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空と地上
そのあと現場空域に小松救難隊が到着したが、2番機は海面に激突した衝撃で粉微塵に砕け散り、懸命の捜索も空しく、海中に没した機体と昶の遺体は発見できなかったらしい。一人だけ生き延びた流星が小松基地に帰投する前から、基地の内外では日本と中国の戦闘機の衝突で蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。帰投した流星は小松基地で徹底したデブリーフィングを受け、しばらくの間は部外者との接触を一切禁じられた。
中国機が自衛隊機を撃墜した。逆にイーグルがJ‐10Aに体当たりした。勝手な推測を流す者が多く、日本政府も中国政府もそれぞれ自分の主張を言い立て、相手を激しく非難するだろうと思われていた。だが記者会見で防衛省も中国国防省も、「訓練中の事故」だと世間一般に公表した。
テレビで会見を観た流星は愕然とする。デブリーフィングで自分は確かに真実を語ったはず。それなのに事実は歪曲されてしまった。誰の策略なのかはすぐに分かった。父親の燕飛龍航空幕僚長だ。飛龍は何よりも世間体を第一に考える男。どんな手段を使ってでも、息子が関係する事故を隠蔽しようとしたのだろう。
そして流星は部隊の飛行隊長から「F転」を通告された。F転とは戦闘機パイロットが、戦闘機以外の輸送機・救難機パイロットや、あるいは地上職に転換することを指す隠語だ。それは日本の空を守ることを使命とするパイロットにとってはまさに死刑宣告に等しく、ロシアや中国の戦闘機以上に恐れているといっても過言ではない。転換先は地味な任務に就かされることが多く、戦闘機パイロットは花形とも言われる職業なので、これを機に部隊を去る者もいるという。
高荷重環境下で飛行や訓練を行うファイターパイロットが、身体検査をパスして戦闘機に乗り続けるのは難しく、身体に異変が現れ始める35歳前後で、上司からF転を打診される。しかし流星は26歳の若き青年で健康な肉体の持ち主だ。まだまだ現役のファイターパイロットとして飛び続けられるだろう。だがその肉体ではなく事故の影響で不安定になった精神面が問題視されたのだった。
ファイターパイロットは音速に近い速度で大空を飛び回りつつ、時には一瞬で乱高下する。それに最大で9Gの重力加速度と戦いながら、空中戦を行わなければいけない。だからこそファイターパイロットには、研ぎ澄まされた集中力・一瞬の判断力・苦痛に耐え抜く忍耐力が要求されるのだ。不安定な精神を抱えたまま飛び続けていれば事故を起こし、取り返しのつかない事態を生じさせてしまう。恐らく上層部はそう判断したに違いない。
自衛隊は厳しい縦割り社会だ。上官がいけと命令すれば、例えそこが銃弾が飛び交う熾烈な戦場だろうと素直にいくしかない。こうしてF転の通告とパイロットの資格を罷免され、第306飛行隊ファイターパイロットの任を解かれた流星は、荷物を纏めると独り小松基地を離れ、日本の首都である東京都に向かった。東京都新宿区陸上自衛隊・市ヶ谷駐屯地を敷地とする防衛省――航空幕僚監部広報室広報班。そこが翼を奪われ地上で生きることを余儀なくされた流星の転換先だった。
広報室広報班に異動してからも空に焦がれる思いは心から消えず、睡眠薬に頼らなければ夜も眠れない日々が続いた。そんなある日のことだ。とある飛行隊が行うアクロバット飛行を、四人組ロックバンド「Humpty Bump」のミュージックビデオに使いたいので協力してほしいという話が、広報室に持ち込まれた。アクロバット飛行を行う飛行隊といえば一つしかない。「青い衝撃」の呼び名を持つ第11飛行隊ブルーインパルス。宮城県に拠点を置く航空自衛隊松島基地第4航空団に陣する飛行隊である。
第4航空団団司令との面会をとりつけた流星は宮城県に出向いた。JR仙石線矢本駅で降りタクシーで松島基地を目指す。しばらく車に揺られていると道の彼方に松島基地の全景が見えてきた。この辺りまでくると周囲に建物の姿はほとんど見られない。視界に映るものは田んぼと道路に飛行場だけだ。正門の前でタクシーを降りる。警衛所から出てきた隊員に身分証を見せて入構証を受け取り、流星は松島基地に足を踏み入れた。
都会の喧騒とは無縁の松島基地は空が広く見える。それに大気の青がより鮮やかに感じられた。松島の空気が澄みきっている証拠だ。警衛所の脇で待機していると、連絡を受けた案内役らしき二人の男性隊員が急ぎ足でやってきた。どちらもダークグリーンのパイロットスーツ姿で、右胸と左肩に青い地球と翼を重ね合わせたエンブレムとイルカのワッペンを着けている。
「お待たせして申し訳ない。第11飛行隊隊長の日下部一成2等空佐です」
「夕城荒鷹3等空佐です。松島基地へようこそ」
すらりとした長身の男性が日下部一成2等空佐と名乗り、彼よりやや背が低い男性が夕城荒鷹3等空佐と名乗った。短く簡潔に流星も名乗り返して握手を交わす。二人は流星に些か興味を覚えているように見える。まるで四つ葉のクローバーを見つけた時のような目だ。きっと二人はあの事故を知っているに違いない。
