好きなゲームをクソゲーと言われ悔しくて作家デビューした人物の“ゲームSF小説”を読み解く
ゲームの楽しさとはいったいなんなのか?
ゲームが好きであろう読者に問うが、あなたは自分の好きなゲームをけなされて怒りを覚えたことがあるだろうか? 通販サイトのレビュー欄、良心的ではないまとめサイトやそのコメント欄、心ない人の書き込み……。誰もが情報を発信できるネットの時代になって、そういった経験をしたことのある人はより多くなったのではなかろうか。
幼少のころ、父親に買ってもらったゲームが雑誌でけなされているのを知り、その反骨心から結果的に小説家になった人物がいる。その人が書いた小説の名前は「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」。表向きには“未来のゲームをレビューするSF小説”ということになっているが、その実は“未来のゲームに対してつけられるであろう低評価を、著者が今の段階で否定しておく”という狂気とも言える内容なのである。つまり、幼いころの低評価を許せないという気持ちが続き、小説にすらなったのだ。
一見するととんでもない話だが、その内容は見事なものだ。筆者のゲームに対する深い造詣、科学技術や宗教など幅広い対象に対する興味、そしてゲームへの真摯な姿勢が作品を立派なものに仕上げている。今回のコラムでは、その見所を紹介するとともに物語の奥に潜む恐ろしくも魅力的なゲームの世界を解説しよう。
なお、本稿はあくまで「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」を紹介するコラムである。本来はレビューにしようと考えていたが、それはレビューのレビューになってしまうこと、そして本稿を書いた私が「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」の著者と付き合いがあることを考慮しコラムという形にした。
“未来の低評価ゲームをレビューするSF小説”とは
「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」は赤野工作という人物が小説投稿サイト「カクヨム」で連載している作品である。舞台は2115年4月、未来の赤野工作が書いているWebサイトという設定になっており、2020年代~2090年代あたりのレトロゲームについて文章でレビューするというものである。つまり、我々から見ると未来のゲームについて語っているSF小説ということになるわけだ。本作は全42回構成になっており、その前半となる第21回まで収録された書籍が2017年6月30日に発売されている。
未来のゲームというと、ゲーム雑誌「週刊ファミ通」などで連載されていた渡辺浩弐の「ゲーム・キッズ」シリーズを思い出す人も多いかもしれないが、あちらはあくまでショート・ショートである。題材や思想的な近さはあるものの、内容としてはかなりの差が存在する。
むしろ本作は、ポーランドのSF作家であるスタニスワフ・レムが1971年に発表した「完全な真空」に近い。「完全な真空」は“架空の書籍に対する書評をまとめた小説”であり、人間が性的な欲求を失ってしまった世界を描く「性爆発(セックスプロージョン)」や、高度な電子頭脳が運命をすべて決める世界で人間たちの自由が試される「ビーイング株式会社」といった物語に対する批評が載っている。改めて言うが、そんな作品はスタニスワフ・レムの脳内以外のどこにも存在しない。
小説というものは架空の存在について書きやすい媒体だというのに、なぜ「完全な真空」や「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」は架空のものをレビューするという回りくどいことをしたのか? 無論、これらの作品に出てくる架空の作品は作者が完全な形にできない(もしくはできなかった)草案でもあるのだろうが、やはり作品の周囲にあるものこそを描きたいがためにこのような手法を取ったのだろう。
