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心の翼を広げて
光満ちる青天と純白の雲海がキャノピーの外をゆっくりと流れていく。流星は6番機の赤い後席に深く身体を沈め、青と白の二色が織り成す幻想的な風景を、ただ静かに眺めていた。このままずっと世界の彼方まで広がる青空を飛べたらどんなに素晴らしいだろうか。連なる純白の雲の峰を越えて、生命が生まれた蒼茫たる海を眼下に望み、優しい風に導かれながらどこまでも空を飛べたら――。流星の思考と心をいっぱいに満たすのは焦がれるような空への思いだった。
『燕君、君の身に起こった事故のことはよく知っているよ』
不意に届いた夕城3佐の声が、青い夢想に沈んでいた流星の意識を覚醒させた。
『目の前で仲間を失ったと聞いたよ。……とても辛かっただろうね』
『……同情はしないでください。貴方にオレの何が分かるんですか。空を飛べる貴方に、空を飛べない者の気持ちなんて分からないでしょう』
流星は怒りを滲ませた声で反駁する。反撃を食らった夕城3佐は押し黙った。些か強く言いすぎたかもしれない。だが夕城3佐は触れられたくない心の領域に無粋にも踏み込んできたのだ。だから反駁する権利ぐらいあるだろう。果たして夕城3佐はどのような反応を見せるのだろうか。流星は夕城3佐の反応を待った。
『ユー・ハブ・コントロール!』
『えっ!? ちょっ――ちょっと待ってください!』
流星は焦った。なんと夕城3佐は唐突に流星に機体のコントロールを委ねてきたのだ。見れば前席の夕城3佐は、両手を肩の高さにまで掲げているではないか。安定性を失った6番機は、揺籃であやされる赤子のように左右に揺れ始める。夕城3佐を乗せたまま墜落するわけにはいかない。流星は慌てて股の間の操縦桿を握り締めた。
操縦桿を握り締めたその瞬間、忘れようとしても忘れられなかった感覚が蘇り、それに導かれるがままに流星は操縦桿を操っていた。旋回。エルロン・ロール。ループ。バレル・ロール。流星が操縦するとT‐4の三舵は鋭敏に反応し、脳裡に思い描いた軌跡がそっくりそのまま再現された。
まるで自分が一羽の鳥となり、大空を自由自在に飛翔しているようだ。上下左右360度。美しい青天が見渡す限り広がっていた。あんなに焦がれていた空がすぐ近くにある、その空を自分で機体を操り飛んでいる――。そう思うと言葉が出ず、流星はただ空の青を見つめていた。
『……確かに私には君が抱える苦しみや悲しみは分からない。君は早見君の事故のことで自分を責め続けた、苦しんで苦しんで苦しみぬいた。そして空を飛びたいという思いを捨てきれずにいる。そうじゃないのかな?』
夕城3佐の言葉は流星の耳朶に深く鋭く突き刺さり、同時に心を強く衝いた。
『君は充分に悩んで苦しんだ。だから……自分を許してあげてもいいんじゃないかと私は思うんだ』
その瞬間――流星の心の奥底で感情の塊が弾け飛んだ。
そして過去の情景が次々と鮮明に脳裡に蘇る。
墜落した昶を見捨て、自分だけが生き残ってしまった罪悪感で激しくむせび泣いた夜。眠りに落ちるたびに悪夢に襲われた日々。F転とP免を通告されて広報室に異動になったあとも、空を飛びたい思いが心から消えない日はもちろん一度もなかった。
感情の波に揺さぶられた流星は、操縦桿を握り締めたまま背中を丸めて蹲り、強く引き結んだ唇の隙間から、途切れ途切れの嗚咽を吐き出した。バイザーの隙間から溢れた涙滴が頬を伝う。気づけば操縦桿から手応えが消えていた。流星が操縦桿から手を放してみても6番機は安定している。夕城3佐が再びコントロールを引き受けたのだ。
『心に翼を持っていれば誰だって空を飛べるんだ。大丈夫、空は逃げないよ。君が再び飛べる日がくるまで、空は待っていてくれる。だから君の心の翼を折らないでほしい』
胸に強く響いた言葉に導かれるように流星は顔を上げた。
広がるのは遥かなる群青の空。
三機のT‐4の軌跡が描く純白の航跡雲が涙で滲む視界に映る。
そして流星は魂の底から強く思う。
願わくば――彼らと同じ翼でこの空を飛びたい。
★
松島基地訪問からしばらく経ったある日のことだ。流星はF転とパイロットの資格罷免を取り消された。それはまさに特例ともいえる決定だった。航空自衛隊の歴史の中で、資格を罷免された者がパイロットに復帰した事例などないだろう。この特例を下したのも飛龍に違いない。なぜなら飛龍は流星がファイターパイロットで在り続けることを強く望んでいたからだ。
だが流星は飛龍が望む第306飛行隊には戻らず、第11飛行隊への異動願いを申し出た。こうして念願のドルフィンライダーになった流星は、5番機のTRパイロットとなり、失われていた時間を取り戻すかのように、心に開いていた穴を埋めるかのように、夢中でT‐4を操り松島の空を飛んだ。そして約1年間の飛行訓練を続けて最終検定フライトに合格し、5番機のORパイロットに昇格したのである。
これで6番機パイロットの夕城荒鷹3等空佐と肩を並べて航空祭を飛べる。流星の胸は輝かしい喜びと期待で満ち溢れていた。だが胸を満たす喜びと期待は、夕城3佐の突然の死によって粉々に打ち砕かれてしまう。夕城3佐の死はまだ癒えていない流星の心に大きな爪痕を残した。
それから流星は自分と世界を隔てる壁を作り、周囲の人たちを拒絶するようになった。心の半分を預けた相手が死ぬ痛みと悲みは、もう二度と味わいたくない。誰も信頼しなければ心の半分を預けることもなく、相手が死ぬ悲しみも痛みも感じずに済むのではないか――そう思ったからだ。

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