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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第7章 蒼穹の飛燕

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不安と恐怖

 遮る物のない空はトルコ石のように真っ青で、夏の過酷な太陽が輝いている。まだまだ夏の暑さが続く9月中旬、揚羽たちブルーインパルスは松島基地を旅立ち、石川県の小松基地で開催されている航空祭に参加していた。エプロン地区で行われているサイン会の列に並ぶ来場者たちは、額の上にパンフレットや掌を翳して熱い日射しを避けながら、機動飛行が始まる瞬間を待っている。しばらくすると青色と灰色の二色に塗装された、第306飛行隊のF‐15イーグル戦闘機が、エプロン地区の上空に現れた。

 青色に塗られた垂直尾翼には、「GOLDEN EAGLES」の文字と轟く稲妻が描かれ、機首には灰色のイーグルヘッドがデザインされた記念塗装機だ。主翼上面にかつての仕様機種である、F‐4ファントムをイメージしたシルエットが描かれている。左方向から飛んできた第306飛行隊のイーグルは、さながら手を振るように機体を傾けながら右方向に駆け抜けると、アフターバーナーを全開にして一気に急上昇していき、ベイパーともどもあっという間に青空の中に吸い込まれていった。

 第303飛行隊の編隊飛行。アグレッサーの機動飛行。小松救難隊のU‐125AとUH‐60Jの捜索救難。岐阜基地から飛んできたF‐2の機動飛行が続けて行われ、小松基地航空祭をさらに盛り上げる。小松基地航空祭の見所といえば、303・306・アグレッサーの3個飛行隊によるF‐15Jの機動飛行だ。離陸と同時に左右に展開したり、機体背面を見せながら飛行するなどの、観客を意識した構成となっている。また展示飛行の合間には、小松空港の民間機の離着陸も見られ、午前10時20分に午前の展示飛行は終わった。

 お腹はいっぱい気合いも充分。意気軒昂に待機室を出て、ファンたちの熱い声援を受けながら、揚羽たちがエプロンを歩いていたその時だった。けたたましいサイレンの音が基地全体に鳴り響いた。エプロンまで聞こえてくるということは、かなりの音量で鳴らされているようだ。この音はスクランブルの時に鳴らされるサイレンだ。ややあって滑走路の端にある、黒塗りのアラートハンガーが開き、二機のF‐15戦闘機が轟音を響かせながら出てきた。

 龍の部隊マークは303のイーグルだ。巨大な猛禽は滑走路に進入すると、アフターバーナー全開の猛烈なハイレートクライムで飛翔していった。続いて僚機のイーグルがあとを追うように飛んでいく。スクランブルが発令されたということは、相手は中国かロシアの航空機だろう。スクランブルの発令で、ブルーインパルスの展示飛行は中止になり、小松基地航空祭は閉幕した。残念ではあるが、スクランブル発進した303のパイロットは、現在日本の空を守るために飛んでいる。ファイターパイロットたちがいるからこそ、ブルーインパルスは空を飛べるのだ。

「たっ、たっ、大変ですっ!!」

 松島基地に帰投して飛行班の事務所でデスクワークをしていると、整備員の佐倉花菜1等空曹が血相を変えて飛び込んできた。チェーンソーを持った殺人鬼から逃げてきたような形相だ。

「そんなに慌ててどうしたんだ。旦那さんの浮気現場を目撃したのか?」

 と慌てふためく花菜をからかったのは、4番機パイロットの比嘉真太郎1等空尉だ。新人歓迎会の時、先輩パイロットに、名字の比嘉をなぜか「ハイガー」と言い間違えられて、そのままハイガーが彼のTACネームになったのである。眦を吊り上げた花菜は、比嘉1尉に「違います!」と首を振ると口を開いた。

「さっき悠一さんから聞いたんです! 303が基地に戻ったあとにまた領空侵犯があって、今度は204がスクランブル発進したそうです!」

「204が――!?」

 204は颯が所属している部隊ではないか。花菜の報告を聞いた揚羽は、頭の中が白く溶け落ちるような衝撃を受けた。立ち上がろうとした瞬間両足が酔っ払ったようにふらつき、後ろに倒れそうになったところを、伸びてきた比嘉1尉の腕に支えられる。揚羽はしばらく椅子に座って呆然としていた。どうしたらいいのかよく分からない。身体の奥のほうから心臓の鼓動の鈍い音が聞こえてきた。手足がいやに重くて、口の中も蛾を食べたみたいにかさかさしている。不安と恐怖と戦っていると、比嘉1尉の手に優しく肩を叩かれた。

「顔色が悪いぞ。隊長には俺が言っておくから、今日は官舎に帰って休め」

「でも、まだ仕事が……」

「仕事はいつでもできる。でもスワローの代わりは誰もいないんだぞ。ブルーインパルスはただでさえ忙しい部隊なんだから、休める時にしっかり休んで体調を整えておかないとだめだ。分かったか?」

