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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第8章 虹の架け橋

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悲しみを乗り越えて

 鬼熊2佐が乗る1番機が海に墜落した。事故の一報を聞いた松島救難隊と石巻海上保安署のヘリと巡視艇は、すぐさま事故現場海域に向けて出動した。先に離陸したU‐125Aが発見した1番機は、機体の底を波間に沈めながら漂流していて、墜落した衝撃で翼が折れ曲がっていたらしい。助け出された鬼熊2佐は意識不明の状態で、呼吸と脈拍はすでになく、病院に搬送されたあと医師たちによる心肺蘇生措置を施されたが、鬼熊2佐の命を救うことはできなかった。

 鬼熊2佐の死因は静脈血栓塞栓症だった。エコノミークラス症候群とも呼ばれる静脈血栓塞栓症は、同じ姿勢を長時間続けることによって、脚部の静脈に血栓ができることをいう。最悪の場合、この血栓が血流によって心臓へと流れ、肺などの重要な動脈を塞いでしまうことによって、死に至る可能性もある病なのだ。この静脈血栓塞栓症は、胸や脚の痛みに咳を伴う喀血かっけつが、症状として表れるという。

 医師からそれを聞いた揚羽は戦慄した。咳を伴う喀血はなかったものの、胸や脚の痛みがあると鬼熊2佐が言っていたのを思いだしたからである。あの時からすでに鬼熊2佐は病に冒されていた、大鎌を持った死神に狙われていた。そして死神が振るった大鎌に命を刈り取られてしまったのだ。

 鬼熊2佐の通夜と葬儀は彼が生まれ育った仙台市内で執り行われた。喪主は鬼熊2佐の両親が務め、夫の突然の死を聞いた奈美はとても憔悴しており、まだ幼い陽菜は父親の死を理解できていないのか、きょとんとした面持ちで周囲を見回していた。家族、親類、友人一同、揚羽たちブルーインパルスのパイロットの他に、蓮華2佐と花菜に三舟1曹、晴登と瑠璃など松島基地の隊員たち、そして悲報を聞いた颯と黎児が、那覇基地から急いで駆けつけてくれた。

 葬儀は2時間ほどで終わり、出棺前に揚羽たちは遠い所に旅立つ鬼熊2佐と最後の別れをした。覗き込んだお棺の中に横たわる鬼熊2佐は、本当に死んでしまったのかと疑いたくなるほど、まるで仏様のように穏やかな顔をしていた。棺を乗せた霊柩車がサイレンを鳴らして火葬場に向けて出発し、家族と親類たちが乗った小型のマイクロバスが、後に続いて走り去る。走っていく二台の車が見えなくなると、辺り一帯は静寂に包まれた。茜色に暮れ始めた空も相まって、訪れた静寂は深く冷たく感じられた。

「一人で大丈夫なのか? なんなら落ち着くまで側にいるぞ」

「わたしは大丈夫ですから。颯さんは基地に帰ってゆっくり休んでください」

 揚羽は偽物の笑顔を張りつけて答える。だが颯はなかなか帰ろうとしない。揚羽がもう一度「大丈夫だから」と言うと、颯は渋々といった様子で黎児と一緒にタクシーに乗りこんだ。タクシーを見送った揚羽は別のタクシーに乗って官舎に戻った。廊下を進んでリビングに入った瞬間、悲しみと疲労が津波の如く押し寄せてきて、揚羽は崩れ落ちるように座り込んだ。

 まるで魂の半分をごっそり持っていかれたように身体が重い。いったいどうして鬼熊2佐が命を落とさなければいけないのだ。揚羽ははたと思い当たる。――鬼熊2佐は揚羽に身体の不調を見せていたではないか。あの時、無理矢理にでも病院に連れていってさえいれば、鬼熊2佐は病で命を落とさなかったはずだ。一命を取り留めて今も元気に空を飛んでいた。そして奈美と陽菜と一緒に笑っていただろう。そこまで考えた瞬間、揚羽の中で何かが砕け散った。

