おのずと意識される「日本」
無印良品の池袋のお店も新しくなり、今日は無印良品にこと寄せてお話をするということですが、ふだん無印良品について真正面から話すということはあまりありません。いつも考えてはいるのですが、それについて語り過ぎてはいけないという意識が、常にあるんですね。というのは、無印良品というのはいろいろな人がいろんな風に捉えているからです。これが無印良品だと断定できない。僕は無印良品のアドバイザリーボードに加わらせていただいているんですが、僕が思う無印良品が、無印良品のど真ん中とは限らない。そういう意味では、いろいろな無印良品があるので「無印良品=これだ」ということはなかなか言い切れないわけです。
しかし今回の「無印良品の理由展」では小池(一子)さんや杉本(貴志)さんや深澤(直人)さんが、それぞれの立場でお話をされるということなので、あまり遠慮をしないで、僕はこんな風に考えてきたということを、きちんとお話ししたいと思います。
僕は無印良品の仕事をさせていただいて、すごくいろいろなことを考えることができました。それは、デザイナーとして自分がやってきたことの背景を、無印良品に重ね合わせながら、もう一回おさらいをすることでもあるような気がします。
僕は最近「日本」ということを意識して仕事をしています。日本人だからとかいう特別な意識があるわけじゃないんですが、僕は日本という場所でデザインをしていて、日本語を使う1億3千万の人たちとコミュニケーションをすることでデザインを成り立たせています。世界の文脈で仕事をすることがあっても、日本で育ててきたデザインの感覚を世界に開いていくわけですから、おのずと「日本」を意識します。僕はニューヨークに進出したいとは思わないし、ロンドンに拠点をつくろうとも思わない。日本語で考えた自分の感覚を世界につなげていくということを、結構自然にできると思っているので、自分で磨くべき資源と、無印良品がもっている資源というものがオーバーラップしてくるんです。
そして、デザインで考えることと、無印良品で考えることがここ数年は同じようなところを行き来しているので、デザインを語ることと無印良品を語ることは、ある部分、一致するところがあると思っています。
今日、最初にお見せするこの写真は、日本のことを考えるきっかけになった仕事のひとつです。
これは京都の慈照寺、いわゆる銀閣の東求堂にある同仁斎という書院です。足利義政が応仁の乱のあとに東山につくり、ここに隠遁するというか、将軍職を退いたあとに生活する場所をつくったんですけれど、その書院の写真です。
京都の、この東求堂の同仁斎とか、大徳寺玉林院の霞床席(かすみどこせき)や簑庵(さあん)、武者小路千家の官休庵とか、スーパー茶室とでもいうべき国宝級の和室や茶室を歴訪し、そこに無印良品の茶碗を置いて写真を撮るというロケーションをやった時のことです。たまたま、こういう京都の奥深くに入り込むことができて、そこで室町末期の日本の感受性とご対面というか、しっかりと出会う体験ができました。そのとき、自分がデザイナーとして培ってきた感性や、掘り下げてきた感覚と、室町末期の日本の美意識みたいなものが、びしっと自然にかみ合うという手応えを感じたんです。それ以降、少し考えてきたことがあって、今日はその話をしたいと思います。
京都というのは、僕は実はどちらかというと苦手だったんです。デザインというのは、少なからず現代とか未来のことを考えていくわけで、過去の文化にぶらさがって生きてるっていうのはどうなのか、と。お寺も参拝料をとるけど、昔からあるものにどういう権利でそういうことができるのかとか、湯豆腐のどこがそんなにおいしいんだ、みたいな密やかな反発心をずっと抱いていたので、京都というのは微妙に苦手だった。
だけど、さきほど話した経験で、室町後期にできてきた、いわゆる「国風化」と言われている日本の感覚の独自性みたいなものと、自分のデザインの拠って立つところが、つながっていると気がついた瞬間、ガツーンとのめり込んでしまったところがある。
まず、エンプティネス(Emptiness)というテーマで、少しお話をしてみたいと思います。そのあとで無印良品の広告の話、さらには今後の無印良品の自分が考える課題というか、あるいはこういうことをテーマにしていったら面白いんじゃないかというところまで、話が発展できたらと思います。今日は持ち時間が1時間半だと思っていたので、それだけ分の材料を持ってきちゃったんです。1時間とのことで、早口でしゃべっていこうと思います(笑)。
まず、最近はグローバルという言葉がよく聞かれるんですが、グローバルというのは僕は経済用語だと思っています。文化を語る言葉ではない。たまたま、世界中でものをつくったり販売したり、あるいは金融システムを標準化したりすることから、ものの生産や物流、組み立てや販売の仕組みを地球規模で展開したほうが無駄がなくて合理的だということになってきた。そういう観点からグローバルという言葉が出てきたわけですが、文化というのは本質的にローカルなものなんです。シシリア島であり、伊豆半島であり、京都であり、北京なんですよ。
イタリアのお母さんが「マリオ! パスタを食べるときはお皿を温めなさい」といいますよね。そうやって食べるパスタがおいしい。あるいは日本の旬を見事に捕まえる懐石料理がおいしいんです。これが文化。あちこちの料理をミックスした料理なんておいしくない。オリジナルな食材や工夫、旬みたいなものが、ローカルなままの価値を保存しながら、世界の文脈へと通じていくところに文化の醍醐味があるわけです。
ただし、ローカルに育まれてきたものを、方言でしゃべるのではなくて、共通語や世界語にしてスムーズに世界につなげていく態度が重要です。グローバルな時代にあればこそ、むしろローカリティーの実質をしっかりと探りあててつかんでいなければならないと思うんです。