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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第7章 蒼穹の飛燕

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新たなる一歩

 青く透けた無限の天空を霞のような春の雲が流れていく。まだ春寒の残っている冷たい空気の中に、花や芽の瑞々しい匂いが混じっている。気持ちよく晴れ上がった青空を背景に、満開の桜の花が咲き誇っていて、温かな春風が吹くと桃色の花弁が花吹雪となって渦を巻く。まるで自分の新しい生活を祝福してくれているみたいだと、宮城県航空自衛隊松島基地の正門の前に立つ女性は思っていた。制帽、紺色のジャケットと膝下丈のタイトスカートを身に着け、左胸に銀色のウイングマークを輝かせる彼女の名前は燕揚羽2等空尉。福岡県築城基地から松島基地に異動してきた航空自衛官である。

「お帰りなさい、ドルフィンテール」

 穏やかな調子の声が春風に乗って揚羽の耳に届いた。声が聞こえたほうを見やると、警務室の前にパイロットスーツ姿の男性隊員が、日焼けした顔に微笑みを浮かべて立っていた。190センチの筋骨逞しい体躯を誇る男性は、2年前から揚羽がよく知る人物だ。彼は鬼熊薫2等空佐。TACネームは「ベアー」の鬼熊2佐は、第11飛行隊ブルーインパルスの飛行班長を務めていたが、3等空佐から2等空佐に昇任し、今はブルーインパルスの飛行隊長、そして1番機パイロットとして空を飛んでいる。こちらにやって来た鬼熊2佐に向けて揚羽は敬礼した。

「ただいま戻りました。鬼熊2佐、私はもうドルフィンテールじゃありませんよ」

「そうでしたね。基地司令がお待ちしていますので、行きましょうか」

 揚羽に視線を投げかけた鬼熊2佐が歩き出す。警務隊が勤める警務室の受付窓口に、身分証を提示した揚羽は彼のあとに続いた。庁舎地区にある第4航空団司令部に入り、基地司令が待つ司令室の前に向かう。鬼熊2佐が扉を叩いて用件を伝えると、「入りなさい」と返事が返ってきた。扉を開けて入った司令室は、金粉を振り撒くような春の陽光で満ちている。正面に置かれている執務机の左側に、背筋を伸ばした男性がこちらのほうを向いて立っていた。揚羽と同じ空自の紺色の制服の左胸には、色鮮やかな防衛記念章が数多く着けられている。第4航空団兼松島基地司令の斎藤一之空将補は、揚羽を見るとにこりと微笑んだ。

「申告! 燕揚羽2等空尉は、本日築城基地より第11飛行隊に着隊しました!」

 揚羽は真っ直ぐに背筋を伸ばすと、明瞭とした声で淀みなく着隊の報告をする。斎藤空将補は揚羽に視線を当てたまま、静かに「ご苦労」と返事を返した。

「燕揚羽2等空尉、君は今日この瞬間から、第11飛行隊ブルーインパルスの一員だ。君と同じく、ブルーインパルスのパイロットを目指す自衛官たちの鑑となるよう、しっかり訓練に励みなさい」

「はい!」

 第11飛行隊ブルーインパルスの一員。まさに身も心も引き締まる凜とした言葉だ。斎藤空将補に敬礼をした揚羽は、鬼熊2佐と共に司令部をあとにした。隊員食堂、基地クラブ、基地売店など、基地施設は見慣れているはずなのに、気持ちが新しくなると見る物すべてが新鮮に思えてしまう。鼻歌を歌いながら、ミュージカルよろしく華麗にスキップをしたいところだが、鬼熊2佐がいるので揚羽は我慢した。

 基地東側の区画にブルーインパルスの飛行隊隊舎と専用の格納庫は置かれている。上部に青色のラインが入った、見た目が学校の校舎のような白色の建物が第11飛行隊隊舎だ。自動ドアを抜けた先のエントランスには、ブルーインパルスのエンブレムが描かれたカーペットが敷かれ、創設50周年を記念したモニュメントが飾られているほか、向かって左手の壁には、メンバー全員の顔写真を貼った木製の額縁と、在籍隊員の氏名などを記したプレートが並べられていた。

