使わなくなったモノを倉庫にしまう。
捨てずに取っておく心理としては「いつか使う時が来たら困るから」だろうが、断言する。
いつかはやってこない。
自分が使っているモノでさえ、他人にとってはゴミだ。
スポンサーリンク
モノを捨てられない父
モノを捨てられない父はよく、わたしに「これを使いなさい」と渡してくる。
父とわたしの趣味が同じで、ちょうど欲しかったモノであれば喜んで受け取っただろう。
しかし、父とわたしの趣味は正反対。
わたしは極力シンプルなモノやデザインを好み、父は派手でこってりしたデザインを好む。
新居のカーテンを選んだ時も、その違いが現れた。
わたしが真っ白な無地を選んだのに対し、父が提案したのは大きくバラの模様が全面に入ったデザインの、まるで昔の貴族が好みそうなカーテンだった。
余計な模様や柄のない、機能性の高い白の壁紙を選んだわたしとは正反対に、シャンデリアのような模様が羅列された、紺と金色でフランス製の壁紙を気に入っていた。
そして長年、わたしの部屋はそのフランス製の壁紙だった。
人の趣味に口を出すつもりはない。
ただ、自分で使わなくなったモノを誰かに譲ろうと考えるのは良くない。
趣味が合わないので断ると、「お前には価値がわからないんだな」と言われたこともある。
モノを巡る悪循環
「これはいいモノなんだから、使いなさい」
「しゃなりには到底手の出ない、すごく高いモノなんだ」
確かに、ひとつひとつを見るととても豪華な品だ。
とてもじゃないが手が出ない。
でも、わたしは思う。
それなら自分で使えばいいのに。
結局使わないけど捨てるのも忍びないから、誰かに使ってもらうことで罪悪感を消そうとしている。
買ったはいいが飽きてしまい、しかし高かったが故になかなか手放せないのである。
そうだ、あの人に譲ろう!と意気込んで提案するも、断られると自分自身が否定されたような錯覚が起きて、嫌な思いをするのだ。
モノを譲ろうとして断られると余計な一言を口にするのは、このような心理からであろう。
譲られても迷惑
一人暮らしを始めるにあたって、家具を設置する流れになった。
確かに、机は欲しい。
わたしは腰痛持ちなので(20歳くらいでギックリ腰を経験)、L字型に座るよりも椅子に座った方が、パソコン作業がはかどる。
でも欲しかったのは、倉庫にしまわれて強烈なカビの匂いが取れなくなった机ではない。
引き出しからとんでもない匂いがするので天日干しをしたが、全く効果はなかった。
この机に関しては、未だに頭を悩ませている。
ちなみに引き出しからは、黄色く変色した写真(10年以上前に撮影)が出てきた。
安くてもいいから、引き出しも何も付いていない、シンプルで清潔な机がいい。
確かに、カーペットは欲しい。
フローリングよりもカーペットを全面に敷き詰めた方が、床を傷つけなくて安心感があり、快適に暮らせる。
でも欲しかったのは、目の覚めるような赤い絨毯ではない。
模様は、中性ヨーロッパといえばイメージしやすいだろうか。
花柄模様の壁紙に、赤い絨毯。
最近遊びに来た友達からは「バブルの雰囲気があるね!」と評価された。
この絨毯も非常に高級らしいが、はっきり言って全然気に入っていない。
気に入っていないならむしろない方がいいと思うが、一定期間使わないと何か言われそうなので(笑)、今のところ敷いたままである。
好きなカーペットを自分で買えるのが楽しみのひとつ。
自分が死ねば全部ゴミ
こんな経験があるので、不要になったモノを他人に譲るのは極力控えている。
使わなくなったiPad2を放置していた。
いらないが売るのも気がひけると伝えたら、知人が欲しいと言う。
磨いて初期化したら、まるで新品のように蘇った。
充電器もセットで差し上げたら、さっそくYouTubeを見て楽しんでくれていた。
譲ろうとした相手が断ったら、さっぱりと引く。
そもそも自分から「欲しい?」と聞かない。
この信念を念頭に、喜んでもらえるモノならば譲る。
ところが、自分が不要になったモノは、結局のところ他人にとってもほとんどがゴミである。
捨てる手間を増やさないためにも、モノを買ったり貰ったりする際には「これはどんな時に使う?」と考えてみること。
自分が死んでしまったら、楽しい思い出とお金以外は全てゴミだ。
あまりモノを増やしたくないし、溜めたくもない。
いつ死んでも恥ずかしくないように、身の回りをキレイに整えて生きていきたい。
アニソンブロガー南 咲希(@minamix_syanari)より。
しゃなりぉー!(・ω・)/