境界性人格障害の全ての事例が、過去の幼少期における外傷体験や喪失体験に原因を持っているわけではありませんが、『対人関係にまつわる情緒不安定性(感情易変性)』と『衝動性の制御困難』という症状が神経症水準を明らかに超えている場合には、心的外傷(トラウマ)や生物学的な内因が考えられます。 人格障害全般に薬物療法はあまり奏効しませんので、境界性人格障害も基本的には心理療法やカウンセリングの適応の範疇に入ることが多くなります。 しかし、境界性人格障害(Borderline Personality Disorder)の症状は正に多種多様であり、簡単に思い浮かぶものだけでも『他者への基本的信頼感の不全』『保護的な対象恒常性の不在』『自我アイデンティティの拡散』『生きる意味や現実感覚の喪失』『癒し難い孤独感と虚無感』『制御困難な自滅的な行動・自傷行為』など無数の問題点を抱えています。 その中でBPDの中心軸となる問題は、『不安定な依存性と攻撃性を併せ持つ対人関係・対人関係にまつわる情緒不安定』『強烈な自己否定感による反復的な自傷行為と逸脱行為・自傷行為の閾値を越えた自殺企図』『自我アイデンティティの拡散による生きる意味の喪失』に集約されると考えることが出来ます。 以下に、過去の受け容れがたい対人関係(家族関係)の経験としてのトラウマ体験と境界性人格障害(BPD)の関連を説明し、BPDに特異的な『自己に対する破壊衝動や攻撃欲求の現れとしての自傷行為』の症状と意義について詳述します。 その後で、両価性(アンビバレンス)を持つ極端な対人評価や見捨てられる不安などについても大まかに見ていきます。 虐待によるトラウマの影響は、『他者への攻撃性・暴力性』といった外向型の行動化として現れる一方で、境界例(境界性人格障害)に見られるような『自分自身に対する衝動的な破壊性・否定性』としても現れることがあります。 究極的な自己否定の行動化としては、実際に自殺計画を実行に移そうとする『自殺企図』があり、自殺企図の前段階として、日常生活の中で漠然と「早く死んでしまいたい、跡形もなくこの世から消えてしまいたい」と考えてしまう『自殺念慮・希死念慮』があります。 苛酷な家庭内の虐待状況において子どもの心に深く刻み込まれるトラウマ(心的外傷)は、『自分は父親からも母親からも愛されることのない生きている価値のない人間なのだ』『自分にはこの世界に安心してくつろいでいられる場所などないのだ』といった自己否定的な認知を生み出しやすくします。 但し、そういった家族性の病理や明確な心的外傷を抱えていないBPDの事例も多くありますので、BPDの人全てに病理的な家族関係や虐待の成育歴があるわけではないことには注意と配慮が必要です。 BPDの原因となるような過去の履歴が見られないケースにおいて、その原因を無理矢理に探し出して、現在の苦痛や困難をその原因に責任転嫁していくようなやり方はBPDの人だけでなく周囲の家族や知人をも同時に傷つけてしまうことになります。 『盲目的な過去の掘り返しによる原因探し』や『精神分析的な過去の時間軸における家族間の葛藤の洞察』をする前段階において、『現在の時間軸において講じることの出来る認知的対処や行動的技法の全て』をまずは尽くすべきだと考えます。 『自分自身に対する衝動的な破壊行動や自傷行為』として最も顕著に見られるのは、思春期の虐待経験者に多いリストカットやOD(オーバードーズ:薬物の過剰摂取)です。 リストカットは、特に10代の(精神疾患や心理的苦悩を抱えた)女性に多く見られる自傷行為で、精神医学領域では、『手首自傷症候群』や『リストカッティング症候群』という名前で呼ばれることもあります。また、その他にも、様々な方法や種類の自傷行為があります。 例えば、『自分の腕や足を強く血がでるほどに噛んで負傷する行為、頭を強く前後左右に振るヘッド・バンギングを意識朦朧となるまで続ける行為、ヘッド・バンギングが悪化して壁や床に頭を打ち付ける行為、固いコンクリートの壁やガラスなどを拳で殴ったり足で蹴ったりして負傷する行為、尖ったものや鋭い刃物で自分の身体を突いたり切ったりして傷つける行為、暴力的な性行為を誘発するような性的逸脱によって自分の心身を傷つける行為などがあります。 トラウマの悪影響の最大の特徴は、その『反復性と再現性』にあります。自己破壊的な行動や自傷行為の根本原因も、他者から与えられた苦痛や悲しみの抵抗しがたい再現性にあると言えます。 自傷行為をしている本人に、『何故、痛い思いをしてまで、そんなに自分を傷つける行為をするの?』と聞いても、明確にその理由を答えることが出来ない場合が殆どですが、その根本に虐待に限らず何らかの心的外傷体験が潜んでいる場合があります。 リストカットなどの自分を傷つける行為は『明日からは絶対にやめよう』と思ってもなかなか止められないことが多いのですが、自傷行為にはある種の依存性や強迫性のようなものがあります。なかなかやめられない習癖という意味で、習慣的に行われる自傷行為のことを『自傷癖』と呼んで嗜癖問題の一つと考える立場もあります。 自傷癖と呼ばれる一連の習慣的・継続的に行われる自傷行為を何故、行うのかという事について単一の理由を挙げることはできません。自傷癖は、過去に受けた深刻なトラウマ体験と関係していたり、他人との人間関係で感じる強烈な孤独感や見捨てられ感によって誘発されたりします。 