では、「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」に収録されている“未来のゲーム”をいくつか紹介しよう。まずは表紙にも大きく描かれている“孤独なゲーマーたちとゲームで遊んでくれるアンドロイド”「アカシア(Acacia)」。ゲーム依存症を治すために作られ“ゲームの真実”を明らかにしてしまったFPS「진실게임(チンシルケイム)」。なぜわざわざゲームで苦痛を味わう必要があるのかと非難されたもののインドで大規模なeスポーツ大会が開かれたファイティングコンバットゲーム「C9H13NO3(アドレナリン)」。そしてスーパーハッピー星のウルトラハッピー共和国に住む主人公が超ハッピーハッピー軍団と戦うアメージング・ワンダフル・ハッピー・ハッピー・ストーリーが展開されるアクションアドベンチャー「حقيقة غير مريحة(ハキーカ・ジール・ムリハ)」……。
どのタイトルもゲームニュースサイトで報じられればバズること間違いなしのぶっ飛んだ作品群である。このほかにも、進歩したVR(バーチャルリアリティ)やAR(拡張現実)はもちろん、サイバネティクス、人工知能、4Dプリンター、ゲノム編集など、どれも今の我々には手の届かない技術が用いられたゲームが登場する。そもそもこの2115年の世界では脳信号で機械を操ったり意思疎通をするブレイン・マシン・インタフェースが当たり前になっていたりするのだ。まさしく未来を覗き込んでいるかのような作品群になっている。
しかし、本作で取り上げられているこれらゲームはすべて世間から低評価を受けた作品である。つまるところ、心ない人が「クソゲー」と呼んでしまうようなものなのだ。そこで作中の赤野工作はこれらゲームを再評価しようと2115年の未来に改めてレビューを行う。本作はただ単に未来のゲームに思いを馳せるだけでなく、なぜその評価に至ったのかという文脈・時代背景を描き、対象が持つ価値の再発見を行うわけであり、そのためにゲームレビューSF小説という形を取っているのだ。まさしく前述のように、“未来のゲームに対してつけられるであろう低評価を、著者が今の段階で否定しておく”という本なのである。
未来のゲームはどこからどう思いつくのか
ここまで聞いて「なぜそんな未来の低評価ゲームを思いつくのか」と疑問に思う人も多いことだろう。答えは非常にシンプルで、赤野工作という人物は常に低評価ゲームを追い求め続けており、そこから作品に関するアイデアを得ているようなのだ。
たとえば、ゲーマーと一緒にゲームを遊んでくれるアンドロイド「アカシア」は、スクウェア・エニックスのアーケードゲーム「スクール オブ ラグナロク」を遊んでいる時に思いついたと彼は話していた。あまりにも人気がなく誰ともマッチングしない本作を遊んでいる時に、こういったゲームを一緒に遊んでくれるアンドロイドがいてくれれば……と思わずにいられなかったそうだ。
そして、“ゲームの真実”を明らかにしてしまったFPS「진실게임(チンシルケイム)」は、Xbox 360のインディーゲームマーケット「Xbox LIVE Indie Games」に存在した「Block Fight!!」という作品が元ネタであるという。「Block Fight!!」は赤と黒のブロックをぶつけて争う対戦ゲームだが、ブロックは縦か横のどちらかにしか動かないし、対戦ゲームなのにひとりでしかプレイできず、ひとりで延々と稼ぎ続けるだけのスコアもスティックを押し込むと急激な勢いで減り、それによりまったく意味のわからないSpeedというカウントが1増えるという理解不能な作品だ。ごく一部でその奇妙さが話題になったのだが、それを見て制作者が1ドルから5ドルに値上げしたあたりも伝説的なゲームである。この「ゲームとは一体なんなのか?」と思わせる作品から“ゲームの真実”を描く架空のゲームタイトルを思いついたという。
苦痛を楽しむファイティングゲーム「C9H13NO3(アドレナリン)」に至ってはもっと直接的だ。そもそもゲームプレイ時に電気を流す周辺機器「MindwireV5」というものが存在しているのだから。
これが、「身体にダメージを与える事でよりリアルなゲーム体験を演出するゲーム機」、MindwireV5だ。 pic.twitter.com/lsv2f18Y0z
— 模範的工作員同志/赤野工作 (@KgPravda) May 28, 2016
身体に電流を流すゲーム機、MindWireV5の説明書。「ここに電流を流すと人体に危険なのでやめてください」と書いてあって、遊ぶ前から痺れさせてくれやがる。 pic.twitter.com/ccD5QlzCHX