「――はい」

 比嘉1尉の厚意に甘えて官舎の部屋に戻ったものの、身体の震えはまだ止まらず、胃の腑は絞り上げられたように痛かった。F‐2のファイターパイロットだった揚羽も、当然だが何度かスクランブル発進をした。しかし領空侵犯が目的の軍用機と遭遇したことはなく、スクランブルの大半が航行ルートを間違えた民間機だった。それでも待機室ではいつでも飛び出せるよう爪先に力を入れていたし、リラックスしながらも全身の神経を研ぎ澄ませていた。あの異様な緊張感と、肌着がぐっしょりするほど全身に脂汗が吹き出たことは、第8飛行隊を離れた今でも鮮明に覚えている。颯は誰もが認める優秀なイーグルドライバーだ。不測の事態が起きたとしても対処できるだろう。でも不測の事態なんて起きてほしくない。空を飛んでいる時には分からなかった。これが地上で待つ者が感じる不安と恐怖なのだ。

(颯さん。どうか無事に帰ってきてください――)

 颯にメールを送った揚羽はベランダに出ると、西に傾斜した陽の光を受けて橙色に染まった空を仰ぎ、最愛の人の無事を心の底から祈った。



 小松基地航空祭が終わってから1週間後の土曜日。仙台空港から飛行機に乗った揚羽は沖縄県に飛ぶと、那覇基地官舎の単身者用の棟に向かい、颯から貰った合い鍵を使って彼が生活している部屋に入った。颯はまだ警戒待機任務に就いているのでいない。警戒待機任務は24時間365日行われる。だから土日も関係ないのだ。廊下を進んで奥のリビングに入り電気を点けた。黒色と紺色の家具で統一された部屋は、相変わらず綺麗に整理整頓されている。ソファにボストンバッグを置いた揚羽はキッチンに行き、冷蔵庫の扉に紙が貼られているのに気づいた。星形のマグネットを外して紙を手に取り、揚羽は内容に視線を走らせた。

【揚羽、来てくれてありがとう。冷蔵庫の食材は好きなだけ使っていいからな! 颯】

 冷蔵庫を順番に開けて、中を確認した揚羽は驚いた。お肉と野菜、魚に卵など、料理に必要な食材が豊富に揃えられていたのだ。おまけに賞味期限切れもない。どれも新しい物ばかりである。とすると颯は揚羽のために、わざわざ食材を買い揃えておいてくれたということか。どんな料理を作る予定なのか、3日ほど前に颯に電話で訊かれた。必要な食材を揃えておくため、颯は揚羽に訊いてきたのだ。警戒待機任務で大変だろうに、颯の優しさと細かい気配りに胸が熱くなる。ならば真心をこめた料理を作って颯を出迎えなければ。エプロンを着て服の袖を捲り上げ、気合いを入れた揚羽は調理器具一式を並べて、さっそく料理を開始した。

 下味をつけた鶏の唐揚げ。小鳥直伝の肉じゃが。大根、白菜、豆腐を入れたお味噌汁。彩り豊かな野菜炒め。さっぱりとした冷や奴。できた料理を盛った食器をテーブルに並べていると、「ガチャッ」とドアの鍵が開けられる音が聞こえた。揚羽はスリッパを響かせて玄関に歩く。パイロットスーツの肩にリュックサックを提げた颯が、座って紐をほどき靴を脱いでいるところだった。遠目からでも疲れた顔をしているのが分かる。玄関まで出迎えにやって来た揚羽に気づいた颯は、頬の筋肉を今にも笑い出しそうに動かした。まるで太陽と友達になったかのような明るい表情だ。

「お帰りなさい、颯さん。アラート任務、お疲れ様です」

「ああ、ただいま。なんだかいい匂いがするな」

「ご飯はできていますから。先に食べますか?」

「そうだな。着替えてから行くよ」

 リビングに戻って冷えた麦茶をグラスに注いでいると、Vネックの半袖シャツとジーンズに着替えた颯が入ってきた。テーブルに並べられた料理を見た颯は、驚いたように切れ長の目を丸くした。

「凄いな。これ、全部揚羽が作ったのか?」

「はい。多かったら残してくださいね」

 着席した颯は手を合わせると、まずは鶏の唐揚げを箸で口に運んで頬張った。鶏の唐揚げは颯の大好物だと、彼の父親の貴彦から聞いていたので、気合いを入れて作ったつもりだ。自分が作った料理を誰かに食べてもらうのは今日が初めてだった。なので揚羽は颯がどんな反応を見せるのか緊張する。どうやら揚羽の緊張は無意味だったようだ。颯はどの料理も「美味しいよ」と笑って褒めてくれて、さらに嬉しいことに、ご飯粒一つ残さず綺麗に完食してくれた。なんだか結婚したばかりの新婚夫婦みたいで照れてしまう。気のせいか颯は普段よりも明るいような気がした。

