順番にお話していきたいと思います。
すこし時計の針を戻します。
明治33年(1900年)です。
この年、支那で義和団事件(ぎわだんじけん)が起こりました。
大規模な外国人排斥運動です。
きっかけとなったのは、支那の山東半島のあたりです。
そこはもともと孔子様の出身地で、地元意識がたいへん強いところだったのです。
その山東半島を植民地化したのがドイツです。
ドイツ人は、空き地を開墾して、そこに教会を建てました。
そして宣教師たちがキリスト教の布教をはじめ、近隣の支那人たちにパンを無償で恵みました。
普通に考えると、これは貧しい山東半島にいた支那人たちに、感謝され、歓迎されそうなことです。
ところが、そうはならなかったのです。
「ドイツ人たちは、勝手にやってきて、いつの間にか自分たちの土地を奪い取って、勝手に教会を建てた!」となりました。
支那人の理解では、いまは荒れ地でも、そこは農地なのです。
いまでも支那人たちは、日本にやってくると、勝手に河川敷の堤防を壊してそこに畑を開きます。
猫の額ほどの畑でも、そういう細切れの「隠れ畑」を、いくつも持つことで彼らは食料を得ているのです。
ですから日本人にとっては、国土交通省が管理する河川敷であり、地域住民を水害から守る安全のための堤防であっても、支那人にとっては、そこは「俺の畑」です。
下にある畑の写真は「中国で見つけた珍しい???」というブログから拝借した山東省の農地の写真ですが、このブログの著者は「私も日本の田舎者ですので、自然以外に何もない風景とは妙に落ち着くものです」と書いているのですが、要するに畑がただの自然に見える・・・自然にしか見えないけれど、実はそこが畑・・・というのが、支那の特徴です。
このことは、見渡す限りの田畑、そしてその田畑を大切にしてきた日本人や、広大な田園を経営してきた欧米人とは、実はまったく感覚の異なるところです。

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛びます)ですからドイツ人たちが、ただの荒れ地と思って教会を建てた土地は、支那人にとっては大事な農地であったわけです。
ですからその土地を「奪われた」と感じた支那人農民は、地元の「神拳」と呼ばれる拳法道場と、「太刀会」と呼ばれる剣術道場に、ドイツ人の追い出しを依頼しました。
困った人たちを助けるのが、武術です。
ですから彼らはドイツ人の教会を襲撃しました。
教会というのは、非武装の宗教施設です。
ですから教会に武器はなく、ドイツ人宣教師とその家族しか住んでいません。
そこを黒山のような武術道場の師弟たちが集団で襲撃したわけです。
教会はボロボロに壊され、中にある備品や調度品類は全て奪い去られ、宣教師とその家族は皆殺しにされて、食料にされてしまいます。
こうして白人(ドイツ人)への襲撃が成功すると、この話にオヒレハヒレが付きます。
なにせ白髭三千丈の国です。
ただ非武装の教会を集団で襲撃して暴行を働いただけなのに、その対象がドイツ人であって、殺害され、食べられたのもドイツ人であったことから、彼らは同じ支那人は襲わない、義と和の武術家だということになりました。
そしてさらに、いつの間にか、その義と和の団体である「義和団」の武術を学べば、肉体はドイツ軍の銃弾をも跳ね返し、刀で斬られてても傷一つ負わない強靭な肉体となる、と噂が広まりました。
こうして義和団のもとには、20万人の人たちが集まります。
ちなみに支那では、公表された人数というのは、半値八掛け五割引で勘定するのが常識です。
「水増し」があるのです。
ですから三国志で魏の曹操が80万の大軍を赤壁の戦いに動員した、と書いてあれば、半値八掛け五割引きで、4万人くらいの兵力ということになります。
支那では、「上に政治あり、下に対策あり」ということが常識の国です。
ですからたとえば習近平さんが、国際社会で「サイバーセキュリティの対話をする」と発表すれば、それは半値八掛け五割引きで、要するに「やる気がない」ということだし、ところが下の方では、「やっているフリをする」という対策がとられるという阿吽(あうん)の呼吸があるというのが、支那という国のお国柄です。
問題は、このときに事件の主要な被害者となったドイツ人です。
彼らはこの事件を通じて、支那人の前で非武装でいることが、どれだけ危険なことかを学びます。
これは欧米人に揃った特徴ですが、彼らは、失敗をすれば、それに学びます。
