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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第7章 蒼穹の飛燕

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皆は一人のために

 冷たい風が秋の気配を運んでいく。日本列島は都会の花瓶にも可憐な秋桜がほころびる季節になっていた。秋風が木の葉をさわさわ揺さぶる音を聞きながら、揚羽は飛行隊隊舎屋上の観覧席のベンチに座り、赤蜻蛉が群れを成して飛ぶ、きりっと秋晴れに澄み上がった空を眺めていた。視線を下ろした揚羽は魂も一緒に抜け出ていきそうな深い溜め息を吐く。深い溜め息が出るのも無理はない。なぜなら揚羽は心臓が地面に落っこちたような、暗い気持ちに囚われていたのだ。

 それはサードピリオドの洋上アクロ訓練をしている時だった。揚羽は第2区分第12課目のバック・トゥ・バックを実施していた。バック・トゥ・バックは右側に位置する6番機が、背面飛行の5番機の真横に占位して、機体の下面同士が重なるように合わせていくのだが、その時揚羽は操縦桿を左に倒しすぎてしまい、5番機の左翼と危うく接触しそうになったのだ。6番機の異常接近に気づいた真白1尉が離脱してくれたので、空中衝突の危機はなんとか免れたのだった。デブリーフィングで真白1尉は気にしなくていいと言ってくれたが、仲間の命を危険に晒した自分を、そんな簡単に許すことなどできなかった。

「大丈夫ですか?」

 春のそよ風のような優しい声が後ろから届けられる。振り向いた揚羽の視線の先にいたのは鬼熊2佐だった。鬼熊2佐は揚羽のほうに歩いてくると、大きなお尻を彼女の横のベンチの上に乗せた。

「スワローが操縦を誤るなんて、よっぽどのことだとハイガーが言っていましたよ。みんながあなたを心配しています。もちろん私だって同じです」

「……迷惑をかけてしまってすみません」

 視線を合わすことができなくて揚羽は顔を伏せる。今は鬼熊2佐の優しさが酷く辛かった。優しい言葉をかけられるほど、揚羽の気持ちはますます落ち込んでしまうのだ。いっそ強い言葉で責めてくれるほうが、気持ちが楽になるのに――。

「ゲイルと何かありましたか」

 不意を突かれた揚羽は、梟のように大きく見開いた目で鬼熊2佐を見た。草食動物のように穏やかな表情だ。どんなに磨かれた鏡よりも、綺麗に澄んだ鬼熊2佐の眼差しは、揚羽の心を覗き込むように見つめている。誰にも話した記憶がない出来事を、どうして鬼熊2佐は分かったのか。揚羽は理由を訊こうと口を開いたが、震える息が漏れ出ただけだった。

「ゲイルと何かあったりすると、あなたは元気をなくしたり落ち込んだりしますからね。よければ私に話してくれませんか?」

 誰もいない部屋に帰るのが怖い時があること。部隊を辞めて側で支えてほしいと言われたこと。ラストアクロを終えたら、部隊を辞めて退官すると言ったこと。大事な話をしたあと2ヶ月近く颯と会っていないこと。静かな教会の礼拝堂のベンチに座り、十字架を見上げているような気持ちになった揚羽は、隣に座る鬼熊2佐に事の顛末を話していた。

「……私は間違ったことを言ったんでしょうか? 私は颯さんが好きです。だから彼と結婚して子供を授かって幸せになりたい。赤ちゃんの命を犠牲にしてまで空を飛びたくない。それが私の本当の思いなのに、颯さんは受け留めてくれなかった。それどころか私は颯さんを傷つけてしまったんです」

 揚羽は両膝の上に置いた手に爪を食い込ませ、皮膚が白くなるまできつく握り締めた。鬼熊2佐に話したとおり、揚羽はあれからずっと颯と会っていない。いつ会えるのかとメールを送っても、「忙しいから会えない」としか返ってこないのである。颯が揚羽を避けているのは火を見るより明らかだった。官舎の住所は知っているし合い鍵も持っている。その気になれば颯のところに飛んで行けるのに、だが揚羽は行動を起こせなかった。揚羽は颯に拒絶されるのが怖かった、大好きな颯との愛と絆を失うのが怖かったのだ。

