3/8
空自はパイロットだけじゃない
自衛隊と市民の窓口となっているのが地方協力本部――略して「地本」だ。地本の主たる任務は自衛官の募集で、自衛隊の見学、説明、各種相談から、入隊試験を受けるまでの対応をしている。また退職した自衛官の再就職の斡旋のための企業対応や、予備自衛官並びに即応予備自衛官の人事管理や普及活動も行っているのだ。
大雨の影響で新宿の街を歩いている人は少ない。新宿イーストサイドスクエアの五階に置かれている地本に赴くと、空自の紺色の制服を着た女性自衛官が笑顔で出迎えてくれた。自衛官募集業務を担当する募集課で働いている、広報官の篠田由貴1等空尉である。篠田1尉に案内された晴花は、募集課の一角にある相談と打ち合わせ場所の椅子に腰掛けた。
「大雨のなか来てくれてありがとう。操縦適正検査、残念だったわね。辛かったでしょう?」
「……いえ、そのことはもう割り切りました。それで話ってなんですか?」
「晴花さんはこれからどうするの? 諦めずにパイロットを目指すなら、来年また航空学生の試験を受けられるし、防衛大学校生や自衛隊幹部候補生の試験も受けられるわ。防衛大学校生と自衛隊幹部候補生なら、適性検査で不合格になっても、幹部候補生学校でもう一度挑戦できるし、そこで駄目だったとしても、最終的には部隊の指揮官や幕僚とか、高い地位に就けるわよ」
「――パイロットになるのはもう無理なんです」
「なるのは無理って……どうして?」
晴花は膝の上に置いた両手を握り締め、萎れた花のように俯いた。
「航空学生の試験を受けたいって言った時、母さんに猛反対されたんです。パイロットの試験を受けるのは一度だけ、落ちたらパイロットになるのは諦める。わたしは母さんと約束して、航空学生の受験をやっと許してもらえたんです。でもわたしは不合格になったから、母さんと約束したとおり、パイロットの道を諦めないといけないんです。わたしだってもう一度挑戦したい。憧れのパイロットになれるなら、防衛大学校生でも、自衛隊幹部候補生の試験でも、なんだって受験します。でも、もう無理なんです。……わたしは二度とパイロットにはなれないんです」
そこまで言った時、張り詰めていた感情の糸がぷつりと切れた。
「どうしてわたしなんですか!? どうしてわたしが不合格なんですか!? わたしより操縦が下手な人や、パイロットに向いてない人が、たくさんいたじゃないですか! それなのにどうしてわたしが不合格になるんですか!?」
顔を上げた晴花は両目に涙を滲ませて叫んだ。理由も聞かされず不合格になった怒りと、思い描いていた夢を絶たれた悲しみが、渾然一体となって晴花の心を掻き乱す。篠田1尉に怒りをぶつけても現状は変わらない。パイロットになれなかったのは己の力不足だ。頭では分かっている、ちゃんと分かっているけれど、晴花は濁流の如き感情を堰き止めることができなかった。
「……晴花さんの気持ちはよく分かるわ」
お決まりの慰めの言葉に晴花は篠田1尉を睨みつけた。
「同情なんてしないでください! 篠田1尉には分かりません!」
「いいえ、分かるわ。私もパイロットの道を諦めたから」
「えっ……?」
思いもよらない発言に瞠目した晴花の前で、篠田1尉は自らの過去を語り始めた。
「私もね、ブルーインパルスに憧れて防衛大を受験してパイロットを目指したのよ。でも、飛行要員の操縦適正検査の直前に、いきなり倒れて病院に運ばれてね、あなたは重い貧血の病気だ、危険だから飛行機に乗るのはやめなさいって、お医者さんに言われたの。――だから晴花さんの気持ちは痛いほど分かるわ」
晴花を見つめる篠田1尉は悲しそうにしていなかった。それどころか我が子を抱いた聖母のように優しく微笑んでいた。
「晴花さん、航空自衛隊の特技はパイロットだけじゃないわ。管制官、航空機整備員、気象班、いろんな特技の人たちが空自で任務に就いてるの。私はパイロットになれなかったけれど、今は広報官になって良かった、広報の仕事が楽しいって思えるようになった。私がそうだったように、あなたに合った特技があると思うの。夢を持ち続けていれば、いつかきっと別の形で叶うわ。だからもう一度だけ頑張ってみない?」
晴花は目が覚めたような感覚を覚えた。篠田1尉の言葉は、晴花の心に絡みついた悲しみと怒りの糸を、ゆっくりとほどいていった。あんなに激しかった悲しみと怒りは、雨が上がるようにどこか遠くへ消えていく。パイロットになれないのは悲しいけれど、もう一度頑張って、篠田1尉のように自分に合った特技を見つけたい。晴花の心には、いつしかそんな思いが芽生えていた。

+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。