「がんになるということは、地図なしで敵陣にパラシュート降下するようなものだ」
今、マギーズセンターの発祥の地、スコットランドに向かう飛行機の中でこれを書いています。
夏休みをいただいての渡英。
マギーズ東京がオープンしてから初めてのマギーズ本国での研修を受けるためです。
冒頭の言葉は、マギーズセンターの発案者であるマギーさんが遺した文献で紹介している、Dr. Michail Lernerが「Choices in Healing(The MIT Press)」という本の中で書いたもの。
本当に、その通りだと思います。
道もコンパスも地図もなく、敵がどのくらい強くて、味方がどこにいるのかもわからない。
そこがどんなところかの知識も全くなく、道なき道をいくトレーニングを受けたこともない。
そこを抜け出したくても、どっちに向かえばいいのかすら、わからない。
マギーズセンターは、そんな敵陣だと思っていた場所で、自分らしい地図を再び描くお手伝いをする一軒のお家。
独創的で驚きがあり、木のぬくもりと光が溢れ、全ての人を優しく温かく迎えてくれるー
マギーズセンターを発案したマギーさんは1988年に乳がんになり、1993年に再発が分かりました。
そのときに医師から「残された命はあと3〜4ヶ月です」と告知され、何の質問もできないまま、「すみませんが、廊下に移動していただけますか?たくさんの患者さんが待っているので…」と言われたそうです。
マギーさんは、夫のチャールズさんと共にありとあらゆる本を読み、海外を含めた乳がんの専門家に電話をかけまくり、ありとあらゆる代替療法も検討し、自分に合った支持療法を模索したといいます。
能動的に治療をしようとする中で、ホンモノだかニセモノだか分からない“治療法”が洪水のように襲ってきて、それは役に立つどころか、信頼できる人の助けなしでは溺れてしまいそうになり、強く思いました。
「がんの治療中でも、患者ではなく一人の人間でいられる場所と、信頼のおける知識を持った友人のような道案内がいてくれたら…」
結局マギーさんは、後に第一号目のマギーズセンターが隣接してできる、エジンバラのウエスタン総合病院で、転移性進行乳がんの治験があることを知り、その治験を受けることができて、そこから2年、明るく強く穏やかに、生きました。
その間、マギーさんが最期まで青写真を描き、その思いを受け継いでマギーさんが亡くなった翌年の1996年に夫のチャールズさんとマギーさんの医療チームが力を合わせてオープンさせたのが、エジンバラのマギーズセンターです。
訪れたひとりひとりの思いを決して否定せず寄り添いながら、とことん話に耳を傾け、役立つ情報を提供し、孤独感を和らげ、その人が自信を持って歩める地図を描いていけるように。
わたしがマギーズセンターとマギーさんを知ったのは、乳がんになってから6年の月日を経た2014年。
幸い再発はしていないものの、マギーさんのストーリーを知るにつけ、マギーさんの経験、問題意識や思いと自分のそれとが重なり、ああ、わたしはマギーさんの思いを日本で引き継いでいく運命なんだなと、勝手ながらとても強く感じました。
そして、第一号のエジンバラセンターがオープンしてから20年遅れて昨年10月、マギーズ東京がオープンし、ようやくスタートラインに立つことができました。
この月曜日から始まる一週間の研修では、少しでも多くのことを吸収して、成長して、少しでも多くのことを日本に持ち帰りたいです。
最後に、これを書いていて、ふと思ったことがあります。
マギーズセンターと出会ったとき、私はもう自分のがんのことはすっかり乗り越えていたつもりでいたけれど、どこかで自分が若くしてがんになった意味を問い続けていました。
マギーズセンターは、その意味づけを私にさせてくれました。
そして、大好きな仲間とたくさんの方々に支えていただきながらマギーズ東京をつくっていく夢のような準備中も、無事オープンできた喜びも、訪れて下さった方々が変わっていくのを見る感動も、ひいひい言いながら運営している苦労でさえも、全てが愛おしく、闘病中に経験した死の恐怖や苦しみや「なぜ自分が?」という問いも、をすーっと浄化していってくれるような感覚がするんです。
そういう意味で、マギーズセンターは、わたしにとっても、がんになったあとの自分らしい人生の地図を描くお手伝いをしてくれている存在なんだな、と。
自分らしい地図を描くということは、限りある命ととことん向き合って、納得感を持って自分の道を選び、人生をデザインしていくということ。
欲張りなわたしは、そうして描いた大きすぎる人生の地図を味わい尽くしたくて、「全力疾走、ときどき爆睡」しながら、これからも歩み続けていこうと思います。