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開かれた記憶
息子を奪われて復讐に燃える、早見弥生の凶刃から小鳥をかばった流星が、彼女の目の前で刺されて倒れてから数週間が過ぎ去った。救急車で市内の病院に搬送された流星は緊急手術を受けたあと、集中治療室で5日間も意識不明の状態だった。それは6日目の深夜のことだ。流星は奇跡的に昏睡状態から回復して、ここより医療設備が整っている、仙台市内の大学病院に転院することになった。しかし大学病院に転院はしたが容体はまだ安定せず、小鳥たちが流星と面会することは決して許されなかった。
それからまた数週間前が経過したある日のことだ。流星の容態が安定したので面会してもいいと、病院から基地に連絡がきた。そして週末の土曜日。小鳥たちは石神が運転する黒色のSUVに搭乗して、松島基地から仙台市内の大学病院に向けて旅立った。道路を走って大学病院に到着。華麗にハンドルを回した石神が、病院敷地内の駐車場に車を停車させる。順番にSUVを降りた小鳥たちは硝子製の自動ドアを通り、淡いクリーム色に塗られた病院の中に足を踏み入れた。
入ってすぐのロビーは外来の患者でいっぱいだった。その中にはサロン代わりにしている老人たちもいる。石神たちを待たせた小鳥は受付カウンターに歩き、女性事務員に流星が療養している部屋の番号を尋ねた。「モデルみたいに素敵な彼ですよね」と笑った事務員は、五階の512号室だと教えてくれた。小鳥たちは階段で五階に上がり、リノリウムの廊下に靴音を響かせながら、目的の512号室を見つけた。小鳥たちの来訪を拒絶する「面会謝絶」の札は提げられていない。石神を先頭にして小鳥たちは順番に病室に入った。
ドアを開けて入るとそこは個室になっていた。右側に小さな冷蔵庫、左側には長椅子とテーブルが置かれている。間仕切りのカーテンは開け放たれていて、バスローブのような病衣を着た流星は窓際のベッドに寝ていた。ベッドの下にはジャッキがついていて、ちょうど腰のあたりで曲がり、上半身が寝たまま30度の角度まで起こせる構造になっているようだ。ベッドに身体を横たえている流星は、窓の向こうに広がる街並みと青天を静かに眺めている。病室に入ってきた小鳥たちを見た流星は、ベッドに深く沈めていた身体を起こすと、姿勢を真っ直ぐに正してから、ゆっくりと一礼した。誰よりも先に開口したのは、先頭に立つ石神だった。
「一時はどうなるかと心配したが、その様子だともう大丈夫のようだな」
「はい。いろいろと迷惑をかけてしまって、申し訳ありませんでした」
小鳥は太陽の光が届かない部屋の片隅にひっそりと立ち、石神たちと流星が交わす会話を黙って聞いていた。会話に加わろうとせず、部屋の隅で物置のように佇んでいる小鳥に気づいた石神は、外で煙草を吸ってくると言って病室を出ていった。石神が病室を出てすぐに、真由人と圭麻はトイレにいってくると言い、里桜は一階の院内売店で飲み物を買ってくると言って、病室から出ていった。小鳥を流星と二人きりにするために、彼らは揃って退室したのだ。ややあって青みを帯びた灰色の双眸が、小鳥のほうに動かされた。
「……久しぶりだな」
「……はい」
「そこに椅子があるから、とりあえず座れよ。立たれたままでいられると、なんだか落ち着かないんだ」
頷いた小鳥は部屋の隅から移動すると、折り畳み椅子を開いてベッドの前に腰掛けた。流星は白い布団の表面を走る陽光を静かに見つめている。流星の横顔を見た小鳥は、彼が以前よりも痩せたのではないかと思った。流星はもともと体脂肪が少なく、筋肉で引き締まった体型をしていたが、それでも頬の肉は削げ落ちて、皮膚の色も青白くなっている。それに身体の厚みも薄くなった。そんなことを考えながら流星を見ていると、小鳥に横顔を向けたままの彼は、おもむろに口を開いた。
「医者から聞いた話によると、肋骨に当たった刃が滑って、身体の深い所にまで刺さっていたらしいぜ。おまけにあと数センチ位置がずれていたら、命が危なかったってよ。まったくオレも悪運が強いよな。もう少しで死ねたのに残念だ」
流星は奇跡の生還を嘆くかのように口角を歪める。「死ねた」という恐ろしい言葉が耳に届いたその瞬間、小鳥の心の中で凍りついていた感情の塊は一気に弾けた。
「『死ねた』だなんて、そんなの簡単に言わないで!! 父さんみたいに生きたくても生きれなかった人たちがいるのに、そんなこと言わないでよ!! それに私をかばったせいで燕さんが死んじゃったら、私はどうしたらいいの!? 死ぬなんて絶対に許さない!! 絶対に許さないんだから!!」
声を張り上げた小鳥は、流星が生死の境を彷徨っていた怪我人だということを忘れて、体当たりをするように彼の胸に飛び込んだ。小鳥は握り締めた拳で流星の胸を何度も叩く。小鳥の眦を焼くのは熱い涙。人間が喜怒哀楽を表現する時に使われる液体だ。病衣の襟元をきつく掴んだ小鳥は、硬く引き締まった流星の胸に顔を埋めて、洗濯に失敗した衣服のように身体を丸めて泣き続けた。ぎこちない動作の大きな手が小鳥の背中を撫でた。流星の胸に埋めていた顔を上げた小鳥は、眦を涙で濡らしたまま彼を強く見据える。涙で濡れた小鳥の視線を受け留めた流星は、戸惑っているようだった。
「……どうしてオレみたいな奴のために、泣いたりするんだよ」
「そんなの決まっているじゃないですか! 燕さんが私の大切な『仲間』だからです! 仲間の無事を喜んで、仲間のために泣いて笑って怒ったりするのが当然じゃないですか! 私たちは命と心を預け合った仲間だって言ったじゃないですか!」
命と心を預け合った仲間。小鳥の真情がこもった言葉は、流星の心を大きく揺り動かして、今までずっと固く閉ざされていた、最後の心の扉を開け放った。そして流星はようやく気づく。最初からその扉に鍵なんてなかった。開けようと思えば、いつでも自分の意思で内側から開けられたのだ。――自分を縛りつけていた過去の鎖を断ち切れるのは今しかない。迷いと躊躇いは一瞬にして消え去った。
「お前に話したいことがあるんだ。……聞いてくれるか?」
決意の響きを帯びた涼やかな声が小鳥の耳に響いた。切れ長の双眸にも決意の光が宿っている。流星は3年前の記憶を言葉に変えて紡ごうと決意したのだ。小鳥は服の袖で涙を拭い首肯する。流星は灰色の双眸を宙に向けた。一瞬の瞑目。双眸を開放した流星は、今も強く残っている3年前の記憶を静かに語り始めた。

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