なぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

関東軍の暴走や、5.15事件、2.26事件…。
真珠湾攻撃の前には既に南方で勝手に戦端が開かれていたとか。
それから、敗戦時にも玉音放送を中止させようと陸軍のクーデターが起こるなど、なぜ戦前の日本では、軍事がコントロール不能になってしまったのですか?

当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?

※これはド素人の質問ですので、質問文中に認識違いなどがあった場合は遠慮なく指摘して頂いて結構です。その際はどうぞお手柔らかに…

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A 回答 (7件)

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?


一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5% …
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良かったのでしょう。
内閣・国務大臣も戊辰戦争を戦ってきた人々でしたからね。

時代が進むにつれて、「統帥権」の変容したのが、軍部の暴走した要因だと思います。
大日本帝国陸海軍には行政組織の陸軍省と海軍省が有り、それぞれに大臣がおりました。
これらは内閣の一員の行政組織で、人事権、徴兵などを行政事務を行ないます。
それとは別に海軍には軍令部、陸軍には参謀部があり、軍令部総長・参謀総長がおりました。
実際の作戦立案、実行を一手に握っていました。

最初は海軍省>軍令部、陸軍省>参謀部の関係でした。
現役の軍人とはいえ、官僚ですのである程度の常識を持ちイケイケの軍人を抑えていたのですが
それに不満を持つ軍人が「天皇は陸海軍を統帥す」の文言を盾にとり、統帥権の独立を画策し始めました。
次第に省令等を改定し、海軍省<軍令部、陸軍省<参謀部の力関係になりました。
つまり、軍人の文が弱まり、武が強くなってきました。
国会議員が異議や反対意見を述べたりすると「統帥権干犯」を持ち出し、反対意見を封殺していきました。
つまり、建前上、天皇のみしか軍隊を指揮命令する事が許されない
神聖にしてだれも犯す事の出来ない武力集団に仕立て上げたのです。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tousuike …

しかるに、昭和天皇は皇太子時代、大英帝国を訪問し、英国の立憲君主制に触れ、それを模範にするお考えが有りました。

国王・皇帝が独裁的に指揮・指示・命令をするのではなく、それを輔弼する内閣・国務大臣の政策を承認する形を取りました。
それで、天皇の名の下に、自分の都合よく相手国に武力行使を独断専行で行い、全て事後承諾で戦争へと進んだのです。
結局は、降伏か戦争継続かで意見が分かれ、収集が付かなくなり、昭和天皇のご聖断となった訳です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。とても参考になりました。やはり統帥権が問題の根源なんですね。明治ではうまくいってたやり方が昭和で綻びを見せたといういことは、政治が硬直していて時代の変化に即応できなかったという事でもあるんでしょうか…。ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/16 11:01

