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君が好きなんだ
5月半ばの空が晴れたまま澄んだ青に溶けている。軽やかに駆け抜ける風は、瑞々しい緑の匂いを含んでいて、呼吸をするごとに肺腑を洗う爽やかさだ。気体のような若芽に煙っていた、欅や楢の緑にも、もう初夏らしい落ちつきがあった。揚羽たちブルーインパルスは、T‐4に乗って松島基地を発ち、浜松基地を経由して鳥取県航空自衛隊美保基地に向けて飛行していた。
ブルーインパルスに着隊してから、初めての航空祭なのに、6番機の後席に乗る揚羽の気持ちは少し沈んでいた。原因は真白1尉だ。屋上の一件のあと、揚羽は真白1尉の態度が改善されると期待していたのだが、彼の態度は一向に変わらず、逆にますます剣呑になる一方だった。それにしても分からない。真白1尉は他の隊員には普通に接するのに、どうして揚羽にだけ冷たく当たるのだろうか? 美保基地航空祭が終わって松島基地に戻ったら、真白1尉に理由を尋ねてみるべきか。ややあって美保基地の全景が見えてきた。美保基地に向けて、空を泳ぐように旋回した六機のT‐4は、オーバーヘッドアプローチでランウェイ07に着陸する。そのあとブルーインパルスは、地形慣熟を兼ねた事前訓練を行い、長い一日を終えた。
翌日の日曜日、空の祭典は幕を開けた。午前9時に美保基地司令が開会宣言を告げると、第3輸送航空団のC‐1輸送機、YS‐11輸送機、T‐400の練習機が上空に現れて、オープニングセレモニーを飾った。以後の展示飛行はプログラム通りの進行で、T‐400の三機編隊飛行、C‐1編隊の物量投下と空挺降下、YS‐11の飛行展示が行われた。
さらに築城基地から飛来したF‐2Aが、アフターバーナー全開の機動飛行で航空祭を盛り上げる。空自のCH‐47Jがホバリング展示、海上保安庁のAW139「みほづる」が吊り上げ式救助訓練を実施し、午前の展示飛行は終了した。ブルーインパルスの展示飛行は午後からなので、サイン会を終わらせた揚羽たちは、隊舎の一室に設けられた待機室で、少し早い昼食のお弁当を食べていた。
(うぅ……右手首が痛い……)
箸を持つ右手が痛くて揚羽は心の中で呻いた。相田1尉に「ヘルプに入れ!」と言われた揚羽は、なんとサイン会に強制参加させられたのだ。さすがは航空自衛隊の花形飛行部隊。一列に並んだ揚羽たちの前では、来場者たちが長蛇の列を作り、サインと握手にスマートフォンやカメラでの写真撮影を求めてきた。なかでも手作りのお菓子や、ブルーインパルスを書いた小説の同人誌を貰った時はとても嬉しかった。
サイン会には美保基地の周辺に伝わる神話の、「因幡の白兎」の兎をモチーフにした、自衛隊鳥取地方協力本部のキャラクター「トビコ」も、ブルーインパルス仕様の青色のコスチューム姿で来場していて人気を博していた。航空祭は航空自衛隊の広報活動の一環として行われる。平時に行われる大切さと合わせて、「国を空から守る」という意味も、この機会に一人でもいいから考えてくれたらと思う。
「ところでホワイトはどこに行ったんですか?」
一番にお弁当を食べ終えた鬼熊2佐が全員に訊いた。ホワイトは真白1尉のTACネームだ。鬼熊2佐に訊かれて初めて、揚羽たちは真白1尉が待機室にいないことに気がついた。お弁当を食べ始めた時はいたのだが、いつの間に部屋を出て行ったのか。まるで時代劇の将軍様に仕える御庭番のようである。もうすぐ飛行前のプリブリーフィングを始めなければいけないというのに、まったく世話の焼ける青年だ。
「私、その辺を捜してきます」
鬼熊2佐に言い待機室を出た揚羽は、隊舎を歩き回って真白1尉の姿を捜した。通り過ぎた部屋の中に人影が見えたので、引き返して覗き込んでみる。無人のブリーフィングルームに彼はいた。両腕を組んで壁にもたれかかり、窓の外の景色を静かに眺めている。西洋人形のように綺麗な横顔はどことなく悲しそうに見えた。
「真白1尉、もうすぐプリブリーフィングが始まりますよ」
部屋の外から揚羽は声をかけたが、真白1尉はこちらを見ようともしなかった。嘆息した揚羽は室内に入り、真白1尉の正面に移動した。松島基地に帰ってから訊こうと思っていたがもう我慢がならない。両手を腰に当てて揚羽は開口した。
