自転車の無灯火に関するインターネットの記事を見た。
無灯火の危なさを教える4コマ漫画も載っていた。
「夜に自転車を運転で灯火するのは、自分の進む道を照らすためではなく、自動車などから自転車を認識させるためである。だから点灯しなさい」と警告しているものだった。
文明的な衝撃を受けた。いまは、そんなことを大人同士が確認しあう時代なのか。
「自転車のライトは、乗ってる自分がまわりを見るため」という考え方をする人がいることを、私は初めて知った。いろんな意味でとても驚いた。
そんなこと言われなくてもわかってるだろ、と言える時代ではないようなのだ。衝撃が深い。
* * *
私がうかつだった。
自転車の点灯は、まわりに自分の存在を知らせるためのものであり、それを日本中の人が意識していると、ずっと信じていたのだ。
なんでそんな太平楽なことをおもってたのかと難詰されても困るが、そうおもっていた。世間知らずだった。だから、無灯火で走ってる自転車があれほど多いのか、と、いまさらながら納得した。
自分でまわりが見えていれば点灯しなくていいと考えるのなら、そりゃ点灯しない人も多くなるだろう。なるほど。いや、納得している場合ではないし、みんな夜になれば点灯していただきたいのだが、しかし、自分の無分明におもいいたるばかりである。
なぜ、そうおもいこんでいたのか、とふと反省してみると、それは私が子供のときからそう信じていたからである。子供のときに信じたことは、まわりの大人はみんな知っていると勝手に考えてしまう。
私が自転車を初めて買ってもらったのは小学校3年のときで、8歳だった。
そのとき「自転車のライトは、自分が走っていることを周囲に知らせるため」とすでに何となく知っていた。なぜだかよくわからない。
たぶん、誰かが何となく教えてくれたんだとおもう。暗くなってから無灯火で走っている自転車は発見されにくく、危ない。とても危険である。
自転車は弱い存在なのだから、という意識があった。8歳の自分が弱い存在だから、その自分が動かす自転車も弱いものだと、おもっていた。
自転車に乗っている自分はか弱い存在である、という感覚を持たない人がいるのが驚きである。
ただ、どれぐらいの割合でいるのか、ちょっとわからない。ひょっとして自転車乗りの8割は知っていて、問題なのは2割だけなのかもしれない。
でも2割いれば、それでじゅうぶん私にとっては驚天動地である。
天と地を逆に認識している人が、同じソサエティの中に2割もいれば、それはとても驚きます。おれはどういう社会に所属しているのだろうと、とても不安になってくる(それに2割より、もう少し高そうな気がする)。