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復讐の凶刃
小鳥が購入したアップルジュースとコーラが、真っ逆さまに自販機の取り出し口に落ちてくる。その二つを取り出そうと腰を屈めた時、不意に氷の塊で背中を撫でられたような感覚が走り、小鳥はぞくりと身体を震わせた。得体の知れない感覚が背中を走った直後、小鳥は自分のすぐ後ろに誰かが立っているのに気づいた。
小鳥は振り返って背後を見やる。幻想的な月明かりに照らされた女性が後ろにいた。女性はゆっくりと顔を上げると、小鳥を真っ直ぐに見つめてきた。暗い狂気に囚われた虚ろな双眸は、生きる権利を放棄した証。空洞のように虚ろな目と視線が合った瞬間小鳥は戦慄する。なぜならば小鳥は彼女を知っていたし、彼女も小鳥を知っていたからだ。
「……早見弥生さん?」
彼女は小松基地で会った早見弥生だった。あの時出会った弥生はまともな姿をしていたが、再会した彼女は信じられないほど変わり果てていた。頬の肉はナイフで削がれたようにごっそりと落ち、落ち窪んだ両目の下を縁取るのは、青黒い色に染まった隈だ。乱れた髪と青白い顔をして、微動だにしないその姿は、さながら目を真っ赤に泣き腫らしながら死を予言するという、不吉な妖精バンシーのようだ。
しかしどうして弥生が松島の地に立っているのだろうか。弥生の右手に視線を向けた瞬間、小鳥の思考は凍りついた。弥生は右手に包丁を握り締めていたのである。包丁を握り締めたまま、弥生は小鳥に向かって進んできた。小鳥の背後には自販機がある。つまり小鳥は完全に退路を断たれてしまったのだ。
「私をどうするつもりですか? 今ならまだ間に合います。馬鹿なことは考えないで――」
弥生の唇が三日月のように吊り上がった。大きく開いた唇から放たれた哄笑が小鳥の声を掻き消す。指揮棒のように振り上げられた包丁が弧を描き、鋭い先端が小鳥に向けて突きつけられる。その動作はまるで小鳥に対する宣戦布告のようだった。
「……あなたをどうするつもりだと思う? もちろんズタズタに切り刻んであげるのよ!! 私から昶を奪ったように、あの男から大切な仲間を奪ってやるわ!!」
絶叫した弥生は両手で包丁を握り締めると、錯乱したように叫びながら小鳥に突進してきた。逃げ場を失った小鳥は両目を固く瞑る。身体のどこかに包丁が突き刺さるのを覚悟したその時だった。小鳥はいきなり真横に突き飛ばされて、アスファルトの上に勢いよく倒れ込んだ。全身を調べてみたが包丁はどこにも刺さっていない。いったいこれはどういうことなのか。視線を動かした小鳥は、眼前に広がっている信じ難い光景に瞠目したのだった。
「燕さん……?」
先程まで小鳥がいた場所にいるのは流星だ。流星は弥生を抱き締めるような体勢で立っていた。流星の顔は苦悶で歪み、左の脇腹には包丁が根元まで突き刺さっている。流星は小鳥を真横に突き飛ばして、彼女が食らうはずだった復讐の凶刃を、己の身体を盾にして受け留めたのだ。脇腹に刺さる包丁に力が込められ、肉を切り裂いた刃は奥に強く押し込まれた。
「弥生……さん……」
身体に走る激痛が意識を奪っていく。意識を失う前に言わなければいけない言葉がある。震える手を伸ばした流星は、包丁の柄を強く握って離さない弥生の手に触れた。流星の胸に頬を寄せていた弥生が顔を上げる。彼女は驚きと戸惑いを湛えた双眸で真っ直ぐに見上げてきた。
「あなたがオレを殺したいほど憎んでいるのは、分かっています。でも、昶は復讐を望んでいないと思うんです。オレを殺しても昶は生き返らない。それはあなたがいちばんよく分かっているはずです。それでもあなたがオレを殺したいと強く望むのなら、オレは喜んでこの命を捧げます。だから、これで終わりにしてください、自分自身を復讐から解放してあげてください。これ以上、大切な家族が傷つく姿を、昶は見たくないんです。……昶を守れなくて、すみませんでした」
流星の言葉をすべて聞いた弥生は、包丁を離すと地面に蹲り、頭を抱えて悲痛な声を上げた。流星は最後の力を振り絞って包丁を引き抜いた。途端に大量の血が溢れ出して全身から力が抜ける。小鳥の目の前で、流星は膝から崩れ落ちるように仰向けに倒れた。我に返った小鳥は急いで流星の側に走った。
