ジャンプの表紙に関する議論が主にツイッターでなされています。
この件に関して、私も何度か記事を書こうと思いはしたのですが、書きかけてはやめるということを繰り返しています。
というのも、ここで問題になっている議論というのは私が過去に記事で指摘したことのちょっとしたパターン違いなだけなんですよね。要するにゾーニングと表現者の姿勢の問題につきます。
オタクが「ポリコレ」を理解する前にわかっておくべき前提
ポリティカル・コレクトネス(PC)とは何か
フェミニズムにおける「まなざし」と批判の要点
『のうりん』ポスターが批判を呼んだわけ 基本の論点の整理
碧志摩メグは結局何が問題だったのか
ブログなので同じことを繰り返し記事をアップデートしていくのも大切なのですが、忙しい折に「これ」では書く気もそがれるというわけで。
今回は何が問題か
一言でいえば、「意図的がどうかにかかわらず女性が被害を受け、それを肯定的に書いている」ことが問題視されています。表現媒体が全年齢の少年誌で、かつ巻頭カラーなのがドラになっているという感じです。
置いてきぼりを食らう反表現規制派の反論
要するに、今回の件の批判者の主張は「少年誌にふさわしくない」と「このような構造の表現は好ましくない」の2点に大別できます。そしてこれへの真っ当な反応としては表現媒体や販売場所の適不適に関する議論か、どこまでの表現なら現状の媒体で可能かといった議論しかありえません。しかし、いわゆる表現規制反対派と分類される人々の反応はまるで人の話を聞いていないようなものばかりで、議論以前の問題です。
批判者はエロだから批判しているのか?そういうわけではありません。
子供の健全育成の問題?反対派は「エロを取り上げるほうがかえっておかしくなる」という根拠不明のエピソードしか示せていません。彼らに適切な性教育を支持する姿勢がないならば、せめて誤った情報を排することで悪影響を取り除こうと考える人が出るのも当然です。
漫画に悪影響がない?その根拠は?そもそも悪影響を定義しないまま論じようというのが噴飯ものです。人に影響がないならば漫画は何ですか、インクの染みですか?
このような議論は私の知る限り表現規制反対論の中核をなし、その状況はここ10年変化がありません。これはある意味当然です。批判者はそんなことを言っているわけではないのですから。囲碁の上達のために将棋を指すようなものです。
表現規制反対派は現実認識もままならない
このようなエロに批判をするフェミニストはエロを憎んでいて、あわよくば規制してやろうとしている。これは反対派の大多数を占める認識ですが、この認識には正しい部分がどこも含まれていません。反対派は現実認識もできないほど絶望的な状態に陥っています。
フェミニストが彼らの言うところのエロを批判するのは、主に女性の軽視、蔑視、搾取、モノ化といったことを肯定し助長すると認識しているからです。フェミニストがエロを憎んでいるように彼らに見えるのは、彼らの認識するエロが女性を独立した人物としてみなさないものであるからです。その前提をクリアするのであれば、むしろ女性の独立の証として肯定するフェミニストも大勢います。
また規制を進めようとしているのはフェミニストではありません。第一日本国内のフェミニストはそこまでの政治権力を持ち得ていません。日本において議会の多数派はほとんどの場合右派(というか極右)が占めており、規制も彼らの手によるものです。
石原慎太郎は反対派の目の敵にされていますが、彼と通底する考えを持つ、とりわけ自民党の議員にはむしろ親しみを覚えるという意味不明な認知がなされています。とりわけ表現規制にむしろ肯定的な麻生太郎を「俺たちの麻生」ばりに支持する様には肉屋を崇める豚を見るようで涙を禁じえません。ビックブラザーもうらやむダブルシンクです。それでいて規制に反対した民進党や共産党は憎むのですから、「完璧」と言わざるを得ません。
現実すらまともに認識できない「反対運動」には発展も望めず、規制を防ぐ力もありません。今後表現への規制が厳しくなっても当然の帰結ですが、せめてその愚かさにはこちらを巻き込まないでいただきたいものです。
この件に関して、私も何度か記事を書こうと思いはしたのですが、書きかけてはやめるということを繰り返しています。
というのも、ここで問題になっている議論というのは私が過去に記事で指摘したことのちょっとしたパターン違いなだけなんですよね。要するにゾーニングと表現者の姿勢の問題につきます。
オタクが「ポリコレ」を理解する前にわかっておくべき前提
ポリティカル・コレクトネス(PC)とは何か