 颯が浴室に向かったあと、揚羽は食事の後片付けに取りかかった。使った食器を全部洗って食器棚にしまい、最後に清潔な布巾でテーブルを丁寧に拭く。何気なく視線を動かした揚羽は、リビングの床に落ちている銀色に輝く物に気づいた。落ちている物を拾い上げた揚羽は瞠目する。それは「ドッグタグ」と呼ばれる認識票だった。認識票には自衛隊名・氏名・認識番号・血液型が記されている。有事の際などで、自衛官が不幸にも死亡してしまった場合、一枚は遺体を識別するために歯の間に挟み、もう一枚は形見として遺族に渡すのだ。認識票は颯の「覚悟」を形にした物。不意に冷水を浴びたように揚羽の心は震えた。

「揚羽? どうしたんだ?」

 浴室から出てきた颯が揚羽の後ろに立っていた。揚羽が持っているドッグタグを見た颯は、顔面の神経を緊張で強張らせた。意を決した面持ちに変わった颯に、「話がある」と言われた揚羽はソファに座る。揚羽の隣に腰を下ろした颯は、少し間を置いてから唇を開き声を出した。

「揚羽はいつまでパイロットを続けるつもりなんだ?」

「えっ? いきなりなんですか?」

「……俺さ、誰もいない部屋に帰るのが怖い時があるんだよ。スクランブルは危険と隣り合わせの任務だ。専守防衛を信条とする俺たちは撃てないけれど、相手はすぐに撃つことができる。だからいつ撃墜されてもおかしくない。身も心も疲れきって官舎に帰っても、そこには誰もいない。まるで棺桶の中みたいで、それが寂しくて怖いんだよ。今日揚羽が家にいて、『お帰り』って言ってくれた時、本当に嬉しかった、俺は独りじゃないんだって思えたんだ」

 振り向いた颯が揚羽と視線を合わせる。世界の運命を握らされた勇者のような真剣な面持ちだ。

「俺は揚羽と結婚したいし、子供も欲しいと思ってる。でも結婚して子供が生まれたあと、有事が起こって部隊に招集がかかった時、二人とも自衛官だったら、どちらも命を落とすかもしれない。そうなったら子供は独りになって、ずっと悲しい思いをしてしまう。だから俺は、信頼できる揚羽に家族を守ってほしい、俺よりも愛情をよく知っている揚羽に、子供を育ててほしい。もし俺が死んだとしても、揚羽が子供を守って育ててくれる。俺は後悔したまま死ぬのは嫌だ。俺のために、これからできる家族のために、揚羽には部隊を辞めてもらって、ずっと側にいて支えてほしいんだ」

 まさに胸を衝かれる思いだった。颯はこんなに思い詰めていた、真剣に将来のことを考えていたなんて知らなかった。それに比べて自分はどうなのだろう。瑠璃から話を聞いて、その時は結婚と出産を意識したものの、それからはすっかり失念していた。子供の頃からの夢だった、ドルフィンライダーになって空を飛び、相思相愛の恋人と過ごす毎日に夢中になっていた、一人で浮かれて喜んでいたのだ。喜びの裏で颯は不安と恐怖と戦い独りで苦悶していた。颯の苦悶に気づけなかったなんて恋人失格だ。

「――分かりました。来年のラストアクロを終えたら、部隊を辞めて退官します」

 あまりにも早すぎる揚羽の決断に、当然ながら颯は限界まで目を見開いた。

「なっ――! 俺が何を言ったのかちゃんと分かっているのか!? これは簡単に決断できる話じゃないんだぞ!」

「ええ、ちゃんと分かっています。私も颯さんと結婚して赤ちゃんも欲しいです。でもこのまま空を飛び続けていれば、身体にGの影響が出て赤ちゃんが産めなくなるかもしれません。だったら私は赤ちゃんの命を犠牲にしてまで、夢を追い続けたくないし、空も飛びたくないわ。それに私は颯さんに寂しい思いをさせたくないの。命は夢よりも大切なものです。どちらかを選べと言われたなら、私は迷わずに命のほうを選びます」

 颯は心臓を抉られたように愕然とした表情を浮かべた。青褪めた颯の顔はほのかな明かりの中で、夕顔の花のように、ぼんやりと浮かび上がっている。膝の上に置かれた颯の拳は震えていた。揚羽は颯の手を握ろうと手を伸ばす。だが伸ばした揚羽の手は颯に触れることはなかった。まるで揚羽の思いを拒絶するように、颯は彼女から視線を逸らしたのである。

「……変な話をして悪かった。この話は本気にしないでいいから、俺が言ったことは忘れてくれ」

 外の空気を吸ってくると言った颯はソファから立ち上がると、揚羽のほうを一度も見ないままリビングを出て行った。悪いことを言ったつもりはない。だが颯を傷つけてしまったのは確かだ。魂が血管を下り、足の裏を突き抜けて地面にめり込むように、幸せだった揚羽の心は沈んでいく。そして無人の惑星に取り残されたような孤独と悲しみが、揚羽の心を覆い尽くしていったのだった。
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