 揚羽と鬼熊2佐は正面の階段で隊舎の二階に上がり、左に曲がって廊下を進んでいく。飛行前と飛行後に集合して、飛行計画を打ち合わせるプリブリーフィングや、フライトの評価や反省をするデブリーフィングを行う、ブリーフィングルームのドアが見えてきた。ブリーフィングルームの隣にあるのは隊長室だ。ブリーフィングルームから賑やかな声が聞こえてくる。鬼熊2佐が言うには、飛行班の全員が首を長くして、揚羽が来るのを待っているらしい。それを聞いて揚羽は緊張した。鬼熊2佐がドアをノックして開ける。果たしてどんなパイロットたちが待っているのだろうか――。揚羽は緊張しながら入室した。

「きたきたきたーーー!!」

 揚羽が入室した直後だ。椅子を跳ね飛ばして立ち上がった青年が雄叫びを上げた。目を白黒させる揚羽に構わず、青年は闘牛のように鼻息荒く近づいてくると、がっしりとした両手で揚羽の手を握り締めた。

「初めまして! 俺は6番機パイロットの相田亮平あいだりょうへい1等空尉です! TACネームは相田の『あい』をとった『ラブ』です! みんなからはブルーインパルスのムードメーカー、アイラブ相田って呼ばれ――あふんっ!」

 突然相田亮平1等空尉がちょっと悩ましげな声を上げた。相田1尉の後ろに違う青年が立っている。パイロットスーツのポケットに両手を突っ込み、片脚を上げた状態の姿勢だ。相田1尉は涙目で臀部を押さえているから、後ろの青年が予告もなく蹴りをお見舞いしたのだろう。

「いきなり蹴るなんて酷いじゃないか! お尻が四つに割れたらどうするんだよ!」

「うるせぇくたばれクソ野郎」

「だいたいお前はどうしていつも蹴ってくるんだ!?」

「そこにお前がいるからだ」

「なんだと!? この白雪姫がっ!」

「その名前で呼ぶな!」

 臀部を蹴られた相田1尉と彼の臀部を蹴った青年が火花を散らす。なんだか初めて颯と会った時の自分を見ているようである。今にも掴み合い殴り合いの喧嘩を始めそうな、二人の間に割って入ったのは、やはり鬼熊2佐だった。

「いい加減にしなさい! また1週間トイレ掃除をしてもらってもいいんですよ? それとも――」

 2年前に颯を戦慄させた鬼熊2佐の氷の微笑みは今も健在だった。骨の髄まで震え上がった相田1尉と青年は、怒りの矛を収めるとそれぞれ席に着く。しかし二人はテーブル越しにまだ睨み合っている。どうやら二人の諍いは日常茶飯事らしい。残りのパイロットたちはどこ吹く風といった様子だ。鬼熊2佐は額に手を当てて嘆息すると、気を取り直した顔で揚羽を見やった。

「みっともないところを見せてしまってすみません。自己紹介、よろしくお願いします」

 鬼熊2佐に頷いた揚羽は、踵を合わせて背筋を伸ばし、右手をこめかみに当てて敬礼した。

「築城基地から着隊しました、燕揚羽2等空尉であります! よろしくお願いします!」

 揚羽の着隊の挨拶が終わると、パイロットたちは順番に自己紹介していった。飛行班長の北浦克寿きたうらかつとし2等空佐。2番機の三井武憲みついたけのり3等空佐。3番機の鹿島穰かしまみのる3等空佐。4番機の比嘉真太郎ひがしんたろう1等空尉。相田1尉の二回目の自己紹介が終わり、最後に彼と火花を散らした青年が揚羽の前に進み出た。

「――5番機パイロットの真白潤1等空尉。君のことは先輩の鷲海さんから詳しく聞いてる。これからよろしく」

 真白潤1等空尉は表情を変えず淡々と挨拶をした。短く刈り込んだ黒髪と、日に焼けた人好きがする顔立ちで、背が高く身体つきもがっしりとしていて逞しく、まさに熱血漢を絵に描いたような相田1尉とは対照的に、真白潤1等空尉はパイロットしては色白で華奢な姿態をしている。硝子細工のように繊細で神経質な青年。それが揚羽が覚えた真白1尉の印象だ。そして最後に鬼熊2佐が改めて自己紹介をして、着隊の挨拶と顔合わせは終了した。