もともと明治維新体制はその権力基盤の脆弱さから軍と政府を明確に分離することで、反政府勢力が政府を揺さぶっても軍には変わらず「体制の擁護者」たる事を求めました。


この体制そのものは、当時としては妥当なものだと言えます。
無論、このような体制は対外戦争には不向きなものですが、明治時代は伊藤博文、山県有朋など元勲が「超法規的」に軍と政府の意思統一を図った為、問題は表面化しませんでした。
しかしながら日清・日露を初めとする戦争の勝利は「明治体制の正しさの証明」と受け止められ、体制の変革を困難なものとしてしまいます。
しかしながら元勲のカリスマ性に頼った体制が長続きするはずが無い事は当時から明白であり、大正~昭和初期には「統帥権の独立」は「純粋な作戦面に限定されるものである」とする立場が主流であり、軍が政治的にも政府から独立していると見なす立場は軍内部でも少数派でしかありませんでした。
ところが1930年のロンドン軍縮会議において当時野党であった政友会の犬養毅、鳩山一郎らが「統帥権の干犯」であると軍縮条約を調印した政府を攻撃し、統帥権を一気に拡大解釈してしまいました。
これ以降、議会で軍部の行動を統制しようとすると政敵から「統帥権干犯だ!」と揚げ足を取られる事態を招き、議会は自ら軍部に対するチェック機能を放棄してしまうのです。
当然ながら、議会における目先の駆け引きに「統帥権」を弄ぶ行為は国民の信頼を失ってしまい、議会の地位はこれ以降、低下の一途を辿ります。
更にこの「統帥権の独立」を盾にとって行われた1931年の満州事変が「大成功」と認識され、国民の圧倒的支持を受けてしまったことで「統帥権の独立」はドンドン肥大化してしまうのです。
実のところ当時から「統帥権の独立は時代錯誤」という意見そのものは珍しいものではなく、軍事や政治に関する書籍でも普通に批判は行われていたのです。
つまり「統帥権」とはとっくに時代錯誤と見なされていた古くさい憲法の条文を「目先の権力闘争に目を奪われた近視眼的政治家」と「それを利用した軍部」そして「無責任にもてはやしたマスコミや世論」が揃って持ち上げ、それを「神性不可侵」の存在にしてしまったことが、軍部の暴走を招いてしまったのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。史実に基づいた説得力ある内容で、とても参考になりました。それにしても何という議会政治の皮肉。野党が政府攻撃をするために用いた材料が軍部に利用され、こんな悲劇を招く結果になるとは…。国益よりも政局優先の無責任な政治は現代でも当てはまる事を考えると、背すじが寒くなってきます。ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/16 22:44

日本には、昔から「上位にある人が実権があるとは限らない」という不思議な伝統があります。



外国企業なんかじゃ、「上になればなるほど働く」となります。よくアメリカなんかじゃ「5時になると仕事の途中だろうがなんだろうがすぐ帰る」なんていいますけど、それはブルーカラーのような下位の人たちの話で、ホワイトカラーの人たちとなると「早朝から深夜まで」「休日もへったくれもない」となります。つまり偉くなればなるほど働くシステムになっています。

しかし日本の場合多くの会社で、社長は単なるお飾りであったりします。他ならぬ内閣総理大臣がそうで、我が国じゃ首相だからといって何でもできるかというと、首相ってどちらかというとあんまり何もやらないで、大臣とか議員や官僚なんかが走り回っているわけです。
日本人てね、どういうわけか「偉い人に権力を持たせる」っていうのを嫌がる民族なんですよ。小沢一郎氏なんて裏でキングメーカーになっている割には誰も文句いわないけど、「首相になる」となればものすごく嫌がる人が出てくるわけです。欧米の価値観では、「キングメーカーが表舞台に立って権力を振るうのは当然」となるわけですが。

というわけで、旧日本軍には「統帥権」というのがあったわけですが、現場の軍人はそれをタテに暴走していくわけです。
これは現代でも事情は変わっておらず、例えば海外派遣の自衛官が戦闘状態に巻き込まれたらどうするなんて実は全然決まってないのです。いや、一応「現場で判断する」ってなっているのですがすごーく曖昧にしてあるのです。だから、もしそうなったら現場は「暴走せざるを得なくなる」のです。どこまでがOKで、どっからがダメなのかが決まっていないのです。そもそもシステム的に暴走するようになっているんですね。暴走したときに歯止めになるものがありませんから。

もし日本にリアルに有事が発生したら、首相は閣議を開いて・・・なんて決まっているのですがいざそうなったときにそんなことをのんびりやっている時間なんてないわけで、もしそうなれば最終的にはおそらく自衛隊も腹をくくって暴走するしかなくなると思います。
実際のところ、1976年に函館にソ連のMig-25が亡命した事件では「ソ連軍コマンド部隊が函館を急襲して戦闘機を破壊しに来る」という情報が入り、現場はどうするか凍りついたそうです。しかし当時の政治情勢はいわゆる「三木おろし」のまっただ中でそんなときに有事のどうこうなんて政治家は誰も関わりたがらない。致し方なく、現場の部隊は「もしソ連軍来たらば反撃せよ」と決意を固めます。だって、攻撃されたのになすがままにされたなら自衛隊の存在意義がないじゃないですか。
結局、この暴走未遂事件は襲撃がなかったのでそのまま終わり、しかし準備したり連隊長が命令を出しちゃったりしたのは事実だったので、関係者は処分され事件は闇に葬られたそうです(公式資料には何も残っていないそうです)。