フェミニズムにおける「まなざし」と批判の要点
『のうりん』ポスターが批判を呼んだわけ 基本の論点の整理
碧志摩メグは結局何が問題だったのか
ブログなので同じことを繰り返し記事をアップデートしていくのも大切なのですが、忙しい折に「これ」では書く気もそがれるというわけで。
今回は何が問題か
一言でいえば、「意図的がどうかにかかわらず女性が被害を受け、それを肯定的に書いている」ことが問題視されています。表現媒体が全年齢の少年誌で、かつ巻頭カラーなのがドラになっているという感じです。
批判派の中には、件の扉絵を、単なるエロの問題として批判しているというよりセクハラや性暴力の観点から批判している人が散見される。弁護士の手による、あの表紙がセクハラかどうかという議論もありましたがこれにはあまり意味はないでしょう。法的に見れば当然セクハラではないのですが、問題はそこではないので。
女性キャラがその意に反して服を脱がされているからセクハラだ、というのである。
これは無理のある議論だと思う。
(中略)
しかし、女性キャラの服を脱がせたりスカートをめくったりしているのは作者であって、作中人物ではない。
そして、スカートめくり描写などと異なり、この「作中人物がセクハラをしているわけではない」という点において、ラッキースケベ描写をセクハラ描写とみなすのは困難だと思う。
なぜならば、虚構作品の作者は、エロに限らず作者の都合で偶然の出来事をいろいろ起こし、それによって作中人物を苦しめたりもする。
「ラッキースケベ」はセクハラ描写といえるか-弁護士三浦義隆のブログ
置いてきぼりを食らう反表現規制派の反論
要するに、今回の件の批判者の主張は「少年誌にふさわしくない」と「このような構造の表現は好ましくない」の2点に大別できます。そしてこれへの真っ当な反応としては表現媒体や販売場所の適不適に関する議論か、どこまでの表現なら現状の媒体で可能かといった議論しかありえません。しかし、いわゆる表現規制反対派と分類される人々の反応はまるで人の話を聞いていないようなものばかりで、議論以前の問題です。
批判者はエロだから批判しているのか?そういうわけではありません。
子供の健全育成の問題?反対派は「エロを取り上げるほうがかえっておかしくなる」という根拠不明のエピソードしか示せていません。彼らに適切な性教育を支持する姿勢がないならば、せめて誤った情報を排することで悪影響を取り除こうと考える人が出るのも当然です。
漫画に悪影響がない?その根拠は?そもそも悪影響を定義しないまま論じようというのが噴飯ものです。人に影響がないならば漫画は何ですか、インクの染みですか?
このような議論は私の知る限り表現規制反対論の中核をなし、その状況はここ10年変化がありません。これはある意味当然です。批判者はそんなことを言っているわけではないのですから。囲碁の上達のために将棋を指すようなものです。
表現規制反対派は現実認識もままならない
このようなエロに批判をするフェミニストはエロを憎んでいて、あわよくば規制してやろうとしている。これは反対派の大多数を占める認識ですが、この認識には正しい部分がどこも含まれていません。反対派は現実認識もできないほど絶望的な状態に陥っています。
フェミニストが彼らの言うところのエロを批判するのは、主に女性の軽視、蔑視、搾取、モノ化といったことを肯定し助長すると認識しているからです。フェミニストがエロを憎んでいるように彼らに見えるのは、彼らの認識するエロが女性を独立した人物としてみなさないものであるからです。その前提をクリアするのであれば、むしろ女性の独立の証として肯定するフェミニストも大勢います。
また規制を進めようとしているのはフェミニストではありません。第一日本国内のフェミニストはそこまでの政治権力を持ち得ていません。日本において議会の多数派はほとんどの場合右派(というか極右)が占めており、規制も彼らの手によるものです。
石原慎太郎は反対派の目の敵にされていますが、彼と通底する考えを持つ、とりわけ自民党の議員にはむしろ親しみを覚えるという意味不明な認知がなされています。とりわけ表現規制にむしろ肯定的な麻生太郎を「俺たちの麻生」ばりに支持する様には肉屋を崇める豚を見るようで涙を禁じえません。ビックブラザーもうらやむダブルシンクです。それでいて規制に反対した民進党や共産党は憎むのですから、「完璧」と言わざるを得ません。
現実すらまともに認識できない「反対運動」には発展も望めず、規制を防ぐ力もありません。今後表現への規制が厳しくなっても当然の帰結ですが、せめてその愚かさにはこちらを巻き込まないでいただきたいものです。