あの山本五十六を騙した詐欺師がいた……!歴史の隙間に埋もれていた秘話を、ご存じだろうか。
昭和16年12月8日の真珠湾攻撃のおよそ3年前、東京の官庁街・霞が関の海軍省で、「街の科学者」と称する男が、「水からガソリン」を生成する「実証実験」を行った。命じたのは、のちの連合艦隊司令長官の山本五十六。現場の責任者は、「神風特攻の生みの親」大西瀧治郎。
ふたりとも、大艦巨砲主義を排し、最新の戦術である航空兵力が勝敗を決するのだと主張していた、先見の明をもつ人物である。そのふたりが、「水からガソリンができる」という男の話を信じ、実際に実験を命じたのだから、驚くほかない。なぜ彼らは、こんな話に騙されてしまったのか。「水からガソリンができる」という希望が、戦況予測に影響を与えることはなかったのか。
石油・戦争・日本人をめぐる数奇な歴史ノンフィクション『水を石油に変える人 山本五十六、不覚の一瞬』は、大西瀧治郎が遺していた58ページにおよぶ「実験報告書」を「発掘」するなど、実験をおこなった「街の科学者」の実像に焦点を当てて、戦前昭和の不可解で不条理な一面を照らしだす。本書を執筆した、近代史家の山本一生氏に話を聞いた。
――本書の「主人公」は、山本五十六ではなく詐欺師なんですね。まず、そこに驚かされました。
ふたつの世界大戦の間、つまり戦間期の大正、昭和、そして日中戦争から始まり太平洋戦争にいたる戦前の歴史には、じつはまだまだ不明なことがたくさんあります。これまでも、木戸幸一や原田熊雄、外務省の石射猪太郎の日記など、さまざまな一次史料をもとに、昭和天皇はもちろん、陸軍や海軍、内閣の主要人物に注目した本はあります。でも今回は「得体の知れない」といったら失礼かもしれませんが、詐欺師相手に、なぜ歴史学的なアプローチをされたのですか?
山本 もともと執筆のきっかけは四十数年前のことです。大学では、近代史を研究されている伊藤隆先生(東大名誉教授)に師事して歴史の勉強をしていたのですが、就職を決めた石油会社に入社する直前に、敬愛する作家のひとり、阿川弘之さんの小説『山本五十六』を読んでいたら、この「水からガソリン」事件の話が出てきまして…。その一節に、なにかひっかかるというか、ちょっとした違和感があったんです。
稀代の詐欺師が帝国海軍トップを手玉に取るという痛快な話ですが、山本五十六も戦死、そこに登場する大西瀧治郎も終戦の翌日に自刃しています。阿川さんがお書きになったのは、おそらくは生き残った人たちの証言をもとにしていて、一方的というか、亡くなった人たちの言い分が採用されないまま書かれているように感じたんですね。
実際、事件のことを調べ始めると、まさに詐欺師を狂言回しにいろんな人物が錯綜して、事実は小説より奇なりというか、面白い発見の連続でした。
――それが気になってから、すぐに調べ始めたのですか?
山本 いえいえ、20年前に会社を辞めて伊藤先生のもとにもどって、有馬頼寧(伯爵。競馬の有馬記念で有名な、久留米の殿様の家柄)の日記研究のお手伝いが一段落したあたりからです。詐欺師にこだわったのは、「恋と革命」なら恋のほうを、「詐欺師と政治家」なら、詐欺師のほうを、書きたいからです。
――つまり、大きな事件や大物よりも、一見とるにたらない人物やその人生の細部に「真実」が宿るとみたわけですね。たしかに、「2.26事件」や「盧溝橋事件」のような歴史年表を飾る大舞台ではない、「水からガソリン」を製造するとか、富士山麓から石油が噴出したとか、まったく忘れ去られているあの戦争にいたるまでの世相が、丹念な史料の読み込みによって、まるで目の前のテレビでニュース番組を見ているようなリアリティで迫ってきます。
そして一介の詐欺師のウソなどと比べものにならないくらいの大ウソ、国家の大詐欺に国民が騙されていく。それにしても、膨大な史料、よくもここまでたくさんの文献にあたりましたね。
山本 調べるのが好きじゃないとできないですね(笑)。
――どこの時点で、といいますか、これは、書けると、手に入れたときに手ごたえがあった史料、いちばん役に立った史料はどれなんでしょう?
山本 山本五十六に飛行機の操縦の手ほどきをした海軍の城英一郎の日記の中に、「水よりガソリンの件、一杯食わされたり」という五十六の肉声を見つけたときでしょうか。天皇の侍従武官をつとめているときに、五十六戦死の訃報に接し、その後の国葬の様子を綴っています。
しかし、なんといってもいちばん重要な史料といえば、大西瀧治郎が遺した「実験報告書」です。これがなければ、事件の骨格も、主要な人物の足跡を手繰り寄せることもできなかったでしょう。