学ぶのが早いのです。
そこが日本と違うところです。
そして彼らは、欧米諸国が他の植民地で成功してきたような、「キリスト教の布教で現地の人々を抱え込む」という戦略が、支那では必ずしも有効でないことを学ぶのです。
そこでドイツがどうしたかというと、支那人との付き合いを、宗教ではなく、武力と商業から入ることにしたのです。
簡単に言うと、ドイツで100円で仕入れた物品を、支那に持っていって200円で売ります。
取引の安全のために、彼らに武器を突きつけます。
とにかく義和団事件の襲撃の際に、鍋や釜まで全部教会から盗んでいったような連中なわけです。
欲は深いし、儲かるとなれば、大喜びで揉み手をしてきます。
しかも見たこともないようなドイツ製のめずらしい産品となれば、それは支那でもそれは飛ぶように売れました。
だから支那人は、200円で買った商品を町で400円で売りました。
当然、売った支那人は大儲けします。
すると、儲けた支那人は、もっと儲けたいから、ドイツ人と友好的な関係を築こうとします。
こうして、義和団事件から100年以上経過したいま、支那に行くと、空港から市内に至るまで、走っているタクシーは、ことごとくワーゲン、産業資本となる工業製品のほとんどがドイツ製となっています。
お金持ちなら、乗る車はベンツかBMW、アウディです。
高級ワインならドイツワイン、高級ソーセージならドイツ・ソーセージです。
ドイツ製のアンティックな小物は大人気です。
つまりドイツは100年前に、支那人を宗教的に教化するのではなく、彼らと商売するという戦略に切り替えたのです。
その結果、支那では「ドイツ人と付き合えば儲かる」という伝説が生まれ、いつしかそれは、支那人にとって、ドイツ人と付き合うことやドイツ製産品を持つことがステータスとなり、蒋介石の国民党も、毛沢東の八路軍も、そして現在の支那共産党政権とも、ドイツとはきわめて良好な関係を保っています。
彼らにとって、ドイツはステータスになったのです。
では、日本はどうでしょうか。
日本が支那に進出したのは、最初は三井物産などの商社でしたから、まさに商業のためでした。
当時の日本は、武器を携帯していたし、日本人は武術が強い。
しかも、義和団事件の後には、締結された北京議定書に基いて、他の西欧諸国と共同歩調で支那に軍隊を派遣していました。
ところが大きく様子が変わったのが、昭和4年(1929年)の世界大恐慌です。
この年の9月6日に値上がりに続く値上がりで、381ドルという史上最高値を付けていたニューヨーク株式市場は、10月19日の暗黒の月曜日に、突然大暴落を喫しました。
わすか一ヶ月余で、平均株価が381ドルから200ドルまで下がったのです。
これを「ニューヨーク株式市場の大暴落」と言います。
株価はその後も上下を繰り返しながら、どんどん値下がりしていき、ついに昭和7年(1932)7月8日には、なんと41ドルという市場最安値を更新しています。
考えてみて下さい。
381ドルあった株価が、41ドルまで、なんと89%も下落したのです。
このことについて、多くの学者さんたちや教科書、あるいは評論家の方々等から、「この株式の大暴落によって世界大恐慌が起こった」という話は、お聞きになられたご記憶をお持ちの方も多いかと思います。
なるほど、この大暴落によって、世界的に不況が襲って、米国でも失業率が25%に及び、4人に1人が失業者になるなど、たいへんな事態が起きています。
その意味では、学者さんや評論家さんの仰ることも、もっともなことです。
ただし、間違ってはいけないのは、経済は、
「損する人がいれば、必ず儲ける人がいる。
儲ける人がいれば、必ず損する人がいる。」
ということです。
経済に、バブルなんかないのです。
なぜなら、必ず、そこには現金(実体経済)が動いているからです。
大暴落の前、ニューヨークの株式市場には、まさに「猫も杓子も」といった感覚で、一般の庶民に至るまで、「株を買えば儲かる」という噂が浸透し、誰もが株を買っていました。
だからこそニューヨークの平均株価は、一直線に高値へと跳ね上がって行きました。
跳ね上がっていったというのは、バブル(泡)ではありません。
株式市場に、株価を押し上げるだけの現金が流れ込んでいたのです。
つまり、総発行株式数が一定のところに、大量の現金が流れこんだのです。
そうなればあたりまえのことですが、総取引金額が増大し、株価が釣り上がります。
