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彼氏はイーグルドライバー ★
真夏の青空に綿のような雲の野原が広がっている。揚羽は仙台空港から朝一番の飛行機に乗り、宮城県から沖縄県に向かっていた。揚羽が第11飛行隊に着隊してから1年と4ヶ月の月日が経った。70回のB訓練と16回のA訓練の、教育課程を終えた揚羽は、第1区分で構成された最終検定フライトに合格して、念願のORパイロットに昇格したのである。
揚羽のアクロデビューは9月に開催予定の三沢基地航空祭に決まった。揚羽に6番機を任せた相田1尉は、千歳基地航空祭でラストアクロを飛び、松島基地を離れて今は小松基地の飛行教導群アグレッサーにいる。どれだけ優れたイーグルドライバーでも、アグレッサー部隊に入れば初心者以下の扱いをされて、部隊に不必要だと判断されれば、容赦なく切り捨てられると聞いた。真白1尉は心配しているが、揚羽は大丈夫だと思う。きっと今頃は部隊の仲間と休日を楽しんでいるに違いない。
『ご搭乗の皆様、当機はまもなく那覇空港に到着いたします。添乗員が各席を回りますので、指示に従ってシートベルトをお締めになってください。またテーブルも折り畳んでくださるよう、よろしくお願いいたします』
紺色のスカーフを巻いた女性添乗員が座席を回っていき、乗客にシートベルトの締め方を教えている。揚羽も広げていたテーブルを畳んでシートベルトを締めた。少しして機内が揺れる。着陸態勢に入るため機長が機首と高度を下げ始めたのだろう。揚羽は楕円形の窓から外を見た。管制塔、空港のターミナルビル、広大な駐機場と滑走路が揚羽の視界に映った。高度と速度を落としつつ滑走路にアプローチ。戦闘機とは違う緩やかなランディングだ。ゆっくりと制動したあと飛行機は止まった。可動式のタラップが取り付けられる。開けられた乗降口から飛行機を降りて、揚羽はターミナルビル一階の到着ロビーに向かった。
案内のアナウンスが響くロビーは混雑していた。人の波を泳ぐようにすり抜けて、茶色のラバーフローリングの床を歩いた揚羽は、熱帯魚が泳ぐ水槽の前で足を止め、肩に提げている鞄からスマートフォンを取り出した。ホーム画面を開いてメール機能を起動させる。飛行機の到着予定時刻は、前もって知らせておいたから、彼は空港に向かっているか到着しているだろう。「到着ロビーで待っています」とメールを送信。背伸びをして行き交う人々に視線を巡らせていると、腰に何かが巻き付いてきて、硬くて温かい物が背中に当てられた。自分は背後に立つ何者かに抱き締められている。まさか変質者だろうか。大勢の人が行き交う空港で、堂々と女性を襲うとは大胆不敵すぎる変質者だ。
「――チェック・シックス」
「ひゃっ!?」
低い囁き声が聞こえたかと思うと、熱い吐息が耳に吹きかけられ、揚羽の身体はびくりと反応してしまった。抱き締められたまま揚羽は振り返る。すると黒髪の青年が満面に喜色を湛えて笑っていた。胸元が大きく開いたVネックのシャツの上に、半袖のガーゼシャツを羽織り、すらりと伸びた長い両脚にダメージ加工のジーンズを穿いている。シルバーのクロスペンダント、右手と耳に付けた指輪とピアスが、嫌味なくらい良く似合っていた。
会心の笑顔を見せる青年は鷲海颯1等空尉。揚羽の恋人で那覇基地第9航空団第204飛行隊のイーグルドライバーである。変質者ではなかったので一安心したが、いきなり後ろから抱き締めて、おまけに耳に息を吹きかけるなんて、悪戯にしては度が過ぎるのではないか。恋人に会えた嬉しさよりも、悪戯された怒りのほうが強かったので、唇を尖らせた揚羽は颯を見上げた。
「もうっ! 驚いちゃったじゃないですか! 普通に声をかけてください!」
「ついからかいたくなったんだ。悪かったよ」
不意に笑っていた颯の表情が変わった。眉間に怒りの電光を走らせる颯は、殺気を孕んだ視線でロビーの一点を凝視している。さっきまで快活に笑っていたのに、いったいどうしたのだろうか。