「いい加減にしてくださいよ、真白1尉。あなたはどうして私に冷たく当たるんですか? 何か気に入らないところがあるのなら、遠慮なく私に言ってください。私たちはお互いに信頼し合っていないと飛べないんですから」
ここで初めて真白1尉が揚羽に視線を向けてきた。組んでいた腕をほどいて、壁から背中を離した真白1尉が近づいてくる。薄いが形の整った唇を、愉快そうに吊り上げた真白1尉は、野生の獣のように目を光らせていた。身の危険を本能的に感じ取った揚羽は身を強張らせた。
「――じゃあさ、鷲海さんと別れてよ」
「えっ?」
「君が鷲海さんと別れて、僕と付き合ってくれるのなら、僕は君への態度を改める」
「そっ、そんなことはできません! 私の恋人は颯さんだけです!」
「見た目通り一途なんだね。……ますます奪いたくなった」
首に巻いているスカーフを外して、パイロットスーツのジッパーを胸の下まで下ろした、真白1尉に迫られた揚羽は、壁際に追い詰められてしまった。真白1尉の妖艶な目が心を蕩かすほど狂おしく突き刺さる。今すぐ真白1尉を突き飛ばして逃げろ。脳髄が命令しているのに身体は動かない。あたかも強力な催眠術にかかったようだ。
「君はブルーインパルスのドルフィンライダーで、鷲海さんはスクランブル回数が一番多い那覇基地のイーグルドライバー。だからお互い忙しくてなかなか会えない。鷲海さんは君のことなんかとっくに忘れて、沖縄の女の子と楽しくやってるんじゃないの?」
「そんなこと絶対にありません――ひあっ!?」
真白1尉のしなやかな手が腰と臀部の上をなぞった。まるで羽毛でくすぐられているような感触だ。揚羽の身体を上から下まで愛撫する彼の手は、わざと中心を外してずらしながら、少しずつ確実に近づいてくる。颯以外の男性にこんなことをされたくないのに、どうして身体は動いてくれないんだ。それどころか真白1尉の愛撫に感じ始めているなんて――。悔しさと情けなさに、揚羽が歯噛みした時だった。
「何やってるんだこの野郎っ!!」
部屋に怒声が爆発した。揚羽に覆い被さっていた、真白1尉の身体がぐんと後ろに引っ張られ、部屋に飛び込んできた誰かが彼の顔を殴った。顔面を殴打された真白1尉は椅子を巻き込んで床に転がった。ブリーフィングルームに飛び込んできたのは、先輩パイロットの相田1尉だった。拳を固く握り締めて、指の肉に爪を食い込ませながら、みなぎる憤激で顔を火照らせている。危険な甘い罠から解放された揚羽は、ずるずると床に崩れ落ちた。当然だが相田1尉の怒りは収まっていない。相田1尉は目に角を立てて、唇から血を垂らす真白1尉を見下ろした。
「どういうつもりだよ、潤! 燕と鷲海さんが付き合っているのを知ってて、わざとこんなことをやったのか!?」
「――ああ、そうさ」
「なっ――! 鷲海さんはお前にリードソロを教えてくれた先輩なんだぞ!? その先輩の彼女を横取りしようとするなんて、いったい何を考えてやがるんだ!」
「僕は燕が好きなんだよ!!」
真白1尉の衝撃の告白に揚羽と相田1尉は揃って瞠目した。目に涙を溜めて唇を震わせるその姿は、雨に打たれて尻尾を垂れる野良犬のようである。
「……鷲海さんに写真を見せてもらった時、僕は一目で君を好きになってしまったんだ。君と鷲海さんが相思相愛だってことは分かってる、実らない恋だっていうことも分かってる。そう自分に言い聞かせたし、忘れようとしたさ。そんな時、君がブルーインパルスに着隊した。写真でしか見たことがなかった君が目の前にいる。わざと冷たく当たって、君への想いを断ち切ろうとしたけれど、やっぱり駄目だったんだよ。君には悪いことをしたと思ってる。でも、僕は――」
そこまで言うと真白1尉は顔を伏せて嗚咽を吐き出した。重力によって落ちていく涙の珠は、窓から差し込む日の光を受けて、鈍い銀色に輝いている。自分は真白1尉に嫌われていると思っていたが、実際はその逆だったとは驚きだ。相田1尉は真白1尉の正面に片膝をつくと、嗚咽で震える肩に手を置いた。