つまり、株価の値上がりは、バブル(泡)などでは全然なくて、実体経済そのものです。
ところがその株価が、ある日突然、大暴落を始めました。
ということは、株式市場という貯金箱に入っていたお金が、貯金箱の外に出ていったということです。
つまり、株価が「暴落した分だけ、儲けた連中がいた」のです。
ここは大事なポイントです。

この大暴落が起きた当時の世界にあって、米国はイギリスの田舎であり、イギリスの産業の下請け工場、ないしはイギリスの産業のための一次産業補給所にすぎませんでした。
早い話が、イギリスが、イギリスで仕立ててた高級服地で儲けるための、米国は綿花栽培農地であり、服飾用のボタン製造の下請け工場でしかなかったわけです。
ところが、この株式市場の大暴落によって、それまでの米国の産業は壊滅していきます。
一方で、大暴落によって大儲けたした米国人は、そのあまりにも儲かった資金を利用して、当時もっとも将来性のある新技術であった石油関連製品のプラント建設や、製品開発に全力を注いでいきます。
そして石油のみならず、余剰資金が様々な分野への基礎研究費として遣われるようになりました。
もともと大学の最先端技術研究室というのは、企業と密接な関係を持ちます。
企業側に、使い切れないくらいの潤沢な資金があれば、その資金が基礎研究分野に陸続と投資されるのは自明のことで、これによって、まさに米国はあらゆる分野において、新産業のイニチアシブをとる国家へと成長し、世界の経済、商業、ビジネスのリードオフマンとなっていくわけです。
米国では、株価が下がったあと、長い間株価は横ばいとなりましたが、これが、旧産業が崩壊し、新産業が伸びていく、端境期にあたります。
潰れていく産業と、新しく起こる産業が均衡がとれているから、株価が上がらなかったのだ、というだけのことです。
つまり、産業の新旧の交替期間であったわけです。
ちなみに、日本でも、平成元年(1989年)の大納会(12月29日)に、日経平均株価の終値が史上最高値の3万8,915円87銭を付けたのをピークに、株価が急激に下落し、平成20年(2008年)10月28日には、なんと日経平均株価6.994円という最安値を更新することになりました。
つまり、日経平均株価は、20年で82%も下落したわけです。
では、そこで株式市場にいたお金がどこに消えたかというと、日本人の一般庶民までが猫も杓子もと株を買って、株式市場に流入していた日本人のお金は、残念ながら、かつての米国の株価下落のときのように、国内の新産業確立へと向かうことはなく、すべて外国へと資金が流出していきました。
結果、日本人にとっては、ただ不況が襲っただけで、いまに至るまで、日本人には何のメリットも生み出さずにいるのは、とても残念なことです。
昨今、支那の景気は後退するのではないか、支那共産党は崩壊するのではないかなどと力説する先生方がおいでになりますが、先生方が半ば馬鹿にしているその支那では、すでに日本よりも物の値段が2割ほど高く、環境汚染の問題など、様々な問題を抱えながらも、経済にのみ限って言えば、日本よりもはるかに発展し、進んだ状況にあります。
支那では買い物に現金は持ち歩きません。
すべてカードで支払い・・・ではありません。
すべてスマホで支払いです。
すでにそこまで進んでいます。
日本が都会で、支那が田舎というのは、昭和の終わり頃の昔のイメージでしかありません。
いまでは、支那が都会で、日本はさびれた田舎なのです。
時代は変わるのです。
まごまごしていたら、どんどん取り残されていくし、さびれていくし、国民は貧乏になっていくのです。
さて、歴史の話に戻します。
ドイツが商業で支那における地敷を固めていったということを冒頭にお話しました。
この場合、ドイツ人にとっては、支那人は「お客様」ですから、当然、取引先として支那人を大事にします。
ただし、ドイツ人は、実際に食べられたという経験を持っていますから、ちゃんと武装し、武器を突きつけて彼らと交渉をしました。
すると、支那人の目からは、ドイツ人の持つ最新式銃は、垂涎の的になります。
ですから国民党も、ドイツに軍事指導を依頼し、また装備もドイツ式を採用することになりました。
昭和7年(1932年)の第二次上海事変当時、支那国民党軍が、ドイツ式の最新装備で身を固めていたのはよく知られたことですが、その背景には、このような事情があったわけです。