「燕さん! しっかりしてください!」
小鳥は流星を抱き起こして名前を呼んだ。縦に深く裂けた傷口から大量の血が流れ続けている。小鳥は右手をシャツの中に滑り込ませて、脇腹の傷口を上から強く押さえた。傷口を刺激された流星が痛みに呻くが、小鳥は構わず傷口を押さえる。だがそれでも血は止まらない。ややあって閉じていた流星の瞼が動いた。小鳥を捜す灰色の瞳の動きは緩慢だった。流星の意識が今にも暗闇に散ろうとしているのだ。
「夕城……怪我はない……か……?」
瀕死の重傷を負ったというのに、それでも自分を心配してくれる流星の姿に、小鳥は思わず泣きそうになった。
「どうして、どうして、私をかばったんですか!?」
「オレは、もう、仲間が目の前で死ぬのを見たくなかった。だから、今度こそ、大切な仲間を守りたかったんだ――」
瀕死に喘ぐ流星の脳裡には、あの豪雨の日の出来事が蘇っていた。雨で濡れた滑走路に着陸しようとした6番機が、水飛沫を撒き散らしながら緊急拘束装置を突き破り、そのままオーバーランしていく戦慄の光景を、流星は5番機に乗って上空から見ていたのだ。
着陸した流星は急いでランウェイエンドに走った。砕け散ったキャノピーに覆われた、コクピットに座る小鳥の顔面は紙のように真っ白で、まるでコクピットが彼女の棺桶になっているようだった。真由人が割れたキャノピーで傷つきながらも、小鳥を助け出そうと奮闘している時、流星は呆然と立ち尽くしたままその様子を眺めていた。誰よりも早く小鳥を救出する。それがパートナーである己の役目だということは充分に理解していた。だが流星の両足は、まるで強力な接着剤で固定されたように、地面に張りついたまま1ミリも動かなかったのだ。
幽霊のように突然現れた弥生に気づき、包丁を手にした彼女が小鳥に襲いかかろうとした時、頭で考えるよりも先に流星は地面を蹴り飛ばし、間に合ってくれと心の中で強く叫びながら駆け出していた。
2年前にできなかったことをしたかった。
絶望の淵にいた自分を救ってくれた荒鷹に恩を返したかった。
そして何よりも大切な存在の小鳥を守りたかった。
その結果弥生の凶刃に肉体を貫かれてしまったが、やっと大切な者を守ることができたのだ。だからここで死んでしまったとしても、流星に悔いはなかった。
脇腹が焼き鏝を押しつけられているように熱い。浅く速かった呼吸が遅くなっていった。周囲の喧騒が遠ざかる。望んでもいないのに、両方の瞼が脳髄から送られる電気信号を無視して勝手に閉じていく。自分の意思では制御できない。これは意識を失う前兆だ。肉体の檻から魂が抜け出そうとしているのだ。小鳥は流星の身に起きた恐ろしい変化に気づいた。
「燕さん! 眠ったら駄目です! すぐに救急車が来ますから、それまで頑張ってください!」
小鳥は流星の手を胸に抱き締めた。いつも温かい大きな手は神聖な墓地で眠る死者のように冷たい。黒い衣を纏って大鎌を持った死神が、流星を黄泉の国に連れていこうと引き摺っているのだ。そんなことはさせない! 小鳥は握り締める手にありったけの力を込めた。生命の光を失いかけた切れ長の双眸が小鳥を見つめる。流星の唇に儚い微笑みが浮かんだ。
「お前を守ることができて、本当に、よかった――」
その言葉を最後に唇の動きはぴたりと止まる。小鳥が見ている前で流星は青白い瞼を閉ざした。それと同時に、小鳥が胸に抱き締めていた流星の手も力を失い、彼女の指の間をすり抜けるとアスファルトの上に落ちた。黄金で作られた王子の像の願いを、最期の時まで叶え続けた鳥のように、流星は喋ることも動くこともやめたのだった。
「燕さん……!? 目を開けて!! 目を開けてください!! 燕さん!! いやああああぁっ!!」
小鳥は流星の肩を掴んで左右に揺さぶり、悲痛な声で名前を連呼したが、彼の瞼は微動だにしなかった。肉体の檻から解放された流星の意識は、冷たい夜の闇に散っていき、小鳥がいる地上には二度と戻ってこなかった。

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