「颯さん? どうしたんです――」
揚羽の声は途中で断ち切れた。引き締まった身体を密着させた颯は、いきなりキスをしてきたのである。揚羽と颯の熱愛現場を見た人たちは、足を止めて目を丸くしたり、友人と囁き合いながら通り過ぎていく。衆人環視の前でキスされているなんて恥ずかしい。揚羽は颯の胸を叩いて止めさせようとした。だが腰を撫でられた瞬間、全身が甘く痺れてしまい、抵抗する気もなくなってしまった。重ねていた唇を離した颯はまたロビーの一点を睨んでいる。羞恥心と怒りを爆発させた揚羽は、さながら蠅叩きを振り下ろすように颯の背中を叩いた。
「いっ、いきなり、キスするなんて! 場所を考えてくださいよ! 颯さんの馬鹿! もう知りません! あのエッチなメール、蛍木さんじゃなくて、やっぱり颯さんが送ったんでしょ!」
「あれは黎児が勝手に送ったメールだって言っただろ。いきなりキスしたのは悪かったよ。ガキどもが嫌らしい目でお前を見ていたから、揚羽は俺の彼女なんだぞって教えてやろうと思って――」
「それだけのことで大勢の人が見ている前でキスしたんですか!? もういいです! 私、松島に帰ります!」
「えっ!? 待て待て待て! 久しぶりに会えたのにそれはないだろ! ごめん! 俺が悪かった! 欲しい物や食べたい物があったらなんでも奢る! だから許してくれ! このとおりだ!」
揚羽の帰投宣言を聞いた颯は、ゼンマイ仕掛けの人形のように驚くと、必死の形相で頭を下げてきた。まるで浮気が露見して妻に必死で謝る亭主のような姿だ。向かうところ敵なしの颯が必死に謝っているのを見ているうちに、ぐらぐらと煮え滾っていた怒りは少しずつ収まっていき、雨が上がるように消えていった。仏の顔も三度までという諺がある。別に浮気をされたわけでもないので、ここは許すことにしよう。
「……分かりました、颯さんを許します。でも今回だけですからね!」
揚羽に罪を許された颯は、ほっと力を抜いて表情を緩めた。空港のターミナルビルを出た揚羽は、元気になった颯に連れられて立体駐車場に向かい、彼が運転してきたシルバーのSUVに乗り込んだ。シートベルト確認、エンジンスタート。アクセルペダルを踏み込んだ颯が車を発進させる。座席が左右に並ぶサイドバイサイドのSUVは、駐車場を出ると軽快に道路を走っていく。夏空に浮かぶ雲、エメラルドグリーンの海、建ち並ぶ家やビルなど、見える景色はすべて同じ速度でパノラマのように流れていった。
「そう言えば、揚羽はORに昇格したんだったな」
「はい。三沢基地航空祭でアクロデビューする予定です」
「そうか。見に行けなくて悪いな」
「いえ、気にしないでください。颯さんたちが日本の空を守ってくれているから、ブルーインパルスは空を飛べるんですよ」
揚羽の言葉に「馬鹿」と返した颯は、照れたように口元をほころばせた。揚羽は車を運転する颯を見やる。絵筆で描いたような長くて濃い睫毛。高い鼻柱から斜め上に彫り込んだような切れ長の瞳。ジャケットの袖から出た腕は逞しく、強く激しく空に生きる男の力が迸っている。展示服やパイロットスーツ姿の颯は格好良かったが、私服姿の彼も凄く格好良い。さらに磨きをかけた端正な容姿に揚羽は見惚れてしまった。
容姿端麗だからアプローチしてくる女性も多いであろうに、颯は揚羽を好きだと言ってくれた。告白から2年経ったが、颯は変わらず揚羽を一途に想ってくれている。夢だったドルフィンライダーとして空を飛び、隣には相思相愛の恋人がいる。だから毎日が幸せだと思う。だが揚羽は、自分が颯の恋人に相応しいのかどうか、時々悩んでしまうのだ。颯はどう思っているのか。それを訊く勇気はまだない。物思いに耽っていると、椰子並木の先に広がる「美らSUNビーチ」が見えてきた。