その一方で、日本人は、たいへん規律正しいし、支那人のために献身的に努力をしたし、支那人にやさしかったし、日本軍がいるところでの支那の治安は極めて良好に保たれていました。
しかし当時支那にいた日本軍および日本人に対して、支那人がどのように評価していたかについては、昨今では、両極端の意見しか耳にすることができません。
それはひとつは、日本軍は大陸で善政を施していたし、日本人は嫌われてなどいなかったというものですし、ひとつは、日本軍は蛇蝎のごとく嫌われ、日本人はとても嫌われていたというものです。
なぜか両極端であって、どっちが本当なのか、まったくわからなくさせられてしまっています。
けれど両方真実です。
初期の頃の日本人、つまり、義和団事件のあった明治の終わり頃から大正期にかけての日本人は、民間人は大陸で商売をする人たちであり、軍隊は大陸の治安を諸外国とともに守る人たちでした。
日本軍の規律は正しく、日本軍のいるところでは、犯罪も起きず、支那人たちは安心して暮らすことができたし、日本人の民間人は、ビジネスにやってきていて、それは日本の物産の販売であったり、逆に支那の物産品を輸入のために買ってくれる人たちでした。
ですから、日本人民間人にとって支那人はお客様でしたし、支那人にとっても日本人はお客様です。
対立関係ではなく、協調関係が築かれました。
ところが昭和4年(1929年)の世界大恐慌のあと、日本にも世界的な不況の波が押し寄せました。
とりわけ東北方面は、大豊作で農産物価格が激落ちしたかと思ったら、翌年には冷害で作物が育たず、さらに大規模な津波被害によって、田畑そのものがやられてしまうという、たいへんな事態になりました。
娘の身売りが大規模に行われたり、農村部の子供たちの学校のお弁当が、ご飯ではなくて、ダイコン一本のまるかじりであったりしたのは、有名な話です。
当然、「これではもう食っていくことができない」ということになりますから、農家から大陸へと渡る人たちがこの時期以降、激増しました。
彼らは、支那、満洲の大陸に、商業に行くのではありません。
荒れ地を開墾し、何もなかった荒れ地を農地に改良して、そこで作物を作ったわけです。
しかし、我々日本人からみたら、ただの荒れ地でも、そこは支那人にとっては、「俺の畑」なのです。
日本人は、労働力に現地の支那人を雇いました。
あまり働くことを知らない人たちには、ときに、怒鳴りつけたり、頬を叩いたりすることもしばしばありましたが、それらは、職人気質で仕事をする日本人にとっては、あたりまえの習慣でした。
このことは、支那人からみると、
「日本人は威張ってる」となりました。
もちろん日本人の言うことを聞いて働けば、食べ物も豊富になるし、誰もが豊かになります。
ところが豊かになればなったで、
「あの土地はもともと俺の土地だったのだ、利益は全部日本人が持っていってしまう」となるのです。
身勝手といえばそれまでですが、それが支那人です。
荒れ地でこっそり農業をしていたものが、堂々と大規模に農業ができるようになれば、それは莫大な富を生みます。
それならば、いまその農地を支配している人たちを殺して奪えば、奪った者はお金持ちになれるのです。
実に簡単な理屈です。
奪うためには、これまた支那の司馬遷の『史記』以来の伝統で、「いま、そこを治めている者がろくでなしである」ということにならなくてはなりません。
ですから、日本人は、あらゆる悪行を行う悪の権化なのだと、これまたオヒレハヒレがついて情報が拡散されます。
すると、それを信じる者も現れる。
その信じる者が徒党を組む。
その徒党が武器を持ったら、それが支那における軍隊です。
支那では、軍と暴徒とヤクザは同じものです。
もともと、商業を示す「商」という言葉は、支那の妲己と紂王(だっきとちゅうおう)の時代の殷王朝が、周によって滅ぼされたときに、その殷の遺臣たちが国を失って行商をして歩いたことに由来します。
その行商をしている殷の遺臣たちのことを「商」と呼んだのです。
以来、支那では何度となく易姓革命で王朝が変わりましたし、その王朝の多くは異民族による植民地支配王朝でしたが、支那人たちは、そんな外来王朝のもとで、商業中心の民族を形成していったわけです。
なにしろ、農地で作物を育てても、その作物を収穫すると、役人が来て、できた作物を全部持っていってしまう。