自分で自分の身体や精神を傷つける自傷行為が実行されることは、どのような時に多いのでしょうか? リストカットやOD(オーバードーズ:薬剤の過量服用)を慢性的に繰り返している人の話を聞くと、大体、自分で自分を傷つける時には、『自分の弱さに向けられる怒りや嫌悪・他者に向けられる憤りと不満・世界に対する絶望と諦め』が強まっている心理状態にあるようです。 つまり、『自己否定的な観念で頭がいっぱいになった時』『自己批判的な感情によってパニックになった時』『家族・恋人・友人との人間関係がうまくいかず強い孤独感を感じた時』『強烈な虚無感に襲われ生きている意味が分からなくなった時』に、自傷癖を持っている人は自分で自分を傷つけてしまうのです。 ナイフや剃刀で自分の手首や腕を切りつけたり、爪で皮膚をかきやぶったり、頭を固い壁に打ち付けたりと自傷行動の方法は様々ですが、多くの自傷癖者は、自傷を行った後にある種の自己陶酔感や鬱屈した感情の浄化作用(カタルシス効果)を感じると語ります。 自分で自分を傷つける事によって、もやもやとした不安定な気持ちが安定したり、塞ぎこんでいた精神が爽快感を感じたり、混乱したパニック状態が鎮静したりすることがあります。また、こういった精神的効果を無意識的に欲求することで、自傷行為をやめることが出来ないという人が数多くいる事実にも注意する必要があります。 自傷癖や自傷行為は、一般に共感不能な抵抗のあるものとして認識されがちですが、自傷癖は悪い部分だけでなく(最終的には自傷をやめる事をカウンセリングの目標とすべきではありますが)、本人の精神的苦痛の緩和や混乱や抑うつの改善といった効果をもっています。 これらの事から推測できるのは、自傷行為を繰り返す人の性格構造には、『不安定な対人関係を作りだすコミュニケーション類型や衝動性を制御できないストレス耐性の弱さ、特定の習慣にこだわって苦痛を忘れる傾向性、自傷によって感情の混乱を解決する嗜癖』があるということです。 『対人関係に対する過敏性と不信感』の根源には、『見捨てられ不安』があり自傷癖を持つ人の中には、対人関係の維持や発展に関して強迫的なこだわりや執着を見せる人もいます。 精神発達論の観点からは、自己愛の発達ラインが病的な方向に傾いていて、自己表象と他者表象の区別が曖昧であり、愛する相手と離れている間に安心や満足をもたらす対象恒常性が確立されていないなどの問題を指摘することが出来ます。それ以外にも、いろいろな力動的心理学の発達理論によって、境界性人格障害の自己愛と対象愛の発達の問題点を考えることが出来るでしょう。 どんなに安定した精神構造や強いストレス耐性を持つ人であっても、大切な恋人や親密な友人と別れる状況では、つらくて悲しい気持ちになるものですが、自傷癖を持つ人の中にはこの『親密な人間関係の変化』が絶対に許せない、認められないという人がいます。 人間はある人への感情を永続的に維持することが難しい不完全な精神構造をもちますから、永遠不滅の親密な人間関係を意識して維持することはなかなか出来ることではありません。親しかった友人とも知らず知らず疎遠になることはありますし、愛してやまなかった恋人から裏切られたり、自然に別れへと向かう可能性もあります。 こういった人間の気持ちの変化や人間関係の終わりを柔軟に受け容れて諦めることは、確かに、健全な心理状態の人でも難しいものです。多くの人が、大切な相手との人間関係を失った場合に、強い抑うつ感や悲哀感を感じて、軽い人間不信や無気力に陥ります。一定以上の時間が経たないと、対象喪失の悲哀からは、なかなか立ち直ることが出来ないというのは普通のことなのです。 しかし、境界性人格障害の人や見捨てられ不安の強い人の場合には、何年間経ってもその裏切られた怒りや孤独感が癒えず、その見捨てられたように感じるショックによって、過去のトラウマが更に強固なものへと変質することがあります。そして、『終わりのない完全な愛情と強固なつながり』を求めて、過剰な人間関係への執着心を見せ続けることになります。 ■関連URL 個別的な多様性を見せるトラウマの影響:セクシャリティの外傷や家族間の虐待の再現性の問題 ■書籍紹介 BPD―境界性人格障害のアセスメントと治療
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『自己否定的な衝動性の行動化である自傷行為』とそれが持つ心理学的意味
前回の記事の続きで、境界性人格障害(BPD)などで起きやすい自傷行為についてもう少し深く掘り下げ、自傷行為が暗黙裡に突きつけてくる『心理学的な意味』について分析してみたいと思います。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2006/01/21 01:32 |
子どものトラウマに対応するプレイセラピー(遊戯療法)とユング心理学のコンステレーション(布置)の関係
ウェブサイトの記事で子どものトラウマと心理療法を書いたが、この記事では、機能不全家族で成長したアダルチルドレンや養育者から受けた虐待によるトラウマを中心にして「トラウマに対処する心理臨床」を考えてみた。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2006/12/28 19:23 |