満州事変にしても515事件にしても226事件にしてもそうなんです。政治がうだうだしていて何も前に進まないので「既成事実を作ってしまおう」となったのです。
この、「既成事実を作ってしまおう」って現代のサラリーマンもやってしまう人は多いんじゃないでしょうか。特に「切れ者」と呼ばれている人に。経営陣の判断を待っているといちいち小田原評定で何一つ決まらない。そこで切れ者の部長なんかが「やってしまえ」と既成事実を作ったら経営陣が事態に引きずられる形で承認するなんてことがね。

またこれは重要なことですが、515事件が起きた後、実行した将校たちに全国から助命嘆願運動というのがものすごく起こったのです。裁判はその大衆の熱気に引きずられる形で将校たちは軽い処罰で済んでいます。
226事件の将校たちは可哀想でしてね。彼らは自分の熱意と決意を陸軍の重鎮と呼ばれる人に相談すると、その重鎮は「おおいにやれ」とどう見ても「重鎮が承認した」以外に取れない一言を発します。それで彼らは大いに勇気づけられて実行に移すのですが、しかし他ならぬ昭和天皇が激怒、「俺が兵を率いて戦う」とまでと言い出して彼らは「叛乱兵」となります。
実は226事件には何人か黒幕が存在したことが戦後かなりたって裁判資料が出てきたことで明らかになりました。その黒幕たちは当時の陸軍の錚々たるメンバーで、もしそれが明らかになったら相撲界の野球賭博問題以上の大問題になったでしょう。そして裁判は秘密裏にされ、重鎮を始め黒幕たちは掌を返して「そんなことは知らんなー」と将校たちを裏切ったのです。


実は日本史というのは、「煮え切らない政治と軍事の暴走の歴史」でもあるのです。幕末の大政奉還から倒幕の密勅なんかの流れもそうなんですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。非常に示唆に富む内容で、とても参考になりました。回答を読んで分かったのは、戦前という時代が決して特殊だったわけではなく、日本が長年引きずっている体質が悲劇を起こしたということですね。非常に興味深いエピソードも盛り込まれていて勉強になりました。この回答は教訓として抱かせて頂きます。ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/16 22:28

難しい話しは既に説明されているようなので簡単に記します。



官=公務員というものは組織防衛の塊だということです。それは現代にも続く弊害であります。

難しい図上演習や訓練を指揮し高い給料をもらってキレ者、米国通と言われた山本五十六でさえ負けるとわかっていながら「半年は暴れてみせましょう」とその間に他が早期講和をして欲しいと縦割他力本願。
負けるから戦争辞めますとは言えんわなぁ。
自分の所属の組織を優先するあまり陸軍の足を引っ張るなんて現代の省益を死守するのにポスト、金の争奪戦そのままじゃないですか。

配属年度に縛られていた旧帝国エリートと現在も下々から搾取し続ける官僚。
彼らにとっては自己>所属>省であって国家を憂いている人はごくわずか、他人の命は軽いのです。

一億総中流という錯覚を続けられなくなった現在、経済戦争に負けて泣いていくのは下々の人たちです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。やはり、縦割り官僚制度は日本を長年蝕む宿痾なんですね…。官僚の組織防衛本能が国益を蝕む構図は現代も殆ど改善されず放置されているのは恐ろしい事だと思います。ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/16 15:01

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?



