71/72
サクラの空
スター・クロスを終えて編隊から離脱した小鳥は、流星と合流してアブレスト隊形で飛んでいた。
『……もうすぐ航空祭も終わりですね』
『……そうだな。でもまだ終わっていないぞ。最後まで気を抜くな』
『はい。あの、燕さん』
『なんだ?』
『航空祭が終わったらお話したいことがあるんです。……聞いてくれますか?』
『――分かった。位置に着け、バード。ファイブ、スモーク・オン。タック・クロス、レッツゴー』
『ラジャー!』
二機は同時に右へハーフ・ロールを打った。流星のコールで左右に250度のロールで互いに交差する。交差後は直ちに上昇。それぞれ二回転半のロールを打つ。背面姿勢で降下に移るハーフ・キューバン機動で再び会場の両方向から進入、互いにハーフ・ロールを打ち背面姿勢のまますれ違う。青い閃光を帯びた稲妻の如き機動は、観客たちの視線を熱く射抜いた。スリリングな交差の瞬間を二回も堪能できるタック・クロスは、まさにデュアルソロの真骨頂とも言える課目だと言えるだろう。
斜め一列のレフト・エシュロン隊形を組んだ石神たちが、左手後方から姿を見せた。四機編隊最後の課目ローリング・コンバット・ピッチが始まるのだ。この課目はブルーインパルスが創設されて以来、脈々と部隊に受け継がれている伝統の課目である。
四機は緩やかな上昇に移行した後、1番機から順番に右へ約290度のロールを打ち編隊を解散する。四本の純白の半円が石神・里桜・真由人・圭麻の航跡を空に刻んでいた。解散した四機は着陸するためのダウンウインド・レグに向け、各機が等しくセパレーションを取りながら180度の旋回で縦一列に並ぶ。F‐86Fの時代から連綿と継承されてきたブルーインパルスの技で、編隊課目の最後は華麗に締めくくられたのだった。
『ファイブ、スモーク・オン! コーク・スクリュー、レッツゴー!』
『ラジャー!』
小鳥と流星は会場正面から進入を開始した。
コールを届けた5番機がハーフ・ロールで背面になる。
小鳥は操縦桿を倒し、5番機の周りをバレル・ロールで回った。
呼吸を一つに、思いを一つに、心を一つに。
宇宙を旅する人工衛星のように小鳥は流星の周りを踊る。
このままずっと踊っていたい、流星と空を飛び続けたい。――でも流星に伝えたい強い思いが胸の中にある。それを伝えるには空を離れて地上に戻らなければいけない。空は逃げない。目の前から消えたりしない。小鳥が歩く道の先にはいつも空が待っているのだから。
『スワロー、ブレイク・レディー、ナウ!』
小鳥のブレイクコールで左に250度のロールを打った5番機がブレイクする。小鳥もそれに追従するようにブレイクしたが、なぜか5番機はダウンウインド・レグには向かわずに上昇旋回を始めた。小鳥は慌てて無線を繋ぎ流星に呼びかけた。
『燕さん? どこにいくんですか? 方向が違いますよ!』
『いいから黙ってついてこい。石神隊長の指示だ』
ブルーインパルスの支配者である石神の命令は絶対だ。機首を翻した小鳥は高度を上げて流星の後を追いかけた。地上でブルーインパルスの帰還を首を長くして待っている観客たちは、今頃は巣を荒らされた蜂のように騒いでいるに違いない。高度5000フィート上空で待機している石神たちと合流する。まったく飛行隊長とあろう者がいったい何を考えているのだ。苦言を呈すべく小鳥は開口した。
『石神隊長! いったいどういうつもりですか? 早く着陸しないと堂上空将補に怒鳴られて嫌味を言われますよ?』
『心配しなくていいぞ。許可はちゃんと取ってあるからな』
『許可って……いったいなんの許可ですか?』
不思議に思った小鳥が石神に問いかけたその直後、地上のナレーター席でアナウンスをしている隊員の声が、無線を走り耳朶に流れてきた。
『皆様、お楽しみいただけましたでしょうか。本日は航空自衛隊の持つ飛行技術の一部をご覧いただきました。演技を終えた六機は、皆様が待つ駐機場まで帰ってまいりますが、ブルーインパルス活動再開記念と、ブルーインパルスを支えてくださった皆様に感謝しまして、今回は特別に「サクラ」を披露したいと思います』
「サクラ」は2004年に誕生した新しい演技課目。主に第3・4区分で実施される六機編隊課目だ。雲の状況により課目の上限高度が抑えられ、シーリングの高さに応じて段階的に区分が下げられないかぎり、第1区分で実施されることはまずない。それなのにいったいどうして? 突然のサプライズに小鳥は驚きを隠せずにいた。
『荒鷹さんが飛んでいた松島基地航空祭で「サクラ」を描きたい。それがお前の夢だったな』
『そうですけれど……それといったいなんの関係があるんですか?』
『夕城。これは流星が思いついたんだよ』
『真由人!? おい! 馬鹿野郎! 余計なことを言うんじゃねぇよ!』
『お前がさっさと言わないからだ』
真由人に秘密を暴露された流星は激しく動揺していた。ややあって落ち着きを取り戻した流星は言葉を継いだ。
『夕城、お前はオレに空を飛ぶ素晴らしさを思い出させてくれた。空から逃げるなと教えてくれた。そして過去の呪縛から解き放ってくれた。これはオレができる最大限の感謝の気持ちだ。……受け取ってくれるか?』
漆黒のバイザーに覆われた蜂蜜色の双眸を、涙で潤ませながら小鳥は何度も首肯した。入間基地で何気なく語った小鳥の夢を、流星は記憶から消し去らずに覚えていてくれた。そして流星はその夢を実現してくれた。流星の想いの強さに喉を押し潰されたせいで声が出せず、小鳥は泣きながら頷くことしかできなかった。
『馬鹿、泣くんじゃねぇよ。最後まで気を抜くなって言っただろうが』
『――はい!』
1番機を先頭に4番機を中心とした、ワイドな正五角形の隊形を組んだ小鳥たちは、会場右手方向から進入した。石神のコールを合図に速度250ノットで左へ360度の水平旋回を行う。会場から見て美しく重なるように、基準高度を維持する1・4・6番機に対して2番機がマイナス200フィート、3番機がプラス200フィート、5番機がマイナス300フィートで旋回して、六条の白煙で直径約500メートルの花弁を空に描いていく。
そして松島基地の上空には2年前と同じ「サクラ」が咲き誇っていた。サクラを描いた瞬間、小鳥は松島の空に荒鷹の存在を感じ取っていた。それが幻影だと分かっていたが、確かに小鳥は己が目で見て心で感じたのだ。そしてT‐4に乗った荒鷹の幻影は、小鳥に向けて翼を振ると蒼穹の高みに昇っていった。
(……皆と私を繋いでくれてありがとう。私はずっと、父さんと同じ空を飛び続けるから――)
空に荒鷹の魂が溶けていく。
成層圏を貫き、宇宙の渚を上昇して、星と宇宙の海に還っていく。
でも寂しさも悲しさも感じない。
小鳥たちは同じ空で繋がっているのだから――。

+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。