「隊長が死んだのはわたしのせいだ。隊長が死んだのはわたしのせいだわ――」

 同じ言葉を呪文のようにぼそぼそと呟きながら、ゆっくりと立ち上がった揚羽はキッチンに歩いた。キッチンに歩くその姿は夢遊病者と言ってもおかしくない。揚羽はシンクの下の収納棚を開き、ドアポケットに差していた包丁を震える両手で握り締める。自ら命を絶つなんて間違っているのは分かっていた。だがこの時揚羽の精神は崩壊しかけていた。隣で普通に話をして、笑顔を交わしていた人が、目の前から突然いなくなってしまった衝撃で、正常な考えができないほど、揚羽の心は打ちのめされていたのだ。握り締めた包丁を喉に突き刺そうとしたその時だった。

「揚羽!!」

 雷鳴のような大声がリビングに響き渡る。誰かがキッチンに飛び込んできたかと思うと、揚羽は後ろから羽交い締めにされた。いきなり羽交い締めにされた驚きと、命を絶つ行動を邪魔された怒りが渾然一体となり、半狂乱になった揚羽は包丁を振り回しながら激しく抵抗する。不意に羽交い締めにしている相手が声を上げた。どうやら振り回した包丁が身体のどこかに当たったらしい。拘束する力が緩んだので、相手を突き飛ばすように振り払った揚羽は後ろを振り返る。振り向いたその瞬間、頭の中に直接氷水を注がれたように、揚羽は理性を取り戻した。

「颯さん……?」

 揚羽の後ろにいたのは沖縄に帰ったはずの颯だった。壁にもたれかかった颯は顔を顰め、右腕を押さえている。腕を押さえている手の下から流れているのは恐らく血だろう。揚羽が包丁で切りつけたのは颯だったのだ。故意ではないといえ颯を傷つけてしまった。自分がしでかしたことに恐怖した揚羽は、血に濡れた包丁を放り投げると、颯のところに急いで駆け寄った。

「血がっ、血が出てるっ……! ごめんなさい! ごめんなさい! わたし、わたしっ、なんてことを――!」

 傷の痛みに顔を顰めながらも、颯は「大丈夫だ」と無理に笑ってみせた。揚羽は颯をソファーに座らせ、彼が着ているスーツの上着とシャツを脱がし、持ってきた傷薬と滅菌ガーゼ、包帯で傷の手当てをする。幸い皮膚を切っただけだったようで、傷薬で消毒したあと滅菌ガーゼを貼り、やや強めに包帯を巻くと、流れていた血はすぐに止まった。

 浅い傷で本当に良かった。もしも腕の傷が深くて神経を損傷していたら、颯は戦闘機の操縦ができなくなっていたかもしれない。揚羽が安堵で胸を撫で下ろしたその時、木の枝が折れたような乾いた音が鳴り響き、同時に熱い痛みが左の頬に広がった。瞋恚の炎を目の奥に燃やした颯の右手が宙に浮いている。颯の繰り出した平手打ちが揚羽の頬に炸裂したのだ。

「この馬鹿野郎!! どうして死のうとしたんだよ!! まさか自分が死ねばベアーさんが生き返るとでも思ったのか!? 俺も自分が死んでも人は生き返らないって父さんに言われたよ!! だからおまえが死んでもベアーさんは生き返らないんだぞ!!」

「だって、だって、隊長が死んだのはわたしのせいなんです!! あの時病院に行くよう強く言っていたら、訓練はやめて、今日は休んだらどうだって言っていたら、隊長は死ななかったかもしれないんです!! 隊長を殺したのはわたしだわ!!」

 揚羽の言い分に颯はきっぱり「違う」と言い放った。

「ベアーさんの死は揚羽のせいでも誰のせいでもない。あれはどうすることもできなかった。人の力ではどうにもならない天命だったんだよ。それに命で命は取り戻せない。自分の命を大切にしろ。きっとベアーさんはそういうと思う。だから命を絶ちたいだなんて思わないでくれ。俺はもう二度と大切な人を失いたくないんだ――」