なんとか自分の家の分を隠しておいても、役人の後にはヤクザがやってきて、それもまた全部持っていってしまう。
支那社会の下層では、猫の額ほどの土地があれば、それが誰の土地であるかなど一向にお構いなく、勝手にそこで作物を育てて、収穫期の直前に全部それらを刈り取って、作物を持って逃げるしか生きるすべがなかったわけです。
ですから支那では、税制も年貢ではなく、通行税でした。
作物を持って逃げてきた人たちでも、人は水がなければ死んでしまいますから、井戸のある城塞都市では、作物を持ち、水を求めてやってきた流民に通行税を貸して税金を取り立てるのが、もっとも効率的だったのです。
そのような土地柄、民族性ですから、ドイツが彼らと商業中心のお付き合いという選択をしたことは、たいへんに賢明なことでした。
これは利害がピッタリ一致したのです。
また、日清戦争以降、東洋の一等国となった日本が、彼らとの間で商業と治安維持を中核としておつきあいをしたことも、賢明なことでした。
ドイツと同じで、利害が一致したからです。
ところが、世界恐慌以降の日本人は、その支那に、農業で入植しました。
しかも当時の日本国内では、政党の国会議員たちは、選挙に受かるために、何事も地元優先の思考しか持っていません。
海を隔てた外地での出来事など、何の票にもならないことですから、関係なかったのです。
たとえば満洲では、匪賊だけで36万人です。
なんと36万人が、仕事もしないで武装して、ただ奪うだけで生活していたのです。
逆にいえば、満洲は、36万人の匪賊が、仕事もせずに、ただ遊んでいても食っていけれるだけの豊かさがあったのです。
その36万人の匪賊達によって、農地が荒らされ、鉄道が年間30万件も壊され、次々と貴重な邦人の人命が奪われていたときに、日本の議会政府が満洲にどれだけの軍を派遣したかといえば、広い満洲全土に旅団ひとつ、たったの1万2千です。護れるわけがありません。
要するに簡単に言えば、票にならないけれど、世論があるから、申し訳に派兵しただけです。
本気で匪賊退治をしようとするなら、満洲などは五族協和の国なのですから、いまのソマリア沖海賊対策と同じで、周辺国と多国籍軍を編成して、匪賊の大掃討作戦を展開することも、当時の日本にはできたのです。
なにしろ当時の日本は、国連(国際連盟)の安全保障理事国です。
そういうことをまったくしようとしなかったのみならず、リットン調査団以降、国際連盟を脱退するという、むしろ日本の立場を悪くする選択をしています。
何のためか。
その方が国内票になるからです。
数は少ないとはいっても、軍隊は軍隊です。
日本の軍隊は規律正しく、軍人さんたちも人が良いです。
ところが日本では、軍隊は上からの命令で動きます。
命令がないのに動くことはできません。
ただでさえ人数が少ないのです。
命令もないのに、余計なことには関わりたくない。
ですから、派遣先の地元で紛争があって、日本軍に援助を求めても、日本軍は動きません。
命令がないし、国内政治は、国外での紛争よりも、内地の票にしか関心がない。
だから、日本軍に出動命令は出ません。
現地にいる日本の軍人さんたちは、「腰の軍刀は竹光か!」とまで罵られても、黙ってうつむくほかはない。
こうなれば、支那人の側から見れば、「日本人は土地は奪うし威張るけれど、いざというときにはまったく頼りにならない」と思われるのは当然の成り行きです。
支那人にとって、相手が「良いひと」であるかどうかは、一切関係ないのです。
儲かるか儲からないか、いざというとき頼りになるかならないか、だけしか問題にならないのです。
ドイツ人は、最初から銃を突きつけました。
言うことを聞かなければ、すぐに発砲します。支那人の命など、なんとも思っていない。
けれどドイツ人と付き合うと、支那人は儲かるのです。
しかも取引の安全は、銃によって守られます。
そしてドイツ人は、商売にのみ関心があって、支那人の土地に手を付けることをしません。
そうなると支那人にとってのイメージは、「ドイツ人は怖いけれど、ドイツ人と付き合うと儲かる。ドイツ人との取引は、コチラが不法なことをしない限り安全」ということになります。
100年経った今でも、ドイツが人気があるわけです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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