駐車場に車を停めて管理棟に向かい、颯と別れた揚羽は女性用のロッカールームに入った。衣服を脱いで持ってきた水着に着替える。桃色の布地と白い水玉模様、赤いリボンが揺れるトップスに、オーロラのようなフリルのパティオに一目惚れして購入した、セパレートタイプの水着だ。財布とスマートフォンをロッカーに入れて鍵をかけ、揚羽はサンダルを鳴らしながら管理棟の外に出た。先に水着に着替えた颯は青空を見上げている。揚羽に気づいた颯がこちらを振り向いた。ハーフパンツの水着を穿いた颯はやっぱり格好良かった。
「どうですか? やっぱりちょっと子供っぽいですよね」
揚羽は颯の前でくるりと回ってみせた。だが颯はうんともすんとも言わない。あんぐりと口を開けた颯は、顔を真っ赤にして目を見開き、砂浜に突き刺さったパラソルのように立ち尽くしている。明らかに様子がおかしい。心配になった揚羽は横から颯を覗き込んだ。
「颯さん、顔が赤いですよ。大丈夫ですか?」
「あ、ああ! 大丈夫、大丈夫だ! 早く泳ぎに行くぞ!」
端正な顔をさらに赤くした颯は先に歩いていった。揚羽が何気なく視線を動かすと、管理棟の前で談笑している女の子たちが見えた。全員が刺激的なビキニ姿で、豊満な胸で腰も綺麗にくびれている。颯が顔を赤くして動かなかったのは、彼女たちに見惚れていたというわけか。嘆息した揚羽は颯のあとを追いかけた。先に行った颯は何食わぬ顔で、レンタルしたビーチパラソルを、空いている場所に立てている。女の子たちに見惚れていたのかどうか、颯に問い質そうとしたが、せっかく遠路はるばる沖縄の海に来たのだから邪推は忘れて楽しもう。サンダルを脱いだ揚羽は砂浜を走り、宝石のように煌めくエメラルドグリーンの海に飛び込んだ。
海は日射しの加減で万華鏡のように色彩を変え、陽光を受ける海面のさざ波は割れて散った硝子のように神秘的に光っている。人工の物とは思えないとても綺麗な光景だ。潜った海底には月夜の浜辺のような微光が揺らめいていた。適当な距離で泳ぎを止めた揚羽は颯の姿を捜した。だがどこにも見当たらない。まさか揚羽を放置して、さっきの女の子たちと遊びに行ったのか。揚羽が胸に不安を覚えたその時だ。海面の一部が急に盛り上がったかと思うと、海中から黒髪の青年が立ち上がった。
「スプラッシュ・ワンだぞ、揚羽」
「はっ、颯さん!? いつの間に潜っていたんですか!?」
「揚羽が海に入ったすぐあとだ。お前って本当に無防備だよな」
そう言った颯は濡れた黒髪を掻き上げると、真珠のような白い歯を見せて笑った。極上の甘い笑顔に揚羽の胸はときめく。気のせいだろうか、その姿態は以前よりも一回り逞しくなったように見える。硬く引き締まった厚い胸も、綺麗に割れた腹筋も、がっしりとした腰も、今まで何度も見ているはずなのに、なぜだか今日はとても艶めかしくて、男の色気を感じてしまうのだ。そう思った瞬間、揚羽の身体は太陽のように熱く燃え上がる。唇を重ねて厚い胸に抱き締められたい、しなやかな長い指に愛撫されたい、そして硬く逞しいものに中心を貫かれたい――。頭の芯が痺れるような陶酔感のなか、揚羽は嵐のように颯と激しく愛し合う、自分の姿を脳裡に想像していた。
「ぼんやりしてどうしたんだ? 泳ぎ疲れたのか?」
他の所に意識を飛ばしていた揚羽は、颯に問われてはっと我に返った。長身を折り曲げた颯が揚羽を覗き込んでいる。想像の世界で颯と身体を重ねていただなんて口が裂けても言えない。
「はっ、はいっ! 張り切りすぎて疲れちゃったみたいです!」
「そうか。俺も腹が減ったし、向こうに休憩場所があるみたいだから、そこで少し休むか」
「じゃあ食べ物と飲み物を買ってきますね。颯さんは休憩場所で待っていてください」
颯は自分が買いに行くと言ってくれたが、興奮している気持ちを静めたかったので、揚羽は彼の申し出を丁寧に断った。颯と別れた揚羽は、まず財布を取りに管理棟に向かい、食べ物と飲み物が販売されているパーラーに歩いた。パーラーにはテラス席が完備されているカフェもあるようだ。サンドウィッチと三個入りのおにぎりセット、麦茶のペットボトルを二本購入する。必要な物を買った揚羽が、颯の待つ場所に向かおうとした時だった。
