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向けられた敵意
鏡のように明るい青空に爆音を轟かせながら、二機のT‐4が滑走路を疾走していく。5番機は離陸して脚を上げたのち、超低空で滑走路を水平飛行する。滑走路の端で急上昇、半宙返りで離陸時とは逆方向に飛んでいった。そして6番機は脚を下げたままのダーティー形態で、右に360度のバレルロールを打った。デュアルテイクオフの、ローアングル・キューバン・テイクオフと、ロールオン・テイクオフで離陸した5番機と6番機は、先に離陸していた四機とジョインナップすると、松島基地上空にアクロバットの軌跡を描いていった。
(これがブルーインパルスのアクロバット――!)
6番機の後席に座ってハンドグリップを握り締める揚羽は、あまりの凄さに全身の皮膚を粟立たせていた。全国の戦闘機パイロットの中から選抜された、精鋭たちが集まる部隊とだけあって、彼らの操縦技術には終始圧倒されっぱなしだった。ブルーインパルスは民間機のように、一機ずつ飛ぶようなことはせず、地上で編隊を組んだまま同時に離陸する。統制のとれた動きで迫力満点にテイクオフすると、低空飛行からあっという間に大空へ飛翔するのだ。
揚羽が担当するのはオポージングソロと呼ばれる第2単独機の6番機だ。デュアルソロ課目と、第1単独機の5番機とは異なる、オリジナルのソロ課目を実施する。また五機で実施する課目では、1番機が率いる編隊と合流して、フォーメーション課目も担当するため、ある意味もっとも多忙なポジションだと言えよう。
ブルーインパルスの任期は3年と決まっている。1年目は訓練、2年目に実技、最後の3年目が実技と新規入隊者を教務するのが基本。ブルーインパルスは1番機から6番機までがあり、選抜された時点で乗る機番が決まっていて、3年間変わらない。なので揚羽は先輩パイロットの相田1尉に師事して、オポージングソロの全部を学ばなければいけないのだ。
「どうだ、スワロー。6番機のアクロバットにはだいぶ慣れてきたか?」
ファーストピリオドのフィールドアクロが終わり、6番機のコクピットから下りて、全身汗まみれで今にも倒れそうな揚羽に声をかけたのは、TACネームは「ノース」の北浦克寿2等空佐だった。1番機の後席に乗っていた北浦2佐も、揚羽と同じく全身汗まみれである。飛行班長もパイロットだが基本的に飛ばない。飛行隊長が病気や怪我などで飛べなくなった時に、代役として飛ぶのが飛行班長の役目だ。スワローは揚羽が第8飛行隊にいた時から使っているTACネーム。新しい部隊に異動したら、TACネームを変更することができるが、揚羽はスワローが気に入っているので、そのまま使い続けている。
「機体にかかるGは、最大で5Gまでだって聞きましたけれど、実際体験してみると、もっとあるような気がしました。あと機体同士の距離が凄く近くて、いつ衝突するかビクビクしてましたよ」
揚羽は思ったことを素直に口にした。編隊の空中集合の時など、普通の部隊の常識では考えられないほど、凄まじい勢いで僚機が接近してくるのだ。しかもパイロットの全員が、あの相田1尉さえも、課目の開始高度と終了高度を、ぴたりと一致させる精密な操縦ぶりである。ブルーインパルスという部隊は、神業のような飛行を事もなげにやるものなのだと、揚羽は改めて感心してしまったのだった。
「それはお前だけじゃないさ。俺も最初は小便がちびりそうだったからな!」
北浦2佐が豪快に一笑する。誰かに見られているという微妙な感覚を背中に覚えた揚羽は、髪を揺らして後ろを振り返ってみた。すると5番機パイロットの真白潤1等空尉が揚羽を見つめていた。静かではあるが、奥深くに情熱の炎を宿した目だ。揚羽と視線が重なる前に真白1尉は目を逸らすと、影が伸びるように音もなく静かに歩いていき、ハンガーの隣の飛行隊隊舎に入っていった。
