1970年代後半にニューヨークで起こった前衛的なロック・シーン、"ノー・ウェーブ"の中心的存在だったアート・リンゼイ。11本だけ弦を張った12弦ギターをノンチューニングで掻き鳴らす独自の奏法で、シーンを魅了した。
3歳のときに家族と共にブラジルに引っ越し、17歳までを過ごしたリンゼイは、1977年にノイズ・パンク・バンドDNAを結成。ブライアン・イーノのプロデュースによる歴史的コンピレーション『NO NEW YORK』などに参加し、当時のNYアートカルチャーを牽引していた。
坂本龍一、大貫妙子、三宅純、小山田圭吾ら日本人アーティストと親交が深いことでも知られるリンゼイが、長年のソロ活動を経て、前作『Salt』以来およそ13年ぶりにオリジナルアルバムをリリースした。ツアーのため来日したリンゼイにインタビューを行った。
2017年1月に13年ぶりのオリジナルアルバム『Cuidado Madame』をリリースされましたが、その13年のあいだはどんなことをされていたのですか?
それまでにやってこなかった、さまざまなことをやっていたんだよ。ニューヨークやベルリンで、"パレード"という名のアート・パフォーマンスを企画したり、ソロ活動を始めたり。今回、新しいバンドと新しいレコードを作るのはとてもエキサイティングだったね。
新しいバンドメンバーとはどのように出会ったのですか?
ベースのメルヴィン・ギブスとは長年一緒にやっていて、パーカッショニストとも長い仲なんだ。メルヴィンがドラマーのカッサ・オーバーオールに興味があって、そのカッサを通じて、キーボードのポール・ウィルソンと出会ったんだ。彼らはすごく若いから、今のバンドは二世代編成なのさ。
今回のアルバムのテーマは、ブラジルの民間信仰カンドンブレとアメリカのゴスペルの融合とのことですが。
ブラジルのアフロ・ミュージックとアメリカのゴスペルをミックスしたものを作りたかったんだけど、ブラジルのアーティストをアメリカに連れて行くほどの資金がなかったんだ。そういうアイデアから始まったのは事実なんだけど、実際は違うものが出来上がった感じかな。
アフリカの人々がアメリカに奴隷として連れてこられたとき、一緒に彼らの文化や宗教も入ってきて、それがアメリカで独自に発展していった。みんな忘れがちだけど、そういうものがアメリカやブラジルの音楽のルーツになってるんだ。そしてアメリカのゴスペルは、ジャズにとても強い影響を与えている。特に最近出てきた若いジャズミュージシャンの多くは、ゴスペル出身なんだよ。
あなたと親交の深い坂本龍一さん、小山田圭吾さんも今年アルバムをリリースしました。
圭吾の新作MVを見たけど、とても美しくてセクシーだった。これまでは若い人々向けの作品が多かったから、圭吾にとって初めての大人向けレコードなんじゃないかな(笑)?
坂本龍一さんの作品はいかがですか?
龍一の新作も素晴らしいよ。彼とは先日サンパウロで会ったんだ。三宅純たちとみんなでハングアウトしたよ。
親交の深い3人が同年にアルバムをリリースしたことは、ただの偶然?
とても素敵な偶然だよね。奇跡だと思う。龍一は今日本にいないから会えないけど、圭吾には滞在中に会おうと思ってるよ。
いつ頃、音楽を始めたのですか?
高校生のとき、ロックバンドでボーカルをやってたけど、実はニューヨークに引っ越すまでは何になりたいかわからなかった。最終的にはミュージシャンになったけど、当時の僕は若くて、ダンサー、アーティスト、作家にも興味があった。とにかく何かになりたかったんだ。
3歳から17歳までブラジルで育ち、高校卒業後にフロリダの大学に進学し、その後ニューヨークに移り住んだのですよね。初めてギターを弾いたときのことを覚えていますか?
たしか1977~8年あたりだね。それは概念的とも言える、特別な瞬間だったんだ。そのとき僕は、自分独自のスタイルでギターを弾いていくと心に決めたんだ。ギターの弾き方なんて勉強しないぞって(笑)。僕は今でもビートルズみたいには弾けないんだよ。
子どもの頃はどんな音楽が好きでしたか?
僕はブラジルのガラニュンスという小さな街で育ったんだけど、50年代のブラジルは電気の供給が不安定だったから、よく街中が停電して、数時間真っ暗になることも珍しくなかった。母はピアノがとても上手だったから、停電中はよく僕ら兄弟にピアノを聞かせてくれたんだけど、その時間が僕は大好きだった。その頃から、母が好きな音楽を聞くようになったかな。
大学では何を勉強していたのですか?
