第9話 初出勤は緊張します

 時刻は朝の光が差し始める午前6時。身支度を整えて内務班を出た晴花は、配属先の広報班が入る庁舎ではなく、第11飛行隊隊舎に向かっていた。通常は配属先の部署に出勤して、各出入り口の解錠や事務室の清掃を済ませておくのだが、朝一番に行うモーニングレポートと、飛行前の打ち合わせの様子を取材するため、直接ブルーインパルスの隊舎に行くよう安藤2佐に言われていたので、晴花は内務班からブルーインパルスの隊舎に直行したのである。


 裏の通用口から第11飛行隊隊舎に入った晴花は、階段で二階に上がり左に曲がって廊下を進む。飛行前と飛行後に集合して、飛行計画を打ち合わせるプリブリーフィングや、フライトの評価や反省をするデブリーフィングを行う、ブリーフィングルームのドアが見えてきた。ドアをノックをすると中から「どうぞー」と緩い声が返ってきた。部屋に入る前に最終確認だ。服装よし、ノートよし、三色ボールペンよし! 「入ります!」と言って晴花はドアノブを回した。


「おはようございます!」


「おはようございます。僕たちの記事を書いてくれるっていう広報班の人ですよね? 今日はよろしくお願いしますね」


 晴花に物腰柔らかく挨拶したのは、部屋の掃除をしていた男性隊員だった。彼は3番機パイロットの因幡晃祐いなばこうすけ2等空尉で、タックネームは因幡の白兎から取ったラビットだ。


 年齢は20代後半だったはずだが、小柄で童顔なのでもっと若く見える。パイロットスーツを着ていなければ、高校生に間違われるかもしれないだろう。因幡2尉と会話していると、二人目の隊員がブリーフィングルームに入ってきたので、晴花は回れ右をして出入り口のほうを振り向いた。


「おはようございます! 広報班の桜木晴花3等空曹であります! 今日はよろしくお願いしま――」


 振り向いた晴花は蛇と遭遇した蛙のように硬直した。晴花の次にブリーフィングルームに入ってきたのは、なんと青井七星1等空尉だったのだ。晴花を見やった青井七星1等空尉は、迷惑だと言わんばかりに端正な顔を顰めた。


「……朝っぱらからうるさい女だな。選挙活動中の議員かよ、鬱陶しいぜまったく」


 礼儀の欠片もない無礼な態度に腹を立てた晴花は、窓際の席に座ろうとした七星に詰め寄ると、20センチは背の高い彼を見上げた。晴花に睨まれた七星はさらに顔を顰めた。


「なんなんですかその言い方は! わたしは普通に挨拶をしただけです!」


「俺はうるさいからうるさいって言っただけだ。だいたい3等空曹の分際で、1等空尉の俺に口答えするんじゃねぇよ」


「なっ――! 階級が上だからって、言っていいことと悪いことがあります! それに幹部自衛官は人の上に立つ人でしょう!? そんな態度じゃ誰もついてこないし尊敬されませんよ!」


「なんだとっ!?」


「なんだとはなんですかっ!」


 晴花と七星は見えない火花を散らしながら睨み合う。ここはどちらか一方が謝れば丸く収まるのだが、相手より先に謝りたくない! という子供じみた気持ちが強かったので、晴花と七星はひたすら睨み合いを続けた。――先に謝ったほうが負ける。そんな心理状態に二人はなっていたのだ。


「よお、青井。朝っぱらから夫婦喧嘩か?」


 突然響いたちょっと甘いハスキーボイスが、火花散る晴花と七星の睨み合いを終わらせた。視線を動かした晴花は出入り口を見やる。すると三人目の男性隊員がにやにやしながら立っていた。晴花も七星も睨み合いに集中していたから、彼が来たことに気がつかなかったようだ。


 ハスキーボイスの隊員に、「馬鹿を言わないでください」と返した七星は、席に座ると腕と脚を組んでそっぽを向いた。しばらくすると、残りの飛行班の隊員に総括班と気象班の隊員がやって来て、ブルーインパルスのモーニングレポートが始まった。


 まずは気象班による天気予報にはじまり、その日の留意事項を確認する。その傍らでホワイトボードに飛行計画を書いたり、他部隊と連絡を取ったりと、忙しく動き回っているのは総括班の隊員だ。


