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決意と約束
小鳥と別れてから流星はすぐにリハビリを始めた。担当医師からは抜糸するまで身体を動かすことを固く禁じられていたが、1日の大半を寝たきりで過ごしているのだから、筋肉は確実に肉体から剥がれ落ちていく。ベッドの上で腹筋をしたり、腕立て伏せやスクワットをしたりなど、完全に回復していない身体でできる範囲のことはなんでもやった。
もちろん縫合された脇腹の傷口は完全に癒えていないので、身体を動かすたびに引き攣るような鋭い痛みが走った。だが流星はひたすら耐え忍ぶ。1日でも早く退院して松島基地に戻りたい、小鳥たちブルーインパルスのメンバーと一緒に日本の空を飛びたい――。そんな熱い思いが流星の思考をいっぱいにしていたからだ。
「――身体を動かすなと医者から言われたのではないのか?」
流星がいつものように腕立て伏せをしていると、甘くて苦いバリトンの声が耳朶の中に落ちてきた。腕立て伏せを中断し、乱れた呼吸を整えながら顔を上げる。長身で頑強な体躯をダークスーツで覆い隠した50代前半の男性が、逞しい両腕を組んで流星を見下ろしていた。小松基地でブルーインパルスに対する中傷の言葉を吐き、夕城荒鷹の尊厳を傷つけた張本人。彼の名前は燕飛龍。航空自衛官の最高位である航空幕僚長の座に就いている流星の父親だ。
「……あんたには関係ない」
素っ気なく答えて立ち上がろうと動いた瞬間、まだ癒えていない脇腹の傷口から電流の如き鋭い痛みが走り、流星はぐらりとよろめいてしまった。安定性を失った流星を逞しい腕が抱き留める。飛龍に身体を支えられながら、流星は再びベッドの上に寝かされた。飛龍は折り畳み椅子を広げて座ろうともせず、両腕を組んで床の上に立ったままだった。その姿はまるで獄中の囚人を見張る看守のようだ。
「怪我の具合はどうだ」
「……あと1週間ほど経ったら抜糸するらしい。抜糸したあとは数日様子を見て、問題がなかったら退院できると思う。それにしてもあんたがオレを心配するなんて気味が悪いぜ。いったいどういう風の吹き回しだ?」
「美智留がお前を心配している。それに父親が息子を心配するのは当然のことだと思うがな」
美智留は流星の母親の名前だ。――思い返せば防衛大学校に入学してからほとんど家に帰っていない。父親の影から逃れたくて、独り暮らしを選んだからだ。だが皮肉なことに自分は今こうして飛龍と共にいる、航空幕僚長の父親という絶大な存在の恩恵で、翼とウイングマークを取り戻せた。自分が今も空を飛んでいられるのはまさに飛龍のお陰だといえよう。とても複雑な思いだが、だからこそ自分は小鳥たちと出会うことができたのだ。
「お前は嫌味を言うためだけに私を呼んだのか? 何か大事な話があるというから、私はわざわざここまで出向いてやったのだぞ?」
飛龍の表情とバリトンの声は微かだが苛立ちを滲ませていた。確かにそうだ。流星は嫌味を言うためだけに東京から飛龍を呼び寄せたわけではない。航空幕僚長である飛龍にしかできないことを頼むため、流星は東京都心に住む彼と連絡を取り、遠く離れたここに招聘したのだ。その頼み事とは小鳥に償いたいという思いから生まれたものだった。
小鳥と出会えたから自分は変わることができた、重い過去の鎖を引き千切ることができた、空を飛ぶ意味を思い出すことができた。小鳥がいなければ――流星は自らの手で命を絶っていたかもしれない。だからこそ命と心を救ってくれた小鳥に償いたかった。それで彼女に何か償えることはないか、何か自分にできることはないかと流星は考えた。そして逡巡の嵐を彷徨った末に、流星は小鳥が強く望んでいたことを思い出したのだった。
流星は枕元に置いてある桜色のお守り袋を手に取りそっと握り締めた。お守り袋に残る小鳥の体温と想いが静かに沁み込んでくる。純粋な笑顔を浮かべる可憐な小鳥の姿が脳裡に浮かび、自然と口元が綻んでいく。これから自分が言うことは、小鳥と交わした約束を半分破ることになるだろう。だがそれでも流星の決意は揺るがない。口元を引き締めて飛龍のほうに向き直る。そして流星は決然とした面持ちで開口した。
「――オレと取引をしてほしい」

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