 荷物の整理があるだろうから、今日はもう基地官舎に帰っていいと言われたので、鬼熊2佐たちに一礼した揚羽は飛行隊隊舎をあとにした。飛行隊隊舎を出た揚羽の目に、エプロンに駐機されている、ブルーインパルス仕様のT‐4の姿が映った。懐かしのT‐4を見てから官舎に行くことにした揚羽は、エプロンのほうに向かう。六機のT‐4は飛行後点検が行われている最中で、三人一組で点検する整備員の中に、揚羽は見知った顔を見つけた。エプロンに立つ揚羽に気づいた整備員は、歓喜の笑顔を浮かべて走ってきた。

「揚羽ちゃん! お帰りなさい!」

「ただいま! 花菜ちゃん!」

 整備員は佐倉花菜1等空曹。第11飛行隊の整備小隊に異動した花菜は、OJTと呼ばれる実務訓練を受けたあと、晴れて一人前のドルフィンキーパーになったのだ。およそ2年ぶりの再会を、手を取り合って喜ぶ揚羽と花菜のところに、もう一人の整備員と男性パイロットがやってくる。二人の登場はさらに揚羽を喜ばせた。

「おう! 元気そうじゃないか! ドルフィンテール!」

「久しぶりだな、ドルフィンテール」

 やって来たのは三舟勇1等空曹と蓮華悠一2等空佐だった。三舟1曹は第11飛行隊の整備小隊班長として基地に留まっていて、ブルーインパルスの1番機パイロットの任期を終えた蓮華2佐は、現在第21飛行隊の教官として、ファイターパイロットの育成をしている。2年前は独身貴族だった蓮華2佐は、去年結婚したと聞いた。だが驚くことに蓮華2佐の結婚相手はなんと花菜なのだ。揚羽と同じく花菜も、憧れのドルフィンライダーと幸せになることができたのである。二人が左手の薬指に嵌めている、お揃いの結婚指輪が、まだ結婚していない揚羽にはとても眩しく見えた。

「もう! 鬼熊2佐にも言いましたけれど、私はもうドルフィンテールじゃありませんよ! だから三舟さんも蓮華2佐も、次からはドルフィンライダーの燕揚羽って呼んでくださいね!」

 揚羽が唇を尖らせて不満をぶつけると、三舟1曹と蓮華2佐は揃って苦笑した。二人に怒って注文したが、ドルフィンテールと呼ばれた時、実は嬉しかったのは内緒だ。整備員に呼ばわれた三舟1曹は、揚羽に片手を上げると急いでエプロンを走っていった。

「それじゃあ私も隊舎に戻るよ。またあとで」

「はい」

 揚羽は呆気にとられた。蓮華2佐と花菜はなんと揚羽が見ている前で軽いキスを交わしたのである。蓮華2佐と花菜は、周囲の目などまるきり気にしていない様子で、熱く見つめ合っている。まったく少しは遠慮したらどうなんだ。見ているこちらのほうが恥ずかしくなってしまうではないか。蓮華2佐を見送って花菜と別れた揚羽は、警務隊の隊員に挨拶して基地正門を出ると、徒歩5分の場所に建つ女性用の官舎に向かった。

 まずは窓を開けて空気を入れ換え、次にカーテンを開けて暗い室内を明るくした。1LDKの部屋に積まれているダンボール箱を順番に開けて、きちんと中身が揃っているか確認する。新居に引っ越してきてから、まず最初に行うことは隣近所への挨拶だ。ここに来る前に予め買っておいた引っ越し蕎麦を携えて、揚羽は左右の部屋と、上と下の階に住む隊員に挨拶をしてから、既婚者の隊員とその家族が住む棟に足を運ぶ。目的の部屋を見つけた揚羽はインターフォンを鳴らす。ややあってドアが開き、部屋の住人が顔を覗かせた。