★
揚羽がブルーインパルスに着隊してから2ヶ月が経った。1番機から5番機の後席に搭乗して、各機と自機が担う役割を充分に勉強し、相田1尉から基本的な曲技飛行の操縦操作と、細かなテクニックを教わった揚羽は後席から前席に乗り換えて、相田1尉を後ろに乗せての単機飛行洋上アクロ訓練に入っていた。もちろんパイロットの仕事は飛行訓練だけではない。航空祭でファンに書くサインの練習、展示服の採寸、TRパイロットが展示飛行の際に読み上げる、ナレーションの原稿作成と練習など、まさに猫の手も借りたいほどの忙しい毎日が続いていた。
「噛むなよ噛むなよ~」
某三人トリオのお笑い芸人のようなことを言いながら、にやにやしているのは先輩の相田1尉だ。この日揚羽は隊舎屋上の観覧席で、展示飛行のナレーションの練習をしていた。メタリックブルーのアタッシュケースには、ナレーションに必要な原稿、エアバンドレシーバー、BGM用のMD、マイクなどの道具一式が入っている。ナレーターは基本的に配属1年目のTRパイロットが担当する。展示飛行の際はエアバンドレシーバーを聞いてタイミングを計るほか、課目の変更があった場合などは、臨機応変な態度が求められるのだ。
『ここで本日展示飛行を行うパイロットを紹介します。1番機、フライトリーダー、2等空佐、鬼熊きゃおる――』
「言ったそばから噛むか!? てゆうか『きゃおる』ってなんだよ! 隊長に失礼だぞ!」
「相田1尉が邪魔してくるから噛んだんです! 邪魔しにきたのなら帰ってくださいよ!」
「別に俺は邪魔しにきたわけじゃないぞ! 可愛い後輩を見守りにきたんだ!」
二度と噛むものか。揚羽は気を引き締めて原稿を読み上げていく。今度は噛まなかった。だが「ローリング・コンバット・ピッチ」を、なんと「ローリング・ウォンバット・ピッチ」と言い間違えてしまったのだ。瞬間揚羽の後ろで笑い声が爆発した。いちいち振り向かなくても分かる。相田1尉がお腹を抱えて笑い転げているのだろう。
暢気な笑い声は揚羽の失敗を大いに面白がっている証拠。F‐86Fの時代から、連綿と継承されてきた、伝統ある課目を言い間違えるとはなんとも情けない。どうせなら相田1尉の紹介部分をわざと言い間違えればよかった。「休憩するか」と相田1尉が言ってきたので、頷いた揚羽はマイクと原稿をアタッシュケースに直して、相田1尉の隣のベンチに座る。相田1尉はレジ袋から緑茶のボトルを取り出すと揚羽に手渡した。揚羽はキャップを捻って一口飲む。少し苦味のある緑茶の味が口の中に広がった。
「それにしても不思議だよな。どうしてそう噛んだり言い間違えたりするんだ? こんなにナレーションが苦手な隊員なんて、俺が覚えているかぎり一人もいなかったぞ」
「……だってどうしても緊張しちゃうんです。原稿を読みつつ、レシーバーを聞きながら、タイミングを計らないといけないし、一回も噛まないで読むなんてできっこないですよ」
相田1尉は黙って聞いていたが、少しして口を開いた。
「ブルーインパルスにはな、『ナレーションの神様』って言われた伝説の人がいたんだ」
「ナレーションの神様?」
「その人は鷺沼伊月さんって言ってな、一度も噛まず言い間違えず、彼の声はセイレーンの如くたくさんの人たちを魅了したって言われてるんだ。大袈裟に言ってるんじゃないぞ。実際俺も聞いた時、マジで鳥肌が立ったよ」
鷺沼伊月のことは揚羽もよく知っていた。若かりし頃の小鳥が師事した、6番機のドルフィンライダー、そして祖父の荒鷹の弟子だった男性である。穏やかで物腰柔らかく、一度も小鳥に声を荒げたことがなかったという。確か揚羽が生まれた時、一番に出産祝いを贈ってくれたと流星から聞いた。
