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RIDERS ON THE SKY 作者:蒼井マリル

第6章 ターンアラウンド

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運命に導かれて

 宇宙に渦巻く銀河を思わせるような星空が空の彼方まで広がっている。その真下に立っていると銀色の雨となった満天の星が全身に降り注いでくるようで、まるで宇宙の中心に身体が浮遊しているような不思議な感覚を覚えてしまう。冷たくも澄んだ秋の終わりを感じさせる風が、軽やかに踊りながら吹き抜けていく。

 鈴虫が奏でる音色を聴きながら、小鳥は独り飛行隊隊舎屋上の観覧席で佇んでいた。流星はまだ入院中で松島基地には戻っていない。少しでも流星がいない寂しさを紛らわせたい、彼と繋がっていたいという思いから、二人で心を分け合ったこの場所を小鳥は訪れたのだった。

 静寂を孕んだ宵闇に沈むエプロンを眺める小鳥の背後で靴音が響く。小鳥が栗色の髪を翻して振り向くと石神がそこに立っていた。そういえば消灯時間が迫っていたような気がする。石神はそのことを小鳥に勧告するためにここまできたのだろう。背筋をぴんと伸ばして姿勢を正した小鳥は石神と向き合った。

「すみません! なかなか寝つけなくて夜風にあたっていました! すぐ部屋に戻ります!」

「いや、いいんだ。別にお前を注意しにきたわけじゃない。なんだか俺も寝つけなくてな、少し夜風にあたりにきたんだよ」

 気にするなと笑って石神は片手を上げる。こちらのほうに歩いてきた石神は、小鳥から少し離れた場所で足を止めた。

「……ありがとうな、夕城」

 唐突に感謝の言葉を贈られた小鳥は驚き隣に立つ石神を見上げた。

「俺たちブルーインパルスは、今まで心と絆を一つにしていなかった。いや、しようともしなかった。でも夕城がブルーインパルスにきてくれたお陰で、俺たちはようやく心と絆を一つに重ねることができたんだと思う。たくさん泣いて傷ついた分だけ、ブルーインパルスの絆は強く確かなものになった。どんなに絶望的な状況でも切れない絆が俺たちにはある。夕城はそれを示してくれた。いくら感謝しても足りないよ」

 小鳥は見上げる石神の横顔を伝って落ちていく透明な雫を見た。同時に鼻を啜る音が小鳥の耳朶に届く。星空を仰ぐ石神が頑なに小鳥と視線を合わそうとしないのは、自分が鼻を啜りながら泣いているところを彼女に見られたくないからなのだ。

 視線を下ろした石神は真っ直ぐに小鳥を見つめると、いつものように莞爾とした笑みを浮かべた。その顔に涙の痕跡は見当たらない。精悍な顔と鳶色の双眸は小鳥への感謝の気持ちで満ち溢れ、あたかも上天の星のように強く気高く輝いていた。その輝きを目にした小鳥は強く心を打たれる。そして石神は第11飛行隊ブルーインパルスを心から愛し、そして誇りに思っているのだと改めて知ったのだった。

「ここにいたのか――。随分捜したよ」

 不意に柔らかい声が小鳥と石神の背中を叩いた。開放されたドアから作業着を着た三人の男女が屋上に入ってくる。真由人・里桜・圭麻の三人だ。

「おいおい三人揃っていったいどうしたんだ?」

「小鳥ちゃんを元気づけてあげたくて捜していたの。……燕君がいなくて寂しいんじゃないかって思ったから」

「……夕城、流星がいなくなって寂しいと思うのは俺も皆も同じだよ。俺たちはチームだ。だから君が抱える悲しみや寂しさを――俺たちにも分かち合わせてほしい」

「僕たちはずっと燕さんと一緒にいたのに、彼が抱える苦しみや悲しみに気づけなかった。でも夕城さんに仲間を信じる大切さを教えてもらいました。だから今は夕城さんや燕さんの思いが分かるんです」

 里桜の優しい言葉と微笑みが小鳥のほうに向けられる。里桜に続くように真由人と圭麻も小鳥を見つめて言葉を紡ぐ。彼らの思いやりに触れた小鳥の胸は熱くなった。色も形も異なる六つの瞳に宿る感情はどれも同じもの。三人は小鳥の胸の内を見透かしており、心の底から彼女を案じているのだ。

 輪になった小鳥たちはいろいろなことを語り合った。小鳥と流星の出会いと衝突。小鳥の最終検定フライトと鷺沼との別れ。入間基地でのPR活動。小鳥と日下部との邂逅。流星を憎む早見弥生。小鳥のハイドロプレーニング事故。流星と真由人の決闘。そして早見弥生に刺された流星の負傷。半年分の思い出が彼らの脳裡に次々と蘇った。