根本的な誤りという点では#2の方が書かれた「総帥権の独立」(と解釈した軍部)と天皇個人が機関説に則っていたため、天皇個人として動かなかった(動けなかった)ことが暴走を許したということになります。

では諸外国ではどうでしょう。近代国家まで引き継がれている民主国家における軍事指揮権は、古代の共和国ローマに発します。
これは「軍事指揮権は元首(または指揮官)にゆだねるものの、軍事行為の遂行には議会の承認が必要である」ということです。古代国家では、税として兵役がありましたので、王族が収めるような国なら王が「戦争をする」と決めれば、その国に住む臣民は従うしかないのですが、古代であっても民主国家では兵役はそのまま市民生活を混乱させるため、政治を司る指導者だけの判断では出来ないようになっていたのです。

ですから現代でも「文民統制(シビリアンコントロール)」という名称で、たとえアメリカであっても議会の承認なしには戦争を行うことができないのです。

ところが明治政府のころの日本はこの点が良くわかっていなかったらしく(いや分かっていたけど、いろいろな駆け引きでうやむやにしていた)、国家の体系としては君主国家であるため臣民は天皇の命令には従う、しかし同時に立憲国であるため本来なら文民統制が必要、という具合でした。
軍人としては「天皇陛下のご命令で死地に赴く、天皇陛下に忠誠を誓う」ことを誇りとしていたのに、議会の民間人どもにゴチャゴチャいわれたくない、というのが本音だったのでしょう。
日清・日露と戦争に勝ってしまったために、軍部の発言力が増し、いつしか総帥権の独立が既成事実化し、軍部の暴走を招くことになります。

昭和天皇は確かにかなりリベラルな方だったようで、天皇といえども憲法の下におり、天皇の職務は内閣が輔弼する、つまり内閣=臣民がすべて行って、元首は君臨すれども統治せず、を地で行くお考えであったようです。またこの輔弼(現行憲法では内閣の助言と承認)を適正に考えれば総帥権は内閣の内閣の助言と承認を必要とすることになり、シビリアンコントロールが利くはずだったわけです。
これを天皇機関説と呼ぶのです。

ですから、現在でも議論になっている「天皇に戦争責任はあるのか」という問題は、どちらとも言えないという部分があり、皮肉なことに最終的に天皇が「終戦の詔」を発表し戦争が終了したことをもって、天皇には責任がある、という論調も見られるようです。

では根本的な誤りはどうして出来てしまったかというと、それは日本の統治システムの歴史的な要因が絡んでいます。
まず軍部が元首や文民に統制されないようになると、ほぼ間違いなく暴走します。ポルポト派の虐殺もそうですし、アウンサンスーチー氏を軟禁しているビルマも軍事政権です(もっとも民主的な政権なら暴走しないか、というとそうでもないですが・・・)
ですから軍部の暴走はどの国でも当たり前です。
ところが天皇機関説は英国をモデルにしているのですが、それ以上に昔から日本の統治システムは「機関」だったのです。
そうせい候、で有名な毛利敬親を代表として、戦国時代以降の幕府と各藩は老中を中心とした合議システムで決断し当主はお飾り的な「君臨すれども統治せず」を地で行くシステムが出来上がっていたのです。宮中にあっては鎌倉幕府が出来て以降徐々にそのようになっていったようです。
先ほど書いた明治政府の駆け引きとは、近代化するに当たって元首の統治能力を組み込みたい勢力と、天皇であっても日本的な統治システムを引き継ぎたい勢力の駆け引きであり、それが明治憲法をして「内閣の輔弼」と「国家元帥は天皇」という(後になってみれば)禍根を残す表記になったわけです。

米国は歴史の浅い最初からの民主国家ですから別にして(それでも南北戦争がありましたが)、英国などは長い歴史の中で自国軍部の暴走や隣国の軍部の暴走により戦争せざるを得なかったという歴史を有しているがために、近代になってからは軍部の暴走を抑える仕組みを明確にしているのです。

主題とは違いますので、詳しくは書きませんが、もちろん軍部を支持する国民の声というものも当時の日本にはあり、普通選挙がされた後での軍部の暴走ですから、単に国民は被害者だったということではなく、何らかの責任を負っていた、という事実に向き合う必要もあるといえます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。詳しい解説でとても参考になりました。立憲君主制は今でも誤解している人達が多く(というか私も思いっきりあやふやです)難しいと思います。この点はもっと勉強しなければいけないと痛感しました。ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/16 11:17