「揚羽ちゃん?」

「お久しぶりです、瑠璃さん」

「本当に久しぶりね。立ち話もなんだから中に入って」

 瑠璃に招かれた揚羽は室内に入った。2LDKの部屋は綺麗に整理整頓されており、ベビーベッドや紙おむつ、兎や青色の丸い鼠など動物の縫いぐるみが置かれている。そういえば玄関にもベビーカーが置かれていた。

「瑠璃さんは今何ヶ月なんですか?」

「7ヶ月。この子ったらときどきお腹を蹴ってくるのよ」

 大きく膨らんだお腹を撫でた瑠璃は嬉しそうに微笑んだ。瑠璃の名字は石神ではない。新しい名字は朝倉。松島救難隊の救難員の朝倉晴登1等空尉と結婚した瑠璃は、航空自衛隊を退官して今は晴登と一緒に官舎で暮らしているのだ。ミネラルウォーター、紅茶、クッキーを運んできた瑠璃は、少し難儀そうに揚羽の向かいに腰掛けた。

「準備万端って感じですね」

 部屋の半分を占領するベビー用品を見回して揚羽は言った。

「早く準備しておいたほうがいい! って晴登さんが次から次に買ってくるのよ。ちょっと気が早いと思わない?」

 と瑠璃は呆れた様子を見せたが、我が子が生まれてくる時を楽しみにしているのが、手に取るように分かった。慈しむようにお腹を撫でる瑠璃からは、光のような母性が満ち溢れている。晴登と瑠璃の子供だ。きっと素晴らしい子供が生まれてくるに違いないだろう。

「瑠璃さんは子供を産むって決めた時、その、後悔はしなかったんですか?」

 揚羽の質問に瑠璃は双眸を瞬かせた。それは今から1年前のことである。実は瑠璃はブルーインパルスの3番機パイロットに抜擢されていた。だがなんと瑠璃はそれを断ったのだ。揚羽と同じく瑠璃の両親もドルフィンライダーで、小鳥と流星と肩を並べて空を飛んでいた。瑠璃がドルフィンライダーになることを夢見たのは言うまでもない。そしてブルーインパルス抜擢の話が舞い込んだ。

 ドルフィンライダーはファイターパイロットの次に花形と言われる特技。空自パイロットなら誰もが喜び勇んで抜擢の話を受けるだろうに、瑠璃は夢を掴むことなく自らの意思で手放した。そして退官して晴登と一緒に生きる道を選んだ。後悔していないのか訊きたくなるのが人間の性だろう。ミネラルウォーターを一口飲んだ瑠璃はゆっくりと唇をほどいた。

「後悔はしていないけれど、とても迷ったわ。愛する晴登さんの子供が欲しい、守るべき人たちのために頑張る彼を側で支えたい。私は迷いよりもこの気持ちが強いことに気づいたの。だから私は晴登さんと一緒に生きる道を選んだの。この子を産むためには、私が元気な身体でいないといけないしね」

 「それに」と言った瑠璃は言葉を続けた。

「私の夢は揚羽ちゃんが受け継いでくれたわ。飛んでいくT‐4を見るだけで、私はブルーインパルスのみんなと空を飛んでいるような気になれる。夢は夢のままで大切にしまっておいたほうがいい時もあるのよ」

 瑠璃は晴れやかな笑顔を浮かべてみせた。後悔していない、心から満足している様子が手に取るように分かる。瑠璃に引っ越し蕎麦を渡した揚羽は部屋に戻った。日用品の買い付けや、部屋の整理整頓をしているうちに、いつしか世界は黄昏を迎えていた。揚羽は写真立てをじっと見つめる。中に入っているのは、204のF‐15を背にして立つ、微笑んだ颯を写した写真だ。

 花菜と瑠璃はそれぞれ結婚して、瑠璃は晴登の子供を授かった。もちろん揚羽も颯といつかは結婚したいし、彼の子供が欲しいと思っている。しかしまだ決心がつかないのだ。颯に結婚を申し込まれ、子供が欲しいと請われた時、自分は翼を畳んで空から離れられることができるのだろうか? いくら煩悶しても答えは出てこない。揚羽はベランダに出て景色を眺める。夕焼けで薔薇色に燃える空を、ブルーインパルスのT‐4が、タッチアンドゴーで飛んでいくのが見えた。
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