 小鳥は喜怒哀楽の感情を織り交ぜながら語り合う四人に視線を向ける。三沢基地第3航空団第3飛行隊で飛んでいた石神。祖父と父に憧れてブルーインパルスのパイロットを目指した里桜。パイロットではなく整備員を目指していた圭麻。最強のイーグルドライバーたちが集まる飛行部隊アグレッサーにいた真由人。彼らはブルーインパルスの展示飛行に魅せられ、ドルフィンライダーとして空を飛ぶことを強く望み松島基地にやってきた。

 生まれ故郷も年齢も性別も異なる者たちが、同じ空を飛ぶことを夢見て松島の地に集った。これはまさに奇跡――いや「運命」としか表現のしようがない。だが青い運命に導かれた仲間はまだもう一人いる。その仲間――流星のことを想えば想うほど、小鳥の胸は切ない痛みと共にぎゅっと締めつけられるのだった。

(燕さん、ブルーインパルスの皆も私も貴方のことを思っています。だから早く戻ってきてください。私たちは待っています。松島の空で貴方を待っていますから――)

 不意に口を閉じていたドアが外側から静かに開放された。誰がきたのかと思い小鳥たちはドアのほうに視線を向ける。小鳥たちの視線の先にいたのは、荷物を詰めたボストンバッグを肩に提げ、フードがついた黒色のミリタリージャケットと、同色のダメージジーンズを着た長身の青年だ。

 瞬間小鳥の胸は大きく震える。月明かりに照らされながら小鳥たちとの距離を縮めた彼は、宇宙の藍色が混じる黒髪を揺らして立ち止まった。順番に小鳥たちと視線を重ね合わせた青年――流星は足下に荷物を置いてゆっくりと唇を解いた。

「……今までのオレは、過去に囚われすぎて周囲を拒絶していました。でも、このままじゃ駄目だ、もうここで終わりにするべきだとようやく気づいたんです。夕城がオレに教えてくれました。背中に翼がなくても綺麗に飛べる、心に翼を持っているから自由に飛べる、心の中に翼があれば誰だって空を飛べる。だからオレはドルフィンライダーとして飛べる3年を無駄にしたくない、自分が飛びたいと思う空を見つけたい。お願いします、石神隊長。オレをもう一度ブルーインパルスで飛ばせてください」

 真っ直ぐに背筋を伸ばした流星は石神に向けて深く頭を下げた。逞しい両腕を組んだ石神は黙したまま頭を下げる流星を見つめている。稲妻を支配する神々の王のように厳しい面持ちだ。自分の信頼を裏切った流星を許せないという思いが、やはりまだ心の片隅に残っているのだろうか。

「……もう一度ブルーインパルスで飛ばせてくれだって? お前がいったいなんのことを言っているのか分からんな」

 死刑を宣告された罪人のように頭を上げた流星の表情が強張る。だが石神の言葉にはまだ続きが残されていた。

「燕、お前は第11飛行隊ブルーインパルスの一員なんだぞ? だからお前がブルーインパルスで飛ぶのは当たり前じゃないか。お前は俺たちのかけがえのない仲間、そして命と心を預け合い、同じ空で繋がった同志だ。……お前がブルーインパルスに戻ってきてくれて俺は嬉しいよ」

「石神隊長――」

 瞬間流星の端正な顔はたちまち歪み、切れ長の眦から大量の涙が溢れ出た。悲しみの涙ではない歓喜の涙が溢れ続ける。唇を噛み締めて泣き続ける流星を囲んだ小鳥たちは彼を優しく慰め、今まで断ち切れていた青い絆が、再び一つの糸に結ばれていくのを確かに感じ取った。そして再び固く結ばれた青い絆は、もう二度と誰にも断ち切れないだろう。

 宿舎に戻る前にT‐4を見たいと流星が頼んできたので、飛行隊隊舎を出た小鳥は彼を連れてハンガーに向かっていた。石神たちは先に宿舎に戻っている。病院に見舞いにいった時と同じように、彼らは小鳥に気を遣ってくれたのだ。

 隊舎を出てからエプロンに着くまで小鳥は一言も話せずにいた。話したいことが山ほど積もっているというのに、小鳥はまだ何も話せていない。何を話して何を訊こうか頭の中で考えて整理していたはずなのに、小鳥は言葉を声に変えることができなかった。エプロンの真ん中にきて、小鳥はようやく言葉を絞り出すことができたのだった。

「燕さんは覚えていないと思いますけれど、私たちはエプロンで初めて出会ったんですよ。5番機から降りてきた燕さんに、『挨拶もできない奴は荷物を纏めて出ていけ!』って言われちゃったんですよね」