 大日本帝国憲法に規定されている日本帝国陸海軍は、内閣と同等の立場で天皇の下に位置していました。


 これを戦前は「統帥権の独立」といって、内閣=行政は軍事を動かす権限がありませんでした。

 明治時代においては、天皇直属の機関である枢密院に、幕末・明治の軍隊のトップであり、しかも政治家でもあった明治維新の立役者=元老たちが所属し、個人的影響力の大きさを使って、政府・軍を統括していました。

 しかし、明治維新から時代が経ち、枢密院に行政府・軍両方に大きな影響力のある人物がいなくなってしまったために、枢密院が軍・政治を統合する機能を失い、国際政治・外交を踏まえた上で軍事を統括する機能を持った組織が、事実上存在しなくなり、天皇個人のみがその役目を負わされることになってしまいました。

 しかし、昭和天皇は当時の日本においては、相当にリベラルな考え方を持った人物で、東京帝大教授の美濃部達吉が「天皇機関説」を主張し、結局、美濃部は不敬罪の疑いにより取り調べを受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職し、美濃部の著書である『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊は、出版法違反として発禁処分となった事件に対し、
「美濃部の言う通りではないか。」と発言した記録がありように、基本的には、天皇個人が政治的決断をするべきではないと考えていたため、「統帥権」=軍の指揮権者が事実上存在していない形になっていました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。とても勉強になりました。統帥権が内閣(行政)から独立しているという形態がそもそも間違いの元だったという事でしょうか。この辺はこれからも勉強したいと思います。ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/16 10:51

 当時の日本国民の気持ちも「イケイケ」だったと思いますよ。



1868年 明治維新
1894年 日清戦争
1904年 日露戦争
1910年 韓国併合
1931年 満州事変
1932年 上海事変
1932年 満州立国
1937年 支那事変
1941年 真珠湾攻撃

 ようするに、明治維新となって、海外の列強に追いつき追い越せで富国強兵・殖産政策が採られましたね。で、たとえば1894年の日清戦争と1941年の真珠湾攻撃では50年も経ってないわけで(日本は現在戦後65年です)戦えば必ず勝ってたわけです。もちろん国民全員が好戦的でもなかったでしょうが、「イケイケ」って気持ちは納得できますよね?ずっと勝ってるわけですから・・・実際はそうでもないにせよ、その都度景気もよくなり、日本はあっという間に実力(資源)もないのに強くなったわけです。

 そうなると、軍部の暴走ってことではなくいけるところまでいってしまうのが人の性だとおもいます。
多くの日本国民の総意って感じではないでしょうか。

 アメリカはべつとして、ヨーロッパ列強は何百年と侵略の歴史を繰り返してきました。
日本はこの100年(っていうか、1945年の敗戦までの60年ほどですよね?)しか侵略の歴史はありません。欧米諸国はやはり喧嘩の仕方を知ってたってことでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。これは鋭いご指摘だと思います。軍部の暴走という観点からばかり考えてしまいがちですが、それを後押しする世論というか、形に現れない国民感情というものが見逃せない要素なんですね。ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/16 10:42

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先日,ラジオで加来耕三氏の話を聞きました。

関ヶ原の戦いで、東軍の徳川秀忠軍は中山道において手間取り、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。秀忠軍は、信州の真田軍との戦いで、不覚を取ったから、と言われていますね。

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賢者の皆様に論評をお願いします。

Aベストアンサー

まず、秀忠軍は徳川家の主力部隊でした。
徳川家実質的NO2であり、総理大臣的立場であった、本多正信が軍監として配されていた事からでも、あきらかでしょう。 
徳川家康がもっとも信頼していた、本多正信をつけたのは、家康の戦略を熟知していた存在だからと、容易に推測できます。
小山の陣より、西軍に対する為、上杉攻めの軍を西に返すわけですが、秀忠軍は江戸には戻らず、そのまま東山道に向かっています。
江戸に戻った家康は、諸大名に対して50通近い書状を送り、懐柔の策を施し、一月後に東海道を登って行きます。
この間、秀忠軍の工程を並列すると、秀忠軍の方が先に美濃に着いてしまう事になります。そこで、時間的帳尻を合わす為、真田昌幸の上田城を攻めたわけです。これももちろん家康と正信の示し合わせた作戦でしょう。
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小山では、上杉軍に対応する為、次男結城秀康を残してます。