文学だよ。あと演劇も。
演劇や映画にも興味があったんですね。お好きなジャンルなどはありますか?
60~70年代の映画が大好きだった。ジャン=リュック・ゴダール、フェデリコ・フェリーニ、大島渚。若い頃は映画をよく見たけど、最近はあまり映画館に行かなくなったな。昔は映画の途中でも映画館に自由に入れたし、好きなときに出ていくことができた。今は警備員が見張っていて、映画の冒頭にしか入場できないし、終わったら出ていかなければならない。昔は、「キスしろー!」とか「気をつけろ!」とか、観客が自由に叫んでさ。クレイジーだったけど、楽しい時代だったよ。
最初に買ったレコードを覚えていますか?
スティービー・ワンダーの『Talking Book』だったと思う。11〜12歳くらいだったかな。それを買ったレコード屋のこともよく覚えているよ。街の中心に四角いオープンスペースがあって、レコード屋もそこにあった。放課後になると、10代の若者たちは毎日そこに出向いて、ブラブラしていたんだ。そこには色々な形に剪定された木が並んでいてとても素敵だったんだけど、今はそれらも切り倒されて、現代的なプラザみたいになってる。
昔の街のほうが好きでした?
子ども時代の思い出の街だからね。小さな町から大きな街に引っ越していく、よくある話さ。
そういった環境で育ったことが、ご自身にどのような影響を与えたと思いますか?
たくさんの空間と時間があったから、色々と思考を張り巡らせることができて、それはとてもいいことだったと思う。でも同時に、大きな変化や刺激や情報への渇望もあった。フロリダに移住したときは、寂しさと興奮、両方あったよ。両親から離れることには、とても興奮していたけどね(笑)。
初来日したときのことは覚えていますか?
バブル期の1984年だった。ツアーで1ヶ月くらいかけて日本中を回ったんだよ。友だちは先にニューヨークに帰ったけれど、僕はすごく日本に興味が湧いて、仕事が終わった後も2~3週間留まったんだ。
その後も何度も来日されていますよね。どんなところに惹かれたんでしょう?
好きなんだよ、単純に。国全体にアートやカルチャーが根付いているし、美への探求みたいなものも洗練されていてアメリカとは違う。1950年代、多くの詩人やアーティストが日本に憧れていたんだよ。ヨーロッパの人はアフリカに惹かれて、アフリカの人はアメリカに惹かれて。場所や距離って、お互いに刺激し合うものだよね。僕はいつも、もっと長い期間日本に滞在したいと思ってるんだ。僕には13歳の息子がいるんだけど、もう少し大きくなったら連れてきたいと思ってる。ミュージシャンって、基本的には自分が居たい場所を選んでそこに居られるものだからね。
日本人に対してはどのような印象をお持ちですか?
日本人ってファンキーだと思う。一般的にはとても硬派なイメージがあるんだけど、実際はそこまで硬派じゃないよね(笑)。坂本龍一と『beauty』というアルバムで一緒に仕事をしたとき、沖縄出身のボーカルグループ、ネーネーズと出会ったんだけど、彼女たちはいつも愉快で、本当にファンキーだった。
今はどんなことに興味がありますか?
戦後の日本の歴史やアートは、暴力的でセクシャルで、とても美しいものばかりだからすごく興味があるよ。最近買った土方歳三の本もとても面白い。でも、今の日本は以前ほどオタク文化が色濃くないよね。昔、青山にあったレコード店<パイドパイパーハウス>には、独特なテイストで個性の強い作品ばかりが並んでいたものだけど。
日本のファッションについてはどう思いますか?
とてもユニークだと思うし、ファッションに対して自由な発想を持ってるところが好きだよ。僕は川久保玲の大ファンなんだ。アルバムにスペシャル・サンクスのクレジットを入れたこともあるほどね。
そういえば先日、ワイドパンツを履いた男子学生を見たけど、とてもクールだった。みんなスキニーパンツには飽きたんだね(笑)。マイケル・ジャクソンのハイウエストなスタイルも、今ではデッド・ジーンズって言われてしまうんだから(笑)、ファッションとは常に新しいものへの渇望だね。
でも、年をとったらファッションには気をつけないといけない。僕みたいな白人のフランス人ジャズミュージシャンが、アフリカの民族衣装を着ているのを見たことがあるんけど、あれはとにかくダサかった!(笑)
13年後にはまた新しいアルバムを聞かせもらえますか?
これからはもっとアルバムを作るよ! 来年には、バンドの新アルバムを作りたいと思ってるんだ。
Text Sahoko Yamasaki
Photography Haruki Matsui