「オレがお前と初めて出会ったのはエプロンじゃねぇよ」

「えっ……?」

 放たれた言葉を不思議に思い小鳥は流星のほうを振り返る。

「2年前の松島基地航空祭。展示飛行を見ていたら、歩きスマホをしていたお前が背中にぶつかってきた。それでオレは持っていたウイングマークを落としてしまって――それをお前が拾ってくれたんだよな」

 小鳥の脳裡に2年前の松島基地航空祭の情景が蘇る。確か小鳥は売店に飲み物を買いにいったまま戻ってこない母親の佐緒里を捜していた。電話が繋がらないからメールで連絡を取ろうと思ったのだが、荒鷹が送信していたメールに目を奪われていた。そして目線を下に落としたまま歩いていたせいで、灰色の作業着とブルーインパルスの識別帽を被った青年の背中に、顔面からぶつかってしまったのだ。

 あの青年と流星の姿が一つに重なり合う。切れ長の双眸も涼やかな低音の声も、その全てが同じだったことに小鳥はようやく気づいたのだった。流星は小鳥が2年前の出会いを忘れていたことを特に気にしたふうもない。エプロンを進んでハンガーに足を踏み入れた流星は、自分の搭乗機である5番機の前で足を止めた。小鳥も流星の後に続いて彼の隣に立ち、ゆっくりと口を開き甘く柔らかいソプラノの声を奏でた。

「私たちは――『運命』に導かれたのかもしれませんね」

「……運命?」

「生まれ育った場所も、年齢も性別も違う私たちが、ドルフィンライダーとして空を飛ぶことを夢見て松島基地で出会った。運命に導かれたから私は石神隊長たちと出会えた、燕さんと再会できた。そしてドルフィンライダーとして皆と一緒に空を飛んでいる。誰かが決めたわけでもない、自分の意思でも理屈でもない、言葉ではうまく説明できないこういうのって、まさに運命だと思いませんか?」

「――オレを導いてくれたのは運命だけじゃない」

 静かな眼差しで小鳥を見つめる流星は、ミリタリージャケットの胸ポケットを開けると小さな袋を取り出した。ハンガーの照明に浮かび上がったそれは、小鳥が病院で流星に手渡した桜色のお守り袋だった。小鳥の手を取った流星は、彼女の小さな掌の上にお守り袋を載せる。王子がシンデレラに硝子の靴を履かせるような優しくも恭しい動作だ。その動作を見た小鳥は、流星がお守り袋を大切に持ってくれていたのだと知った。

「夕城、お前が迷っていたオレをこの空まで導いてくれた、心を救ってくれた。オレを信じて待ってくれている皆と、このお守りに込められたお前の純粋な思いが届いたから、オレはこの場所に戻ることができたんだ。だから今までずっと言えなかった言葉を――ありがとうを言わせてくれ」

「……ありがとうを言いたいのは私のほうですよ。燕さんは松島に戻ってきてくれた、ブルーインパルスに戻ってきてくれた。ただそれだけでいいんです」

「必ず松島に戻る、ブルーインパルスに戻る。……オレはお前に約束したからな」

 返す言葉は出なかった。静かなる感情が小鳥の心を満たしていく。短く素直に頷き小鳥は流星に寄り添った。不思議と気恥ずかしい感じはしない。むしろごく自然に二人は身を寄せ合っていられた。流星の大きな手が小鳥の手を包み込み優しく握り締める。小鳥もぎこちなく細い指を彼の掌に絡めた。

 そして二つの手は固く強く結ばれる。掌から伝わる確かな温もりは、流星の存在が幻ではない証拠。真っ直ぐに流星を見上げた小鳥は、いつの間にか涙で濡れていた顔のまま頑張って微笑み、溢れ出る彼への想いを一つに束ねた言葉を口にした。

「おかえりなさい、燕さん」

 あたかも花の蕾が開くように、流星の端正な顔に微笑みの波が広がっていく。その微笑みを見た小鳥は、これがいちばん言いたかった言葉なのだと気づいたのだった。そして小鳥の言葉を受け留めた流星は短く告げる。

「――ただいま」

 天空を彩る白銀色の光が夜の松島基地を満たしていく。夜が明けたらきっと綺麗な青空が見渡す限り広がっている。そんな神の福音にも似た予感を胸に感じながら、吹き抜ける涼風に明るい栗色の髪と藍色がかった黒髪を揺らし、鴛鴦のように寄り添い合った小鳥と流星は、穏やかに凪ぐ銀色の星海をいつまでも見つめていた。
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