では、何でそんな作戦を立てたのか。
私の推測では、この際豊臣恩顧の有力大名は共倒れ、殲滅させるという意図があったのではないでしょうか。
関が原で戦ったのは、西軍宇喜田秀家、小西行長、大谷行部、それに実質的総大将(当事者、発案者という方が打倒と思いますが)、石田三成のたった4家大名です。それに対し、東軍は福島正則以下、お歴々歴戦の有力大名が揃っています。対して、家康の率いている徳川軍は、本多忠勝、徳川家の執政役井伊直政の有力2武将以外は、かなり老齢(40代前後ですが)の兵卒が多かったようです。3万5千も掻き集めたのですから、関東領地の農民も相当数駆り出されたようです。
これでは、徳川軍はまともに戦えませんので、ほとんど戦っていません。家康の代わりに4男忠吉が井伊直政治の後見で奮戦した程度です。
尚井伊直政は、この時の鉄砲傷がもとで、戦後まもなく亡くなっています。忠吉も矢疵をおっています。この疵が疵が原因で、のちのち、早い時期に亡くなっています。
従って、もし旗色が悪くなれば、一端戦線を引いて岐阜城あたりまで下げ、秀忠軍と合流して、次戦に備えたのではないでしょうか。
そうなれば、味方していた東軍の豊臣の諸将からも裏切るものが出た事でしょうが、戦力は当然疲弊していると計算していたと思います。
そこに、35000の無傷の兵と、秀忠軍の40000の主力が加われば、徳川家の兵力だけで、十分に再戦できる、撃破できると想定したと思います。豊臣恩顧の大名なんて、じゃまなだけですから。

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ですから、この一戦に徳川の運命をかけた家康としては、負けられない戦いの作戦計画を正信と、十分練り上げた結果ではないかと思います。
秀忠軍が背走の為の温存なんて、有り得ないという事です。

最後に勝つ為の戦略という事だと、私は確信しています。

まず、秀忠軍は徳川家の主力部隊でした。
徳川家実質的NO2であり、総理大臣的立場であった、本多正信が軍監として配されていた事からでも、あきらかでしょう。 
徳川家康がもっとも信頼していた、本多正信をつけたのは、家康の戦略を熟知していた存在だからと、容易に推測できます。
小山の陣より、西軍に対する為、上杉攻めの軍を西に返すわけですが、秀忠軍は江戸には戻らず、そのまま東山道に向かっています。
江戸に戻った家康は、諸大名に対して50通近い書状を送り、懐柔の策を施し、一月後に東海道を...続きを読む

Q南京事件.通洲事件.真珠湾攻撃.慰安婦.の真実

私は、南京事件.通洲事件.真珠湾攻撃.慰安婦.の真実を知りたいです。

これらの真実を知ろうと調べると近年有名な本がズラリ参考として出てきますが、
それらの本も「著者の思想、推測」の一つであり、バラバラです。
まるでノストラダムスの大予言の本を書いた人と同じ感覚と感じます。

2012年 インターネットもある時代ですが、情報の混乱ばかり。
知ってるつもりで何も知りません。

今現在、南京事件.通洲事件.真珠湾攻撃.慰安婦.の判明している真実がどこまで明らかになっているのか、知っている人ぜひ教えて下さい、宜しくお願いします。

Aベストアンサー

戦争で最初に犠牲になるものは兵士でも
女子供でもない。
最初に犠牲になるもの、それは「真実」である。

■日中戦争犠牲者数の推移
終戦時    130万人  GHQ発表
終戦時    130万人  国民党発表
1948年    438万人  国民党政府報告書
1950年代   1000万人  共産党政権発表
1970年    1800万人  共産党政権発表
1985年    2100万人  共産党政権発表(抗日勝利40周年)
1998年    3500万人  江沢民発表
2005年    5000万人  卞修躍博士発表(抗日勝利60周年)