他者の注目と好意を求めるハイテンションな演技性人格障害の特徴と表層的な人間関係
前回の記事では、衝動性・依存性・自己中心性・感情の不安定性などを特徴とするクラスターBの人格障害では『他人から認められたい(愛されたい)という外向的な承認欲求の過剰』があり、内向性・非社交性・妄想性・自閉性などを特徴にするクラスターAの人格障害では『他人と関わりたくないという内向的な不安の過剰』があるという話をしました。クラスターB(B群)には、『境界性・自己愛性・演技性・反社会性』の四つの人格障害が分類されていますが、このうち境界性・自己愛性・反社会性の人格障害については過去記事で詳述し... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2007/11/04 16:47 |
古典的なヒステリー性格の特徴と自己愛性人格障害:他者への信頼感と共感性の視点
神経症(neurosis)は心理的原因による心身の機能障害と位置づけられますが、無意識的願望や二次的疾病利得が反映されるヒステリーの自己暗示的な側面について過去の記事で説明しました。ヒステリーの身体症状(麻痺・けいれん・感覚‐運動障害)を発症させる自己暗示は何らかの疾病利得と関係していることが多いですが、クラスターBの人格障害へと推移したヒステリー性格は『他者の注目・関心・評価』を求める外向型性格の過剰に由来しています。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2008/05/31 05:42 |
境界性人格障害の特徴としての『衝動性・依存性・空虚感・不安定さ』と対人関係のトラブル
境界性人格障害(境界性パーソナリティ障害)は、『衝動性・依存性・攻撃性・空虚感』を特徴とするクラスターBの人格障害で、『対人関係のトラブル・コミュニケーションの緊張』を引き起こしやすくなります。境界性パーソナリティ障害を抱える人の『人格構造』は極めて脆弱でストレスに弱く、『相手の反応・環境の変化・悲観的な推測』などによって感情や気分が急速に不安定になります。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/08/07 15:46 |
ジャック・ラカンの『大文字の他者』が支える象徴的秩序と境界性人格障害のコミュニケーションの問題
ジャック・ラカンの精神分析学では人間は現実界において『無意識的願望(本当の欲望)』を十全に満たすことができない、このことは『他者とのコミュニケーションの不完全性』という外観をとって現れることになる。『他者とのコミュニケーション』というのは、外向的で社交的な人にとっては極めて気軽で簡単な行為に過ぎないが、内向的で回避的な人にとっては精神的緊張を伴う難しい行為にも成り得る。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/10/23 06:44 |
社会的ひきこもりの定義と心理行動パターン2:非社会的問題行動と相関する心理社会的な要因の分類
人間の『生の本能』を有効活用する『森田療法』を創始した森田正馬(もりたまさたけ)は、他人から見られたり他人と話す場面において、自分が他人に不快な影響を与えないか、相手から自分がバカにされないかという過剰な不安が生じ、その結果として対人関係から逃避してしまう神経症的病理を『森田神経質』と名づけた。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2011/07/08 01:09 |
境界性・自己愛性のパーソナリティ障害と自己愛の発達2:自己アイデンティティの脆弱性と依存性
精神分析のリビドー発達論では、自己愛障害(クラスターB)とは『本能変遷(自体愛→自己愛→対象愛)』を停滞させられる精神発達過程の障害によって発症するものであり、『トラウマ(愛情の欠落あるいは過剰な溺愛)を受けたと想定される早期発達段階』への固着・退行によってその症状形成のメカニズムが説明されています。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2012/01/22 12:24 |
H.コフートの“誇大自己”と“理想化された親イマーゴ”から見る境界性パーソナリティ障害:1
前回の記事で説明したH.コフートの自己心理学では、向上心を伴う『誇大自己(grandiose self)』と理想を目指していく『理想化された親イマーゴ(idealized parent imago)』が相互作用することで進んでいく心的構造の形成過程を『変容性内在化(transmuting internalization)』といいます。H.コフートの自己心理学では、自己愛性・境界性・演技性などクラスターBのパーソナリティ障害の人格形成過程は、『変容性内在化(transmuting inter... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2012/02/18 17:04 |
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