友愛主義に戯れ付くな―「自由、平等、友愛、さもなくば死」の現代的再解釈、あるいは外国人参政権と労働移民のイデオロギッシュな正体

公民権運動と一九六五年移民法以来、アメリカ左翼の共産主義化は留まるところを知らない。すべての人種と性別、年齢、性愛、宗教は等しいらしい(ただし、白人男性成人異性愛者キリスト教徒中流階級――「ディプロラブルズ」は別である)。共産主義の真っ只中で、アメリカ右翼は叫ぶ。「平等主義者め!」

平等主義の批判者は今一つ事態を理解しきれていない。左翼にとって平等はその三つ組みの理想の一角にすぎない。すべての始まりを思い出せ――Liberté, Égalité, Fraternité, ou la Mort(「自由、平等、友愛[1]、さもなくば死」)。共産主義者ジョゼフ・デジャックの言葉を借りれば、彼ら左翼はリベルテール(自由派)、エガリテール(平等派)、フラテルニテール(友愛派)であり、そしてテロリスト(恐怖政治と死の人)である。

  • [1] fraternitéの日本語訳は「友愛」と「博愛」が候補に挙げられるが、日本の代表的な友愛主義者鳩山父子に倣って「友愛」とするのが便宜に適うだろう。

彼らにとって、第一に、社会的権威を破壊して性愛や宗教など好き勝手に振舞うこと、寛容な無束縛を求めることが自由であり、こういう意味で、左翼はリベルテール(自由派)である。[2]第二に、無束縛で多様化させられた性愛や宗教などの価値には優劣がないと、寛容な無差別を求めることが平等であり、こういう意味で、左翼はエガリテール(平等派)である。

  • [2] 用語「リベルテール」――すなわち、古典的リバタリアン――の大戦後の発展的な用例はフランス人マルクス主義者ミシェル・クルスカールの作品に見出される。旧左翼の彼は新左翼の五月革命の省察から一九七〇年代に「リベラル=リベルテール」の概念を考案した。ここでの「リベラル」と「リベルテール」の意味は共産主義的ながら英語圏のそれほど腐り切ってはいない。 

さて、我々はしばしば平等主義者(エガリテール)を左巻きの出発点にして終着点であると誤解してきた。しかし平等にはその次がある。友愛だ。リベルテール・エガリテール政策のせいで、社会権威が転覆され、対抗文化や代替的生活様式が激増する。そのとき、それらをune et indivisible(単一不可分)に混ぜ合わせること、昨今「インクルージョン」や「インクルージブネス」と言われる、あの寛容な無隔離を求めること、あれが友愛政策である。この無隔離政策は強制統合強制同化、人種の場合ジェノサイドなどと言われる典型的な共産主義政策であり、その代表例としては、私的な集団において人種と性別、年齢、性愛、宗教などを政治的に混成するアファーマティブ・アクションオープン・ボーダー白人ジェノサイドが挙げられる。

今最も荒れ狂っている共産主義[3]の理念は、平等ではなく友愛なのである。

  • [3] 共産主義はソビエト連合あるいは旧東側陣営のマルクス主義イデオロギーではない。共産主義の理念型について、Murray Rothbard, Egalitarianism as a Revolt Against Nature, and Other Essaysを見よ。しかし平等主義より友愛主義こそが新左翼の大義になるとロスバードが気づくのはその追記の段になってからだった。

現行左翼が上記三つの課題に取り組んでいるというのはわたしの独断ではない。左翼リバタリアンの傑出した指導者の一人、ゲイリー・シャルティエは、「左翼リバタリアンの左翼」の意味、つまり「真正左翼の立場」を、「従属排除剥奪への反対」〔強調ママ〕と特徴付けた。[4]シャルティエいわく、従属(subordination)とは一方が他方に対する重大で頑固な権力をもつこと。その権力は物理的かもしれないが、また経済的、心理的、社会的または文化的でもあるかもしれない。要するに、反権威主義としての古典的リバタリアニズムだ。そして第二に、排除(exclusion)――エクスクルージョン! すなわち、左翼の観点で「適正」なメンバーシップの否認であり、左翼はこれと戦う。つまり友愛主義だ。もちろん頭脳派のシャルティエは「信頼できる左翼」としての適正な排除反対政策を長々と釈義するが、体制派の左翼としてはワッテバーの一言だろう。剥奪(deprivation)は三番目に来るが、原文では異様に短く済まされる。剥奪とは、物理的な生存と健康の欠如、衣料と住居の欠如、共同体の優勢な規範に応じた最小限の尊厳の資格を与えるだけの物質的環境が欠けていること。要するに、最小限の文化的生活の保障。もう終わった、控えめな平等主義だ。

  • [4] Gary Chartier, “The “Left” in Left Libertarian” (December 12, 2008) in LiberaLaw, [http://liberalaw.blogspot.jp/2008/12/left-in-left-libertarian.html] これは個人ブログだが、彼の主張は左翼シンク・タンクCenter for Stateless Society [https://c4ss.org/content/36472] で繰り返し引用され、多言語に翻訳されたようだ。

