ここまで、第3章でカーツワイル氏の指数関数的なテクノロジーの成長に対する事実認識の誤りを、第4章では「収穫加速の法則」の定義のあいまいさ、非論理性と実証的基盤の欠如に関して批判してきました。
けれども、その一方で、情報テクノロジーが指数関数的に成長を続けていることは、やはり疑いようの無い事実です。既に何度か述べてきた通り、人類文明全体の進歩が指数関数的ではなかったとしても、なお超人的人工知能の登場と「シンギュラリティ」の時期予測が直ちに誤りであると断言することはできません。彼の予測の直接的な根拠は、「ムーアの法則」の継続と「人間の脳の再現に必要な計算力の見積り(汎用人工知能の作成)」であるからです。
そこで本章では、カーツワイル氏の未来予測の根拠であるこの2点を検討します。
本件に関するカーツワイル氏の議論は難解であるため、本章の立論自体も込み入っています。また、私は部分的にはカーツワイル氏に賛同し、一部に反対するつもりです。そのため、本章の私の立論は必ず誤解されると予想しているので、最初に概要を説明しておきます。
第一に、「ムーアの法則」を再考するため、定義を確認します。この法則には物理的な限界が存在すること、そして、2000年代半ばには既にこの法則が持っていた経済的・コンピュータの性能向上への意味は失われていることを指摘し、量子コンピュータなど他の方法も代替手段になる可能性が低そうであることを述べます。
第二に、「汎用人工知能」の構築に対する見通しに関して検討します。
「脳全体のリバースエンジニアリング」と「脳全体のエミュレーションと精神転送」について、カーツワイル氏の議論には見落しがあるため困難さを過少に見積っており、遠い将来に渡って実現される可能性は小さいことを述べます。その根拠は次の5点です。
- 高解像度かつ広範囲で脳を観察する手段が現状存在しないこと
- 生命の情報処理の基本単位は、神経細胞やシナプスではなく分子であること
- 脳は完全に階層化されていないこと
- 脳のモデル化、シミュレーションとエミュレーション (精神転送) は異なること
- 仮に精神転送が技術的に可能であったとしても、成功を判定する実際的な手続きが存在しえないこと
第三として、既存の機械学習アルゴリズムが発展した先には、汎用人工知能は存在しない (可能性が高い) ことを説明します。そのために、これまでの人工知能 (機械学習) 研究を大づかみで解説します。そこで、機械学習アルゴリズムの基盤が人間の高次な2つの推論方法、すなわち演繹法と帰納法に基礎を置いていることを説明し、生物の知能はその2つのみでは説明できないことを述べます。
最後に第四として、脳の部分的なモデリング、シミュレーションおよび機械学習アルゴリズムの統合による汎用人工知能 (全脳アーキテクチャ) の実現可能性は、私も必ずしも否定するわけではないことを述べます。ただし、物理的、エネルギー的、計算的、経済的制約が存在するため、汎用人工知能が短期間で人間の知能をはるかに超越したものになることは否定します。
以上が本章の概要であり、この流れに沿って議論を展開していきます。