 瞳を涙で濡らした颯に言われたその瞬間、葬儀の時から抑えていた感情が内側から爆発した。溢れた涙で瞼が膨らみ、視界が水浸しになる。顔を歪めた揚羽は颯の胸にすがりつき顔を埋めて激しく泣いた。命で命は取り戻せない、自分の命を大切にしろ。颯の言葉が心に重くのしかかる。こんなことをしたって鬼熊2佐は生き返らないし誰も喜ばない。逆に悲しみを連鎖させるだけだ。火がついたように大声で泣き叫ぶ揚羽は颯に強く抱き締められる。揚羽の涙が涸れ果てるまで、颯はずっと抱き締めていてくれた。



 胸の中で泣き疲れて眠ってしまった揚羽をベッドに運んだ颯は、彼女を起こさないよう静かに寝室を出ると、ドアの鍵を開けて部屋の外に出た。鍵をかけた颯は階段を降りて官舎を離れ、豪華な星空に彩られたしんしんと冷たい冬の夜道を歩く。霧を孕んだ冷たい空気が、硬い粉のように瞼や頬を叩いてくる。適当な場所まで歩いた颯は足を止めた。上着の胸ポケットに手を伸ばした颯は、煙草をやめたことを思い出して苦笑した。気持ちを落ち着けたい時や整理したい時、昔はよく煙草を吸っていたのだが、「身体に悪いから駄目です!」と揚羽に言われてやめることにしたのだ。

(まさか揚羽があんなことをするとはな――)

 凍った息を吐いて腕の包帯に触れた颯は独りごちた。戻ってきて正解だった。葬儀を終えて揚羽と別れた颯は、黎児と一緒に仙台空港に向かったが、やはり彼女のことが心配になり、黎児を先に帰らせて急ぎ引き返したのだ。部屋の鍵が開いていたからおかしいと思い、廊下を走ってリビングに駆け込むと、包丁を喉に突き刺そうとしている揚羽がいた。怪我をしただけで最悪の事態はなんとか免れたが、あと数秒でも駆けつけるのが遅ければ、揚羽は確実に命を絶っていただろう。普段の揚羽だったら絶対にあんな真似はしない。自ら命を絶とうと考えるまでに、揚羽の心は限界寸前まで追い詰められていたのである。

 どんなに強い心の持ち主であっても、簡単に乗り越えられるほど人の死というものは優しくない。自分も交通事故に巻き込まれた結衣を目の前で失った。それなのにどうして揚羽の気持ちを分かってやれなかったのか。理由はすぐに思い当たった。颯は揚羽に不安と恐怖を打ち明けて自分だけ楽になっていた、部隊を辞めて退官してくれると聞いて安心していた。揚羽は強い心を持っているから、鬼熊2佐の死をきっと乗り越えられるだろうと、颯は楽観視していたのだ。

 揚羽が立ち直るにはまだ時間がかかるだろう。だから揚羽が元気になるまで颯は側にいたかった。しかし颯は明日沖縄に帰らなければいけない。それでも愛する揚羽を守りたい、側で彼女を支えたい。心を救ってくれた揚羽のために全力を尽くしたかった。ならば自分に何ができるのか。深まる宵闇のなか颯は寒さを忘れて独り煩悶する。長い時間が流れ去ったあと、颯は一つの答えに行き着いた。

「ベアーさん。俺にできるでしょうか――」

 銀河のように渦巻く満天の星空を仰ぎ見て颯は呟いた。あたかも颯の呟きに答えるかのように、一つの星がひときわ強い輝きを見せる。強い輝きを放った星は夜空に溶けるように消えていく。そして星の光が消えた時、颯の心髄には堅固たる決意が宿っていた。
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