友愛の大義の表面化にもかかわらず、左翼の平等学説、エガリタリスムだけが突出して非難の的になっているのには理由がある。平等がルソーに遡る目立った理念であることは疑いない。残りの理由は言語的なものであろう。リベルタリスムについて言えば、それは英語では反権威主義から古典的自由主義の意味に流用されたせいで、既存の社会権威を破壊する学説というリベルタリスムの原義は政治的イデオロギーの問題とはされずに済まされてしまった。[5]しかし、イデオロギーの古典的な意味が保守されるフランスとスペインでは、新左翼はいみじくもリベルテールと認識されていた。かたやフラテルニタリスムについて言えば、それは男性普通参政権を「普遍的」と形容できた時代の言葉であり、今では博愛性よりは男付き合いを共示する。それは西洋諸国では決して性愛や性別の共産化をうまく表現できない。

  • [5] アメリカ・リバタリアニズムの理念型と古典的なリベルタリスム(反権威主義)の哲学的区別として、たとえばFrank Chodorov, What Individualism Is Notを見よ。しかしラッセル・カークら伝統保守主義者はアメリカ・リバタリアン運動の反権威主義を鋭く見抜いた。

いずれにせよ、自由平等友愛――言い換えれば、無束縛無差別無隔離――はすべて密接に連携した進行性の病である。平等だけが問題なのではない。その三つ組みを包括するイデオロギー、共産主義が問題なのである。

リベルテールとエガリテール、フラテルニテール政策に共通するのは寛容であった。しかし、激増した下等/劣等な趣味と作法が一箇所に強制統合されれば、ことが寛容に結果しないことは初めから分りきっている。かくて、最初から知られていたあの最後の理念が登場する――ou la Mort(逆らう者に死を)。革命的美徳の選言肢「ウ・ラ・モール」は歴史的には恐怖政治(テルール)と連合しており、ゆえに死はイデオロギーの上ではテロリズムに転写される。

フランス革命期のテロリストと現代左翼のテロリスティック(恐怖主義的)な共通性は明らかだ。どちらも左翼政策に熱狂しない者を処罰する。「熱狂しない」者はいつの世も左翼の敵である。今アメリカで叫ばれているとおり、「ファシストと同じ職場で働く者はファシストだ!」「あいつを人種差別と非難しないお前もレイシストだ!」「あいつの女性蔑視を許容するお前もセクシストだ!」そして、どちらも伝統(「因習!」)と常識(「偏見!」)に全面的に反逆し、民を家畜や機械のように操作しようとする。どちらも教育・情報機関の独占を追及し、憎悪習慣のごとき情緒統一を強制する。しかし彼らはまともな人々には相手にされない。だから最後の手段が恐怖(テロル)なのである。「恐怖なき美徳は無力である」――ロベスピエール。

心理的テロはポリティカル・コレクトネスとして大学のキャンパスで始まり、二十世紀末アメリカでは旧共産圏の人民がドン引きしたレベルで荒れ狂っていた。二〇一六年大統領選キャンペーンと敗退後デモンストレーションでは左翼が道行く人に未曾有の恐怖を撒き散らしたことが知られている。物理的テロは最後に来る。いや、もうアンティファが組織的暴力に手を染めている。これからはテロリズムの時代である。アメリカ合衆国連邦政府の名目上の「テロ」認定のことではない。本物のテロリズム、恐怖と死の政治だ。すでに、『弁護のレイシズム』の著者、「畜生の弁護士」エドガー・スティール[6]は「嘱託殺人陰謀」の罪で投獄され、謎の獄中死(公式発表では「健康状態の悪化」)を遂げている。おそらく次の金融崩壊が体制派テロリズムの更なる節目となるだろう。

  • [6] Edgar Steele、Defensive Racismの著者。

テロリズムはソ連崩壊後に始まった。エガリタリスムは大戦最中には始まっていた(軍国主義的画一化)。我々はこの間、二十世紀後半の、フラテルニタリスムの時代を看過していた。これは大失態だった。

メルクマークは存在した。新左翼の台頭を機に、二十世紀の前半と後半では左翼の方針が対角線的に反転したのである。アメリカでは、二十世紀前半は画一性が、後半は多様性が礼賛された。二十世紀前半はすべてを画一化することで平等を追求したエガリテールの時代であった。後半は、平等な多様化――「みんな違ってみんな良い」――を許した上で、すべての集団内に多様性を均等に割り当てる、フラテルニテールの時代であった。病は進行していたのだ。

このすべては日本にどう関わるのか? 日本が無条件降伏国であり、アメリカに追従していることを忘れてはならない。結局、ポリコレ左翼による日本語破壊の典型例、「外人」の「外国人」化は、国際友愛主義的(ひいては、国際共産主義的)と形容されることができた。外国人参政権と労働移民の論点はアメリカ新左翼の強硬な友愛主義の影響下にある。

友愛主義は財産とは相容れない。財産とは排他的所有であり、排除する権利、隔離する権利を意味する。自由主義――私有財産――は、束縛と差別、隔離の自由を意味する。財産の所有者は自分の財産の上に立ち入る者を束縛しなければならない。財産の所有者はありとあらゆる差別で自分の財産価値を高めなければならない。いかなる国民政府も国民財産の擬似信託者として、外人に対し同様に振舞わなければならない。

我々はもうフラテルニテールたちに負けつつある。しかし認識せよ。今まさに大災害を振り撒いているのが友愛主義(フラテルニタリスム)であることを。オープン・ボーダーの友愛リバタリアンが敵であることを。