— 模範的工作員同志/赤野工作 (@KgPravda) May 28, 2016
ハッピーだらけのアクションアドベンチャー「حقيقة غير مريحة(ハキーカ・ジール・ムリハ)」については元の題材を紹介してしまうとオチがバレてしまうため、あえて言及を避けるが、海外のゲーム事情に詳しいゲーマーはこの本を読めばすぐにピンと来るだろう。ヒントは足の裏にかけられているモザイクだ。
赤野工作は常にゲームばかり遊び、ゲームのことばかりを考えているからこそ、こういう作品を書くことができるのだ。無論、科学技術や宗教など幅広い対象に対する造詣の深さもかなりのものだが、それでもやはり彼はどこまで行ってもゲーマーなのである。
赤野工作という存在について
そもそも赤野工作が低評価ゲームを追い求め続けるようになったのは、最初に書いたように父親に買ってもらった大好きなゲームをとある雑誌でけなされたことが大きいようである。そのことは「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」の中でも何度か語られている。
「世間に文句を言われても自分が面白いと思ったゲームは、面白い」という信念を持つことになった少年は、成長したのちにニコニコ生放送でゲームレビュー配信を行うことになる(その際は模範的工作員同志という名義で活動している)。
ここでも世間一般的に低評価になったゲームを取り上げ、そのゲームが実は面白いということを伝えているのだが、やっていることはやはりとんでもない。海外で有名なゲームレビュワー「The Angry Video Game Nerd」にバカにされまくったお絵かきソフト「LJN Video Art」で般若心経を写経して楽しんだり、制作者ですらエンディングがどうなっているか知らない「One Million Taps」というゲームで100万回Aボタンを連打したり(ちなみにエンディングは作っていないので存在すらしていなかったうえ、そもそもこれはボタンを押した数をカウントするだけのソフトで100万回という数字になんら意味はなかった)……。赤野工作が只者ではないということはわかってもらえるだろうか。
赤野工作はゲームコレクターでもあるため、低評価ゲームを追い求めて世界各地を旅していることも多い。私が知る限りではアメリカ・台湾・中国などに行っており、北京を旅行した際の話については、漫画家・まがりひろあきの描いた同人誌「まがり堂出張かわら版 第肆號」に詳しく描かれている。
ある時は、ニューメキシコ州のアラモゴードにゴミとして埋められていたATARI 2600の「E.T」をオークションで買い母親に「ゴミを買うな」と怒られ、中国で“国辱”と呼ばれているMS-DOSソフト「血獅」に対し数十万を支払い箱・説明書付きのものを買ったり、ブラジル料理屋の店員に頼んで新型メガドライブを輸入してもらったり……。こんなことをすんなりしてしまうのが赤野工作という人物なのだ。そもそもの話、彼の生き様自体が面白いのである。
とにかく赤野工作の周囲には面白いことだらけだが、これはおそらく戦略のうちである。というのも赤野は、“既に低評価がついてしまったゲームの評価を覆すこと”が一筋縄でいかないことを理解しているのだ。
自分が好きなゲームを世間一般からクソゲーと言われてしまった場合、どうすればいいのか? まずは反論することを思いつくだろうが、正直なところそれにあまり意味はない。論破してもそれは相手の論理をくじくだけに過ぎないし、下手をすればむしろ反感を買うだけになる。そもそもゲームへの悪評を否定したところで、対象のゲームそのものの評価が0になるだけであってプラスにはならないのだ。
私もゲームライターなので、自分が面白く感じたゲームの魅力を読者に伝えたいと思うことはしばしばある。とはいえ、しつこく魅力を語り続けるだけでは誰も読んでくれない。多かれ少なかれセンセーショナルな見出しがなければならないし、堅苦しいだけでなく笑える要素も必要だ。赤野はこういった諸問題を当然のように考慮していて、自分を道化にするかのようにゲームの魅力を語るという方法を編み出したのである。低評価ゲームのレビュー配信も今回のSF小説も、その延長線上にあるものだと私は考えている。