「……それならどうして俺に言ってくれなかったんだよ。俺たちはガキの頃からの付き合いなんだぞ? 腹を割って話してくれてもいいじゃないか」
「こんな情けないこと、亮平に言えるわけないだろ!」
揚羽は気づいた。真白1尉は冷淡な人間ではない。部隊の誰よりも真面目で不器用な人間なのだ。先輩の恋人に恋をしてしまった彼は、禁断の想いを誰にも打ち明けることなく、胸の奥にしまい込んで鍵をかけた。自分一人でなんとか解決しようとした、気持ちの整理をつけようとした。だができなかった。そして揚羽のブルーインパルス着隊が引き金となり、抑えていた恋慕の情が溢れ出して、自分で制御できなくなってしまったのだ。相田1尉と同じく真白1尉の正面に屈み込んだ揚羽は、肉に爪を食い込ませて握り締められた拳に触れ、セーターをほどくようにそっと拳を開かせた。
「真白1尉の気持ちは分かりました。でも私が愛しているのは颯さんだけなんです。だからあなたの恋人になることはできません。けれど『仲間』になることはできます。これからはブルーインパルスの先輩として、航空自衛隊の仲間として、私にいろいろなことを教えてください」
哲学者のような静かな面持ちで、揚羽が真白1尉に思いを伝えると、硬直していた彼の顔の筋肉は少しずつほぐれていった。真白1尉の唇は静かに合わさり頬から力が消える。やや吊り上がっていた眉は、鳥が羽根を休めるように平らになった。真白1尉は立ち上がると上を向いて瞑目し、鯨が潮を吹くように深呼吸した。目を開けて首を下げた真白1尉が揚羽を見る。揚羽の言葉で気持ちが吹っ切れたのだろう。柔らかく絶対に落ち着き払った表情に真白1尉はなっていた。
「今まで君にしてきたことは心から謝る。これからは君の先輩として、航空自衛隊の仲間として、よろしく頼むよ」
「はい! こちらこそよろしくお願いします!」
揚羽と真白1尉は固い握手を交わし、固く握り合う二人の手の上に、相田1尉がハンマーを振り下ろすように力強く掌を重ねる。これからは全員が気持ちよく空を飛べる。三人がそう思った時だった。
「――なるほど。そういうことだったんですね」
「きゃっ!?」
「うわっ!?」
「どっひゃああぁっ!?」
三人は揃ってびっくり仰天した。いつの間にか部屋の入り口に鬼熊2佐が仁王立ちしていたのだ。口は微笑みを浮かべているのに、つぶらな双眸は爬虫類の如き冷たい光を揺らめかせている。仏の鬼熊2佐が鬼に変わろうとしている。緊張する三人を順番に見やった鬼熊2佐は、口から嘆きの息を吐き出した。
「ホワイトの様子がおかしいと思っていたら、まさかこんなことになっていたとは驚きですよ。まったくゲイルといいファイアフライといい、どうしてスワローは男性にモテるんでしょうね」
ここで真白1尉が一歩前に進み出た。覚悟を決めた真剣な面持ちだ。
「これは全部僕の責任です。どんな罰でも受けます。だから燕と亮平は許してやってください。――お願いします」
鬼熊2佐を真っ直ぐに見つめた真白1尉は、頭が膝のところまでくるほど深く頭を下げた。頭を下げた真白1尉を鬼熊2佐は黙って見ている。果たして鬼熊2佐はどのような制裁を下すのか。いざとなったら援護できるように、揚羽と相田1尉は身構える。ややあって鬼熊2佐が組んでいた両腕をほどいた。頬を平手打ちするのかそれとも顔面を殴るのか。痛みを覚悟した真白1尉がぎゅっと目を瞑る。伸ばされた鬼熊2佐の手は、真白1尉の頬を弾かず顔面も殴らず、それどころか肩を優しく叩いたのだった。
「顔を上げなさい、ホワイト。みんなが待機室で待っています。私に謝る暇があるのなら、早く顔を洗ってきなさい。それともそんなみっともない顔で、展示飛行を見に来てくれた人たちの前に出るつもりですか? 私たちに悪いと思っているのなら全力で空を飛びなさい」
鬼熊2佐は息を呑んだ真白1尉の肩を最後にもう一度叩くと、ブリーフィングルームを出て行った。
この場で真白1尉を厳しく叱咤することもできたであろうに、鬼熊2佐がそれをしなかったのは、彼の心を乱れさせないためだったのではと揚羽は思った。心に乱れたまま空を飛べば操縦を誤り、僚機と衝突して墜落してしまうかもしれない。