「ねぇねぇ、ちょっといいかなぁ」
猫撫で声が耳を叩く。揚羽の進路を塞ぐように金髪の若者が立ちはだかっていた。浮ついた軽薄さだけが目立つ外貌だ。分厚い唇に好色な薄ら笑いを浮かべる若者は、揚羽の身体を上から下まで舐めるように見ている。豪華な屋敷に住む主人が、物陰から美しいメイドを見るような、背筋が粟立つ卑しい視線だった。軽薄そうな若者が頭の中で何を考えているのかは訊かなくても分かる。こういう輩は相手にしないほうが賢明だ。
「ごめんなさい。私、急いでるんです」
「そんなつれないこと言わないでさ、俺と一緒にバナナボートに乗って遊ぼうよ~」
歩き去ろうとした揚羽は若者に腕を掴まれた。揚羽の腕を掴んで離さない若者は、彼女の臀部に下半身を擦りつけてきた。生温かくて不快な感触に鳥肌が立つ。揚羽はパーラーの窓口を見やったが、店員が助けに出てくる気配はない。
「離してください! 私には彼氏がいるんです!」
「俺さ、見ちゃったんだよね~。君の彼氏、さっきナイスバディの女の子と、手を繋いで丘のほうに歩いて行ったよ。今頃エッチなことでもやってるんじゃないの?」
若者の指は揚羽の二の腕を撫でながら胸のほうに近づいてきた。このまま見ず知らずの男に猥褻な行為をされるのか。揚羽が恐怖に怯えたその時、向こうから走ってきた誰かが間に割り込んできて、彼女の身体に張りつく手を払い除けた。強引に割り込んできたのは黒髪の青年。彼は休憩スペースで待っているはずの颯だった。お楽しみを邪魔された若者は、敵意に満ちた視線で颯を睨みつけた。
「なんだテメェは。部外者は引っ込んでろよ」
「部外者はお前のほうだと思うが? こいつは俺の彼女だ。文句があるなら那覇基地まで来い」
「那覇基地? まさか、テメェは――」
「那覇基地所属の自衛官、航空自衛隊の戦闘機パイロットだ」
鍛え抜かれた広い背中に揚羽をかばった颯は強い口調で言い放った。颯が航空自衛官だと名乗った瞬間、鮃のように扁平な若者の顔は一気に青褪める。相手はF‐15イーグル戦闘機を乗りこなす自衛官だ。それに身長も体格も颯のほうが勝っている。だから若者が颯に勝負を挑んだとしても勝率は低いだろう。一歩踏み出した颯に睨まれた若者は後ずさりすると、ポケットから出したスマートフォンを操作しながら逃げていった。
「……帰るぞ」
「えっ? せっかく海に来たのに、もう帰るんですか?」
揚羽の言葉に答えず颯は歩いて行った。管理棟のロッカールームで着替えた二人は駐車場に向かう。管理棟から駐車場に向かうまでの間、颯はずっと押し黙っていた。
「どうして怒っているんですか?」
「……別に怒ってねぇよ」
「ビーチから駐車場に来るまで一言も喋らないんだもの。それに顔も怖いです」
颯は返事を返さない。腐った食べ物を腹いっぱいに詰め込まれたような不快な表情だ。瞬間凝り固まっていた感情が爆発した。
「私と一緒にいるのがそんなに嫌なんですか? それなら私が沖縄に行く前に、お前なんか大嫌いだって、メールか電話で言えばいいじゃない! 颯さんの馬鹿! 私は一人で帰りますから、沖縄の可愛い女の子と楽しくやってなさいよ!」
揚羽はシートベルトを外して車から降りようとしたのだが、颯に腕を掴まれて助手席に引き戻された。振り向いた揚羽の目の前に颯の端正な顔があった。颯に抱き寄せられた揚羽は唇を塞がれる。颯の唇の感触は溶けるように柔らかく、揚羽から抵抗する意思を奪い去った。今は誰もいない駐車場だが、いつ誰かが来てもおかしくないのだ。だから車中でキスしている場面を目撃されたらどうなるか。想像しただけでも恐ろしい。溶岩のように煮えたぎる熱い塊が、揚羽の身体の中で脈動を始めた。その塊は五臓六腑を押し上げて今にも大爆発を起こしそうだ。唇を解放された揚羽は、ぐったりと座席にもたれかかった。