「俺も最初は噛んだし言い間違えもした。でも展示飛行のナレーションはな、ブルーのパイロットの誰もが乗り越えなければいけないことの一つなんだ。間違えずに喋るのもそうだが、何よりもいちばん大切なことは、ブルーインパルスの素晴らしさを、たくさんの人たちに知ってほしいという熱い気持ちなんだ。燕は俺たちの中で、一番熱い気持ちを持っていると俺は思ってる。燕なら最高のナレーションができる! だからこんなところで挫けるな!」
相田1尉に揚羽は肩を掴まれた。人好きがする日焼けした顔も双眸も、さながら神輿に乗るお祭り男の如く、溢れんばかりの情熱で輝いている。相田1尉の情熱は揚羽の心に熱い炎を灯す。――相田1尉の言うとおりだ。こんなところで挫けていては、いつまで経っても一人前のドルフィンライダーにはなれない。夢を目指して頑張ると揚羽は颯に約束した。小鳥も流星もナレーターを勤めたのだから、二人の娘である揚羽にだって必ずできる。そこまで考えてみると、不思議と上手に喋れるような気がした。気持ちを切り替えた揚羽がアタッシュケースを持ち上げた時だった。
「――随分と楽しそうだね」
舌の先に氷の塊を乗せたような冷えきった声が響く。揚羽は後ろを振り返る。すると鉄の扉の前に腕組みをした真白1尉が立っていた。鼻柱に両側から強く迫った眉は極めて不快だと言っているようだ。
「君はいったい何をしにブルーインパルスに来たんだ? まさかドルフィンライダーとよろしくしたいから、ブルーインパルスに来たわけじゃないよね? 分かってると思うけれど、僕たちはアイドルじゃないんだよ」
「私はそんな浮ついた気持ちで、ブルーインパルスに来たわけじゃありません! 誤解しないでくれませんか!?」
聞き捨てならない言葉に当然ながら揚羽は怒りを覚える。だが真白は冷徹な表情を崩さなかった。
「それならもっと真面目にやってほしいものだね。僕はブルーインパルスが国民の税金で遊んでいるアクロバット部隊だと思われたくないんだよ」
「おい! 潤! それは言い過ぎだぞ!」
立腹する揚羽と相田1尉を一瞥した真白1尉は、鉄の扉を開けると屋上を立ち去った。空気が重い。鉛の箱に押し込められて海に沈められたような気分だ。
「なんなんですかあの人は! 失礼にもほどがありますよ! 真白1尉は本当にブルーインパルスのパイロットなんですか!?」
怒りが収まらない揚羽は声を荒げた。単機飛行が多いリードソロは、少々個性が強いパイロットが務めるというが、だがそれにしたってあの態度は度が過ぎるのではないだろうか。社交性もそうだが、ブルーインパルスは仲間との協調性も重要視される部隊。あんな無礼極まりない態度で、真白1尉はよくも今まで飛んでこられたものだ。怒り心頭の揚羽を見た相田1尉は困ったように頭を掻いた。
「あんなふうだが潤は悪い奴じゃないよ。昔から人見知りが激しいところもあったけどな」
「相田1尉は真白1尉とお知り合いなんですか?」
「同じ千葉県生まれで家も隣近所。小中高も同じクラスでさ、確か中学三年の時だったかな。俺の家でトップガンを観て、戦闘機パイロットになりてーー! って俺も潤も思ったんだよ。それで一緒に防府北基地に入隊したってわけさ。潤のことはガキの頃からよく知ってる。何か理由があってあんな態度をとったんだと思う。潤には俺からよく言い聞かせておくから、ここは俺に免じて許してやってくれないか?」
相田1尉にここまで言われたのだから許すほかないだろう。それに相田1尉に不平不満をぶつけても状況は改善しない。今すべきことはORパイロット昇格を目指して頑張ることだ。気合いを入れ直した揚羽は、アタッシュケースを開けて道具一式を取り出した。

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