そうなれば甚大な被害が出てしまう。ブルーインパルスは航空自衛隊の顔とも言える存在。事故を起こせば航空自衛隊全体が問題視される、ブルーインパルスの存在が危険視される。事故を未然に防ぐことこそが何よりも重要だ。だから鬼熊2佐は穏やかに語りかけた。事故の原因を未然に防ぎ、そして国民とパイロットの命を守る。それが部隊を率いる飛行隊長の責任と使命なのだ。揚羽が見やった真白1尉は、黙って鬼熊2佐が出て行ったドアを見つめていた。
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『ご来場の皆様、本日はようこそ美保基地航空祭においで下さいました。ただいまから、ブルーインパルスの展示飛行を開始いたします。これから約35分間、ダイナミックなアクロバット飛行と、美しい編隊飛行の妙技をお楽しみください』
見上げれば爽快な青天が広がるエプロン地区に、スピーカーから流れた揚羽のナレーションが響き渡る。揚羽はエプロン地区を見渡せるナレーター席に座り、展示飛行の原稿を読み上げていた。サイン会が終わると人が減ったエプロン地区は、展示飛行を見ようと集まった来場者で大混雑している。あたかも早朝の満員電車を思わせる光景だ。座ったまま展示飛行が見られるナレーター席は、まさに特等席だと言えよう。
ナレーションの原稿は、A4サイズの紙で換算すると100枚近くにのぼる。読みやすいように文字が大きく印字されていて、区切りごとに紙をめくっていく方式になっているのだ。全体の構成は「展示飛行の実施前」「オープニング」「曲技飛行」「ランディング」「トラブル等でホールドした時」からなっている。曲技飛行の部分は、序盤は全区分が共通しているが、「サンライズ」から1・2区分に対応した原稿と、3・4区分に対応した原稿に分かれ、最後の「ローリング・コンバット・ピッチ」と「コーク・スクリュー」で再び共通の原稿に戻る。そして原稿には、BGMナンバー、英語ナレーション用の原稿、発声のタイミング、その他各種注意書き等が、さながら蟻の巣のように細かく書き込まれているのだ。
『会場左手では、本日の展示飛行を実施するパイロットが、航空機へと向かいます。整斉としたパイロットの動きにご注目ください。ここで本日展示飛行を行うパイロットを紹介します。1番機、フライトリーダー、2等空佐、鬼熊薫。2番機、レフトウイング、3等空佐、三井武憲。3番機、ライトウイング、3等空佐、鹿島穰。4番機、スロット、1等空尉、比嘉真太郎。5番機、リードソロ、1等空尉、真白潤。6番機、オポージングソロ、1等空尉、相田亮平。以上六名のパイロットが、本日の展示飛行を行います』
揚羽のナレーションに合わせるように、鬼熊2佐たちがウォークダウンで歩いていくのが見える。1番機パイロットの鬼熊2佐から順番に別れたパイロットたちは、それぞれ搭乗機の前に着くと、待っていた機付き整備員と敬礼を交わした。救命胴衣と耐Gスーツ、メタリックブルーのヘルメットを装着した六人がT‐4に乗り込んだ。鬼熊2佐は観客たちに手を振りながら、双発のエンジンを目覚めさせたT‐4を、滑走路の最終チェックポイントに走らせる。そして離陸前の最終チェックを完了した六機のT‐4は、担当するポジションのアクロバット課目で大空に飛び立っていった。
ブルーインパルスの魅力を多くの人たちに伝えたい。手元に置いたエアバンドレシーバーを聴きながら、揚羽は熱い気持ちを声に込めてナレーションを進めていく。揚羽の声はカナリアが囀るようによく通り、耳障りな濁りがなくてエプロン地区にすっきりと響き渡る。長い歴史が織り上げたナレーションは、その文句を聞くだけでも、編隊のスモークやソロの機敏な動きが脳裡に蘇るようだ。まさに言葉の展示飛行と言えるだろう。
小鳥と流星、そして颯が飛んでいたブルーインパルスの空は、まだまだ遠い場所にあった。けれどいつかきっと6番機に乗って、ロールオン・テイクオフやスロー・ロール、タック・クロスを描いてみせる。揚羽の澄んだソプラノの声は、サクラが花開いた快晴の美保の空に吸い込まれていった。

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