「どうして、どうして、いきなりこんなことを――」
揚羽は全身を引き攣らせながら儚い声を出した。苦しく感じるほどの動悸に、胸を上下させながら颯を見やる。
「――腹が立ったんだよ」
「えっ?」
「自分だって真白に告白されたり、航空祭に来た男にちやほやされて、まんざらでもないくせに、よくもそんなことが言えるよな。俺はお前が他の男と一緒にいるところなんか見たくないんだよ。そんな俺の気持ちも知らないで、沖縄の女とよろしくやってろだって? ふざけるなって思ったら、抑えていたいろいろなものが爆発したんだ」
「私に腹が立ったっていうだけで、こんな場所で、その、キスしたんですか?」
「ああ、そうだ! だいたい揚羽も悪いんだぞ! お前は他の男がほうっておかないくらい可愛いんだから、もう少し露出の少ない服を着たり、男に声をかけられても無視したりなんなりして、ちょっとは防衛策を取れよ! 俺はお前が悪い男に傷つけられるところなんて見たくない、耐えられないんだよ!」
片手で黒髪を掻き混ぜた颯は、隠していた己の本心を叫んだ。颯は心配で心配で堪らないといった表情をしている。池に張った薄氷のように、颯の心を覆っていた悩みと不安が、ここで一気に割れてしまったのだろう。
「それは私も同じです。お互い忙しくてなかなか会えないから、颯さんは私のことなんか忘れて、他の女の子と仲良くしてるんじゃないかって、最近よく思っていたんです。でもそれは違いましたね。私のことを心配して、思ってくれていたなんて、知らなかった。……ごめんなさい、颯さん」
揚羽は煩悶する颯に頭を下げた。あんなに熱く燃えていた愛は冷めてしまった、お互いの気持ちはすれ違ったと思っていたのに実際はその逆だった。相手のことなんか忘れて、他の異性と楽しんでいるのではないかと、二人は渦巻くような疑念を心に溜めていた。初めは小さな点だった疑念はしだいに大きくなってゆき、今日の出来事が引き金となって表に出てしまった。
そして怒りを爆発させてしまったが、結果的に揚羽は颯の本音を聞くことができた。近くにいたらきっと分からなかった。少しだけ距離を置き、溜まりに溜まっていた感情を曝け出したから、揚羽と颯はお互いの本当の気持ちを知ることができた。愛はシャワーのお湯みたいなもの。あるときは冷たく、またある時は火傷をするくらい熱く、そしてそれは高い所から低い所へ自然の法則に任せて、待ってくれている人の所に流れていくのだ。
「……ごめん、揚羽。今のは俺が悪かった。俺が好きなのは揚羽だけだ。だから他の女になんか興味ねぇよ。真っ直ぐで純粋な揚羽に、俺は恋をしたんだ」
落ち着きを取り戻した颯が頭を下げて謝る。すると暗かった目の前が不思議な明るさを帯びてくるのを感じた。何もかも言ってしまったことで、胸の中の重苦しさが消えたような気がする。座席に座り直してシートベルトを締めた颯が車の発進準備を始めた。揚羽は手を伸ばして颯の上着を掴み、哀切な色を湛えた目で振り向いた彼を見た。
「あの、颯さん。私、官舎に着くまで、我慢できそうにないです……」
颯は些か呆気にとられていたが、整った眉尻を下げると苦笑した。
「お前って、意外と大胆なんだな」
「だっ、だって、凄く気持ちよかったんだもの。あんなに気持ちよかったら、誰だって我慢できないです。……やっぱり駄目ですよね。変なことを言ってごめんなさい。官舎に着くまで我慢します」
「馬鹿、駄目じゃねぇよ。……俺だって我慢できないんだ」
微笑んで身を乗り出した颯は揚羽の頬を両手で挟むと、今度は羽毛で撫でるように優しくキスをしてきた。レバーを操作して、座席を倒した颯に引き寄せられた揚羽は、先に横になった彼の上に海月のようにふわりと覆い被さる。そして初めて恋をした時の感情を心に思い出しながら、揚羽と颯は変わらない愛を確かめ合ったのだった。

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