「――あなたはそれでいいのですか?」

 諭すような響きの声に揚羽は伏せていた顔を上げた。

「このまま逃げ続けていたら、ゲイルとの愛と絆は終わってしまうでしょうね。こんなところで終わってしまうほど、あなたたちの愛と絆は弱いものだったのですか? それに逃げるなんてあなたらしくない。私が知っている燕揚羽は、真っ直ぐで一生懸命で、壁にぶつかって悩むことがあっても、絶対に逃げ出さない強い女性です。結婚と子供のことは、自衛官なら誰でも一度は向き合わなければいけないことです。ここで悩んでいても問題は何も解決しません。勇気を出して、もう一度ゲイルと話すべきだと私は思います。あなたとゲイルならきっと乗り越えられる、二人で一緒に前に進んでいけますよ」

「鬼熊隊長――」

 鬼熊2佐の言葉は揚羽の胸を熱くさせ、彼女の心を覆っていた硬い壁を打ち砕いた。砕かれた壁の向こう側から光が差し込んだように思えた。鬼熊2佐が言ったとおりだ。ここで独り煩悶していても、問題は停滞したまま解決しない。正しくは勇気を出して一歩前に踏み出し、面と向かって颯と話し合い、互いに納得できる結論を出さなければならないのだ。そして自分は颯が好きだ、大好きだ。心の底から愛している。だから颯が隣にいない人生なんて考えられない。揚羽の目から一筋の涙が零れ落ちる。唇を噛み締めて涙を流す揚羽を、鬼熊2佐は静かだが優しい眼差しで見守っていた。

(ちょっとハイガーさん! そんなに押さないでくださいよ!)

(俺は押してないぞ! 班長のでかい尻がぐいぐい押してくるんだ!)

(誰のケツがでかいだって? 隊長のほうがでかいじゃないか!)

 屋上と隊舎を繋ぐ鉄の扉の中から声が聞こえてきた。嘆息した鬼熊2佐は席を立つと、鉄の扉の前まで行っていきなり扉を開け放った。「うわああっ!」と悲鳴を上げて、つんのめるように扉から出てきたのは真白1尉たちである。真白1尉たちは扉に張りついて、張り込み中の刑事さながらに、揚羽と鬼熊2佐の会話に聞き耳を立てていたのだろう。

「私と隊長の会話を盗み聞きしていたんですね! それってプライバシーの侵害じゃないですか!」

 この人間盗聴器どもめ。揚羽は目尻を吊り上げて真白1尉たちを睨みつける。真っ先に弁明を始めたのは比嘉1尉だった。

「俺は悪くないぞ! 様子を見にいこうって言い出したのはホワイトなんだ! ホワイトはスワローのストーカーだからな。だから全責任はホワイトにある!」

「なっ――!? 僕はストーカーなんかじゃありませんよ! それより自分のほうはどうなんです? ハイガーさんだって、『スワローってマジ可愛いよな』って、隠し撮りした写真を見ながら言ってるじゃないですか!」

「おおおおいっ! 今それを言うか!?」

 真白1尉と比嘉1尉は相手に罪を負わせようと口論を始めた。北浦2佐は愉快そうな面持ちで二人を見ている。こっそり聞き耳を立てていたのは好ましくないが、真白1尉たちは揚羽を案じてわざわざ来てくれたのだ。一人はみんなのために、みんなは一人のために。絆と団結心を重んじる部隊、それがブルーインパルスだ。誰一人欠けることなく、これからもブルーインパルスのみんなと一緒に、日本の空を力強く飛びたい。暗い雲が晴れた揚羽の心には、そんな強い思いが芽生えていたのだった。
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