何故増えて行くのか、中国政府の説明は無い。

こういう類の事件について、真実を知ろうとすれば
それこそ、生涯を使って、自分で一次証拠を集め、調べないと
判りません。いや、それでも判らないかもしれません。

専門家でもなければ、一応のことで満足するしか無いのです。

それでも判明していることだけを記します。

1,南京事件
 提出されている証拠にはウソが多い。
 それに対して、ウソの証拠を出した人は、ウソが判明しても説明もせずに
 次から次へとウソの証拠を出してくる。

 右側の学者は否定し、左側の学者は肯定するという
 珍妙な事態になっている。
 イデオロギーにより、真実も変化する、という典型。

2,慰安婦
 証拠は存在しない。
 あるのは慰安婦と称する女性の証言だけ。
 しかし、その証言を裏付けるものは発見されていない。
 それどころか、証言と反対の事実ばかりが
 発見される。
 証言者の供述も二転三転している。

3,真珠湾
 米国のカルフォルニア州の高校の一部の教科書で、ルーズベルトは
 知っていた、と記載されている。
 米国は似たようなことについて、過去多くの前科がある。

4,通洲事件
 あまり勉強していないのでコメントできません。
 スミマセン。

戦争で最初に犠牲になるものは兵士でも
女子供でもない。
最初に犠牲になるもの、それは「真実」である。

■日中戦争犠牲者数の推移
終戦時    130万人  GHQ発表
終戦時    130万人  国民党発表
1948年    438万人  国民党政府報告書
1950年代   1000万人  共産党政権発表
1970年    1800万人  共産党政権発表
1985年    2100万人  共産党政権発表(抗日勝利40周年)
1998年    3500万人  江沢民発表
2005年    5000万人  卞修躍博士...続きを読む

Q2.26事件について

2.26事件が後の日本に与えた影響を具体的に教えて欲しいです。
出来れば、その際の政府側の対応も具体的に教えていただけると有難いです。

Aベストアンサー

 最大の影響は「軍にとって都合のわるいことをするとテロでやられる(軍にはそうしたテロを積極的にとりしまる意思がない)」という恐怖感を政治家に植えつけたこと。次にこれは二・二六以前から顕著になってきていた世相ですが「世の中はこのままではいけない。貧しい苦しい思いをして生活している人をどうにか社会が助ける制度を作らなければいけない」という社会民主主義の潮流がたかまったこと。社会民主主義的傾向は、右翼ではいわゆる新体制・統制経済もしくは北一輝的な国会改造論の方向へ、左翼では社会主義革命の方向へ進みます。以降、政党の影響力がうしなわれてゆくのは第一の事情によって政治家がおじけつき、その分軍の進出をゆるしたことと、第二の事情が政争にあけくれていた政党の内部でつよく認識されていなかったために、国民心理から徐々に乖離しはじめていったこと、の二つの理由によります。その意味でも戦前の議会制民主主義の終焉となる事件だったのではないでしょうか。

Q2.26事件 当時の世論の反応について

1936年の、2.26事件当時の世論の反応についてこの場を借りてお尋ねさせていただきます。
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よろしくお願いしますm(__)m

Aベストアンサー

>世間は、どのように感じたのでしょう?
どのように感じたのかを知るのは歴史の専門家でも難しいようです。
報道管制がしかれ、実態はふせられたまま、青年将校の高官に対する暴力行為だけが報じられていたようです。
この為に関係者の家族は相当に肩身が狭かったようです。
全国的には、新聞報道から翌日、遅くとも翌々日には知られていたようです。
東京市内はさすがに、軍隊が移動したりアドバルーンが上がったりで、相当騒然とはしていたようです。
情報源は何分にも新聞とラジオだけで、これに規制がかけられたのですから、庶民には縁遠いものだったでしょう。

尚昭和11年というのは、まだまだ大正時代の雰囲気が残っていた時代です。
2・26事件の主要人物であった眞崎甚三郎が残した記録によると、当時の陸軍士官学校の雰囲気は軍国主義とは縁遠いものです。
当時の士官学校生は、軍事と文化は相いれないものと考えていました
当然、雨天の演習などは野蛮人がやることだと考えていました。
人の道徳的行為の価値は自立である、他より強制されて行った事は道徳上価値なし、と考えていました。
いわゆる旧制高等学校と変わらない雰囲気だったようです。
校長となった眞崎もさすがに驚いたようです。