 全員が真剣な表情をしている。昨夜どんちゃん騒ぎをしていた人たちと同一人物とは思えない。モーニングレポートが終わると、飛行班のプリブリーフィングが開かれた。この日のファーストフライトはフィールドアクロ訓練、セカンドフライトとサードフライトはともに洋上アクロ訓練に決まった。


「あのぉ……質問してもよろしいでしょうか?」


「――質問、だと?」


 おずおずと手を上げた晴花を一人の男性隊員が睨みつけた。第11飛行隊を統率する飛行隊長で、タックネームは「タイガー」の、1番機パイロットの相模泰我さがみたいが2等空佐だ。居酒屋に早く着いてしまった晴花を出迎えてくれた人でもある。相模2佐に睨まれた晴花は、この場から逃げ出したい衝動に駆られたが、頑張って口を開いた。


「フィールドアクロと洋上アクロって、どう違うんですか?」


 晴花が質問すると相模2佐は面倒くさそうに嘆息した。


「スター、あとで広報班のお嬢ちゃんにいろいろ教えてやれ」


「――はい?」


 相模2佐に「スター」と呼ばれて反応したのは七星だった。どうやら七星のタックネームはスターというらしい。それにしてもブルーインパルスのスターとは、先輩パイロットから「カッコよすぎだろ!」と、ブーイングが出そうなタックネームである。相模2佐にご指名された七星は心底嫌そうな顔をしていた。


「ちょっと待ってください。どうして俺なんです。因幡にやらせたらいいじゃないですか」


「どうしてって、5番機パイロットのおまえはブルーの広報幹部だろうが。いいか、これは隊長命令だからな。逆らうことは許さんぞ」


 「復唱よろしく」と言った相模2佐が、ミーティングテーブルの上に右手を置いた。続いて残りの隊員たちが同じように右手を置く。彼らの右手は操縦桿を握っているような形になっている。


「ワン、スモーク! スモーク! ボントン・ロール! ワン、スモーク! ボントン・ロール! スモーク! ナウ! (スモークをオン! スモークをオフ! ボントン・ロールの隊形に開け! スモークをオン! ボントン・ロール用意! スモークをオフ! ロールせよ!)」


 相模2佐に続いて復唱した七星たちは、最後の「ナウ!」の掛け声に合わせて右手首を倒した。気持ちがいいくらいに、全員の動きはぴったり合っていた。前にテレビで見たことがある。これはボントン・ロールのスティック操作とスモーク合わせ。全員の呼吸を合わせるために毎日行っているのだ。


「――ぶふふっ!」


 静かになったブリーフィングルームに晴花の失笑がよく響いた。笑うつもりはなかった。だが双子の姉妹が防虫剤を持って歌うコマーシャル映像と、右手を倒しながらスティック操作をする彼らの姿が重なり合ってしまい、晴花は吹き出してしまったのである。


「……おい、今笑ったのはどいつだ?」


 ドスの利いた低い声が空気を震わした。こいつです隊長というふうに、七星たちの視線が晴花に突き刺さる。続いて相模2佐も晴花のほうに視線を動かした。晴花のほうを向いた相模2佐は、殺意の波動を迸らせていた。


「広報班のお嬢ちゃん、笑うなんてどういうつもりだ? 最後のスティック操作とスモーク合わせはな、ブルーにとって大事な仕来りなんだよ。全員の呼吸が合って初めて、俺たちは精密なアクロバット飛行ができるんだ。今日は許してやる。……ただし今度ふざけた真似をしたら、出禁にするからな。覚悟しておけよ」


「はっ、はいっ! すみませんでした!」


 頭を下げた晴花を一瞥した相模2佐は、席を立つとブリーフィングルームから出て行った。続いて七星たちも順番に退室していく。ノートを抱えた晴花も急いで彼らのあとを追いかけた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

応援した人

応援すると応援コメントも書けます

ドルフィンガール! 蒼井マリル @maril

フォロー

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のタグ

このたびはご訪問くださりありがとうございます。戦闘機・ミリタリー(主に空関係)・航空自衛隊・ブルーインパルスが大好きな蒼井マリルと申します。 主に書いているのは航空自衛隊を題材にした、真っ直ぐで純…もっと見る

近況ノート

もっと見る

ビューワー設定

文字サイズ

背景色

フォント

一部のAndroid端末では
フォント設定が反映されません。

応援の気持ちを届けよう

カクヨムに登録すると作者に思いを届けられます。ぜひ応援してください。

新規ユーザー登録無料