二人に案内されて赴いた、本部庁舎第4航空団司令部の一室で待っていたのは、達磨に瓜二つな外貌をした堂上清史郎空将補だった。限界まで股を広げふんぞり返るようにソファに座っている。世界は自分を中心に回っていると思い込んでいる厄介な人種だ。
持ってきた資料に目を通した堂上空将補は、初め難色を示していたが、流星がとある人物の息子と知るや否や、彼は途端に態度を一変させて全面協力を申し出た。ここで断れば己の昇進に響くと判断したのだろう。後日改めて担当の人間と訪れると約束を交わし、流星は日下部2佐と夕城3佐と共に司令部を後にした。
正門に続く道を歩いていると、青い屋根の帽子を被った白色の建物が視界前方に入ってきた。建物の上部には「Home of The Blue Impulse」の文字が青色で大きく書かれている。第11飛行隊専用の格納庫だろう。
爆音が耳朶を打ち何かに導かれるように流星は空を仰いだ。彼方まで澄みきった青空を飛んでいるのは、白と青の二色に塗られた四機のT‐4中等練習機。流星は無意識のうちに足を止め、四機のT‐4が描くアクロバットの軌跡をその目で追いかけていた。空の青を痛く眩しく感じ、視線を下ろした流星は悲しげに瞼を伏せる。だが瞼の裏に焼きついた空の青はいつまで経っても消えてくれない。瞑目して立ちつくす流星を夕城3佐は静かな面持ちで見つめていた。
「燕君……だったかな? 今からT‐4の後席に乗って飛んでみないか?」
想定外ともいえる言葉に驚いた流星は、閉じていた瞼を開けて瞠目した。
「自分が……ですか? しかし自分はもうパイロットではありません。それに堂上空将補の許可も得ずに飛ぶのはまずいのでは――」
「心配することはない。許可は私がもらってこよう。我々は芸能人を乗せて飛んだことがあるからね。だから君がパイロットでないことは特に問題にならないよ」
沈黙した流星はどうすればいいのか逡巡する。これは思わぬ僥倖であり、ずっと焦がれていた空を再び飛べる最初で最後の機会。だからこの機会を逃せば二度と空は飛べないかもしれない――。気づけば流星は首肯していた。満足げに笑み流星の肩を叩いた夕城3佐は構内を引き返していく。流星は日下部2佐に連れられ、ハンガーのすぐ隣にある第11飛行隊隊舎に向かった。
隊舎二階のブリーフィングルームでは、飛行訓練を終えた隊員たちがデブリーフィングをしていた。四人のORパイロットと三人のTRパイロットの計七名だ。簡潔に自己紹介をして順番に握手を交わす。3番機のTRパイロットが綺麗な女性だったので流星は少し驚いた。日下部2佐が流星に体験搭乗をさせてもいいかと尋ねると彼らはすぐに頷き快諾した。異論の一つもない快諾だ。きっと日下部2佐は彼らから篤く信頼されているのだろう。
しばらくすると夕城3佐が笑顔で戻ってきた。どうやら堂上空将補の許可も得られたようなので、隊員たちはさっそく体験搭乗の打ち合わせを始めた。内容はすぐに決まった。離陸するのは1番機・5番機・6番機の三機で、流星は夕城3佐が操縦する6番機の後席に搭乗する。離陸したら訓練空域へ向かい、基本機動と5番機と6番機のデュアルソロ課目を実施。それらを終えて松島基地に帰投するという内容だ。ホワイトボードに描かれた図で説明を受けながら、流星は己が心臓の律動が高鳴っていくのを感じたのだった。
流星は救命装備室で、予備のパイロットスーツと救命装具一式を身に着けエプロンに向かった。エプロンの空気は離陸前の独特の緊張感を孕んでいる。日下部2佐と夕城3佐と5番機のパイロットが、それぞれの機体の外部点検を行っていた。三人に歩み寄り一礼した流星は、機体胴体に立てかけられた梯子を上がり、長身を折り曲げて、6番機の後席に身体を沈めた。
T‐4はイーグルよりもコンソールの計器類が少ない。ヘルメットを被り、酸素マスクと通信用マスクを装着して、漆黒のバイザーを引き下げる。酸素マスクとレギュレーターを結合、無骨なベルトとハーネスで全身を固定。肩越しにこちらを見やった夕城3佐に頷き返した。
1番機と5番機が順番に誘導路を通過して滑走路の端に入る。6番機も誘導路から滑走路に進入して、整備員の最終チェックを受けた。双発のエンジンが放つ爆音が大気を裂く。1番機と5番機は轟音を響かせながら、僅か数秒で綿菓子のような雲が泳ぐ青い空へ飛翔していった。
『準備はいいかい? 気分が悪くなったらすぐに言ってくれ』
『了解です』
頷いた夕城3佐が管制塔と無線越しに会話を交わす。流星はクリアード・フォー・テイクオフの言葉が、自分を空に導いてくれる魔法の言葉のように聞こえた。スロットルレバーを押し上げた夕城3佐が6番機を発進させる。爆音を響かせながら滑走路をランディング。流星が飛ぶと思うと同時に股の間にある操縦桿が倒れた。風を纏い機体は静かに浮揚する。テイク・オフ、高度2500フィートまで上昇。上空で合流した三機は巡航速度で金華山沖の訓練空域に向かった。

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