの火で先端を炙る。夜空を仰いだ流星は目を閉じると、口腔に閉じ込めている紫煙を吐き出した。数秒後、閉じていた両目をゆっくりと開放した流星は、漂う紫煙の向こう側に恐ろしい影を見てしまう。驚愕で開かれた流星の口から墜落した煙草は地面に落ちると、赤い瞬きを残しながら暗闇に飲まれていった。
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