しかし、“とあるゲームが面白いということを押し付ける”だけでは“クソゲーという風評を振りまく行為”となんら変わらない。ゲームレビューというものは極めて主観的なものであるため、ゲームは実際に遊ばなければ面白さがわからない。だからこそ赤野は「ゲームを再検証する」という言葉を使う。既に決まってしまっている価値観を疑えというのだ。それはゲームに一方的な評価をつけるメディアやプレイヤーとは異なる“新たな視点を読者に与える批評家としての可能性を求める行為”ですらあるのだ。
“ゲームを再評価する”という姿勢から見る「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」
こうして“ゲームを再評価するSF”として「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」を捉えると少し見方が変化してくる。確かにこの作品には奇妙な未来のゲームがたくさん掲載されているものの、それぞれの作品には確かにファンが存在するのである。
たとえば、未来の老人が昔を懐かしむために作られたリハビリ用ソーシャルゲーム「フォークロア・オブ・ノスタルジア」。老人向けに色調などを調整した部分は当時を再現できていないと怒られ、プレイヤー以外からは老人たちが本作にハマることを不気味だと言われたゲームである。しかし、真剣に本作を遊んでいた老人たちにとっては代替不可能なほど重要なエンターテイメントであろう。外から見ると不幸な様子でも、遊んでいる人たちにとっては幸福なのかもしれないのである。
これはゲームレビューとまったく同じである。ゲームを遊んだ楽しさというのは主観的にしかわからないし、それを文章や動画で伝えるにしてもプレイヤーの主観からは絶対に切り離せない。それにも関わらず、自分の体験を重視せず世間の風評やいい加減な意見を受け入れすぎてしまうところが世の常だ。
それならば、他の人が持つ主観を信じてみればゲームの可能性が広がるのではないかというのが赤野の弁である。人の数だけ主観があるのならば、ゲームの評価も無限に広がると言えるのではないか。低評価をくじくのではなく、違う主観が持つ可能性を見出そうとしているのだ。これはおそらく理想的なゲームレビューのひとつであろう。
なお、「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」はゲームレビューのほかに、赤野工作の雑記が収録されている。ゲームを長く遊ぶため体を機械に入れ替え続けてきた作中の赤野だったが、それもついに限界を迎えてしまう。そう、本来ならは代替不可能な脳に限界が来てしまうのである。そこから彼は、ゲームの楽しさとはいったい何なのかと考え込むことになるのだ。
そもそも人間がゲームを楽しいと感じることは、単純に言えば脳に電気信号が流れていることに過ぎない。もし人間の脳をきちんと再現できる人工脳に入れ替えたとしても、そのプロセスが再現できていればゲームの楽しさは変わらないはず。しかしながら、作中の赤野は自分の脳を人工脳に入れ替えて大丈夫なのか不安を抱き悩み続ける。
ゲームの楽しさは麻薬とは違う。ただ単に脳へ刺激を与えるのではなく、そこに用意された課題や過程を乗り越えて達成感を味わえるからこそ楽しいわけである。だが、人工脳はそれを正しく認識できるだろうか? あるいは認識できたとしても人間の脳として感じるものと同じなのだろうか? 雑記は次第に、哲学的ゾンビ、ロボットの心など哲学やSFの領域に踏み込んでいくことになる。
ゲームライターやプレイヤーは「なぜゲームが楽しいのか」という点には迫れるが、「ゲームを楽しく感じる自分を構成しているもの」に関して語るのには限界がある。それは主観という他者からは観測できないものが存在するからであり、本作はその主観が持つ神秘と可能性すら見出そうとしているのだ。
未来にはこんなとんでもないゲームが出るかもしれない。世界を探せば驚くべきようなゲームがある。それらに低評価がついていてもどこかにはそれを真剣に楽しんでいる人たちがいる。そして楽しんでいる人たちの主観はゲームの新たな可能性を見つけ出すものなのである……。「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」はさまざまな軽口で私たちを楽しませてくれると同時に、ゲームの楽しさとはいったいどういうものなのかと悩ませてくれる本なのである。