堀辰雄「風立ぬ」太宰治「晩年」石川淳「普賢」は昭和11年に出版されました
横光利一「旅愁」永井荷風「墨東奇譚」志賀直哉「暗夜行路」岡本かの子「金魚繚乱」川端康成「雪国」は昭和12年に出版されました。
漫画では「ふくちゃん」の連載が昭和11年に始まっています。
流行歌では「忘れちゃいやよ」「ああそれなのに」「東京ラプソディー」が昭和11年にヒットしています。
浅草国際劇場は昭和12年に開場しています。
米国映画「オーケストラの少女」が大ヒットとなっています。

国民感情と軍の上層部とでは相当に時代認識が違っていたようです。

昭和12年の日支事変(日中戦争)勃発後、戦局が不利になるに従い軍部が強権を発動して急激な引き締めをやった挙句が敗戦でした。
ネトウヨと呼ばれる人々がいかに偏った情報で物事を考えているのか御理解願います。

>世間は、どのように感じたのでしょう?
どのように感じたのかを知るのは歴史の専門家でも難しいようです。
報道管制がしかれ、実態はふせられたまま、青年将校の高官に対する暴力行為だけが報じられていたようです。
この為に関係者の家族は相当に肩身が狭かったようです。
全国的には、新聞報道から翌日、遅くとも翌々日には知られていたようです。
東京市内はさすがに、軍隊が移動したりアドバルーンが上がったりで、相当騒然とはしていたようです。
情報源は何分にも新聞とラジオだけで、これに規制がかけられ...続きを読む

Q太平洋戦争の南方方面において日本軍兵士は、どんな物を食べて過ごしたのでしょうか?

食料は現地調達であったとも聞きます。どこから、どんな風に調達したのでしょうか?
ご回答よろしくお願いします。<(_ _)>

Aベストアンサー

余裕があったんじゃなくて、
太平洋戦線では多くの島で屯田命令がでて
兵士たちは自給自足するように命令されたのです。
これは要するに補給船の不足と
制海権を失ったために事実上不可能になったためす。
マヌケで有名な辻参謀なんか
ジャングルを探せば食べ物が見つかると思ってたようですが
実際にはジャングルは世界でも有数の非常に痩せた土地で
1人分の食料を得るのに広大な土地を歩き回る必要があって
とても部隊が食っていけるような状況ではなかったのです。
だからニューギニアなどでは原住民の村を襲ったりして食料を手にし、
最終的には餓死よりもマシというので
米-オーストラリア軍に対して絶望的な突撃をして9割以上が戦死したという
世界戦史上最も凄惨な戦いとなったのです。
ニューギニア戦線はそれで有名です。ガダルカナルも餓死で有名ですがね。

元来は内地からの補給が不可欠です。大勢の人間を養えるような
食料自給能力がないわけですから。
ベトナムなどで終戦まぎわにベトナム人が大量に餓死したのは
日本軍が軍隊用に供給するために米を過剰に奪ったからです。
おかげでベトナム人の食うものがなくなったというわけ。
そういう現地民に迷惑をかけても途中で輸送船が沈んだり
空爆にあったりで、日本の兵站システムは全く機能していなかったというのが現実です。

余裕があったんじゃなくて、
太平洋戦線では多くの島で屯田命令がでて
兵士たちは自給自足するように命令されたのです。
これは要するに補給船の不足と
制海権を失ったために事実上不可能になったためす。
マヌケで有名な辻参謀なんか
ジャングルを探せば食べ物が見つかると思ってたようですが
実際にはジャングルは世界でも有数の非常に痩せた土地で
1人分の食料を得るのに広大な土地を歩き回る必要があって
とても部隊が食っていけるような状況ではなかったのです。
だからニューギニアなどでは原住...続きを読む


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