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明治の自由民権運動の騒動も鳴りをひそめると秩父は殖産興業「秩父絹織物」で大変賑わいました。
がちゃまんといって、機械をガチャンとすると万のお金が儲かるといわれるほど生産性の高い産業でした。
秩父の名峰武甲山が石灰石であることが帝国大学の調査でわかると、絹織物と石灰石を運び出すための鉄道の布設が計画され、
急ピッチで工事が始まりました。
大正4年には、熊谷駅から影森駅間が開通し長瀞観光とともに長生館も開業の運びとなります。
長生館初代摠次郎は秩父で旅館を営業しておりましたが、新しく始まった観光地長瀞で長生館を始めました。
創業は大正4年です。
「渓の音 遠く澄みゐて春の夜の 空けやらぬ庭に 鶯の啼く」
大正9年若山牧水が長生館に宿泊し短歌を残しました。
大正年間は長瀞観光黎明期です。長生館から上長瀞までと宝登山神社参道ソメイヨシノを植えて花の長瀞を創ってゆきます。
また大正13年には、名勝及び天然記念物の指定を受けることでいっそうの飛躍をしました。
昭和の初め、平和な時代でしたソメイヨシノも成長をして、桜の時期は秩父鉄道に乗りきれないほどのお客様で長瀞は大賑わいでした。
秩父織物も盛況で、秩父セメントも活況を呈していましたから長生館は芸者も置いて秩父の奥座敷として賑わいました。
戦争が始まると自給自足の時代となります。従業員は農業をして暮らしました。
戦争末期の頃は東京の色々な会社の疎開先となりました。
お客様も一緒に農業をしたそうです。戦争が終わり、混乱した時期も一段落をすると、観光も復活してきました。
戦前とは違って、色々な人が宿泊で旅行をする時代となります。
「これよりは尚奥秩父鮎の川」昭和28年高浜虚子が宿泊をし、俳句を残しました。
二代目一男は昭和32年それまでの離れ座敷を取り壊し、新しい建物を建築しました。
お風呂は「瀞のいで湯」と銘打って温泉情緒を味わえる工夫をしました。
日本経済も新しい時代を迎え、春秋の慰安旅行の団体や夏休みの家族旅行など宿泊のお客様もだんだん多くなってきました。
観光バスの発展により、日帰り行楽地として首都圏から丁度良い距離の長瀞は、お昼の団体客も大幅に増加しました。
昭和41年には、昭和天皇陛下皇后陛下の行幸を頂きました。
日本も高度成長真っ只中、旅館もコンベンションを求められるようになって、たくさんの旅館が先を争って増改築をし、
新しい旅館に生まれ変わってゆきます。
昭和47年玄関を新築し洋間の会議室を増築しました。履物のままお部屋へ入れるようになり大変便利になりました。
バブルの時代に突入すると、旅館の設備投資合戦が激化します。
三代目の私は昭和58年建物を一新して近代的なホテル旅館に改築をいたしました。
全ての客室が川に面しています。どの部屋からも長瀞の景色が一望できます。大広間は大きなガラス越しに景色が飛び込むようです。
平成5年今上陛下皇后陛下の行幸を頂きました。
バブルはたくさんの大きな問題を現在に残していますが、旅館が大きく脱皮をし近代的になったという功績もあります。
長生館もこの間ロビーラウンジの改装、うどんレストランの開業などリニューアルに努めました。
平成10年にお客様のご要望で一番多かった「露天風呂」を増築しました。
埼玉県は草津や箱根のような循環型の天然温泉がありませんがたぐいまれな風光を持っています。
長瀞の景色の中でゆっくりと露天風呂に入れば日頃のストレス解消にはもってこいです。
長生館はまもなく創業100年を迎えます。これも一重にごひいきを頂く、たくさんのお客様のおかげです。
今後もたゆまぬ努力をしお客様に十分ご満足を頂けるよう努めて参ります。
長生館館主 小埜一博