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思いは変わらない
くまなく晴れ上がった紺青の冬空が天高く広がっている。冬になると色彩がなくなって、何もかもが灰色の風景の中に閉じ込められているようだ。日本列島は霧のように染み透る冬の重い空気に包まれているが、南に位置する沖縄県は12月とは思えないほど、肌触りの柔らかな空気に包まれていた。なかでも颯が所属する那覇基地は航空祭を開催しており、基地は真夏のような熱気でいっぱいに満ちていた。
「おまえ、揚羽ちゃんと何かあったのか?」
航空祭の編隊飛行を終えたあとのブリーフィングルーム。いきなり黎児に問われた颯は心臓が止まるような思いをした。まるで犯人はおまえだろうと名探偵に言われたような気分だ。だが内心の動揺を悟られたくない。颯はできるだけ冷静でいられるよう努力しながら黎児を見返した。
「揚羽とはうまくやってる。てゆうかなんでいきなりそんなことを訊くんだよ」
「今日の編隊飛行、旋回のタイミングが少し遅れただろ。平山隊長とみんなは気づいていなかったけどな。マスリーダーの検定試験が近づいているっていうのに大丈夫なのか?」
確かに旋回するタイミングが遅れてしまったことは覚えている。だが黎児がそれに気づいていたなんて驚きだ。なぜなら黎児が乗るイーグルとは3キロほど離れていたからだ。検定試験についてとやかく言うのは大きなお世話だと思う。それに黎児だってもうすぐフライトリーダーの検定試験があるはずだろう。自分のことを心配したらどうなんだと言ってやりたい。颯の気も知らない黎児は「それに」と言葉を続けた。
「いつもはのろけ話を聞かせてくるくせに、ここ数ヶ月何も言ってこない。揚羽ちゃんと何かあったんだって思うのが普通じゃないか。なあ、何かあったのなら俺に話してくれよ。悩みがあるのなら相談にのるぜ」
「……うまくやってるって言っただろ。腹が減ったから昼飯食いにいってくる」
素っ気なく言い返して颯は部屋を出ようとした。しかし次の瞬間強い力で腕を掴まれる。颯の腕を掴んでいるのは黎児だ。ファンの女の子たちと握手や写真撮影をしていた時とは違う、イーグルのコクピットに乗り込んだ時のような真剣な面持ちである。黎児は興味本位で訊いているのではない。心の底から真剣に颯を心配しているのだ。促されるように席に座った颯は、スクランブル任務を終えたあと揚羽と何があったのか、黎児にすべてを話していた。黎児は茶化すこともせず真剣に颯の話を聞いていた。
最後まで話した颯の脳裡に揚羽の姿が浮かんだ。花のように可憐な笑顔。自分を呼んでくれるソプラノの声。真っ直ぐで純粋な心。揚羽を初めて抱いた夜のことは、3年が経った今でも鮮明に覚えている。揚羽のすべてが愛おしい。愛情が心の奥から溢れ出す。自分のほうから冷たく突き放して遠ざけたのに、彼女を愛おしく思うなんて矛盾しているのではないか。だが裏を返せば自分はそれだけ揚羽を愛しているということだ。会って話して揚羽に謝りたい。そうしたいのに一歩踏み出す勇気がどうしても出なかった。俯く颯に黎児は言葉をかける。
「あれだけ大騒ぎしたんだから、最後まで愛を貫き通すのが男ってもんだろ。揚羽ちゃんと会って話してこいよ。それに弱気になるなんておまえらしくもないぞ。俺が知る颯はいつも自信満々で偉そうで、壁にぶつかって悩むことがあっても、逃げ出さずに悩んで悩んで悩み抜いて、壁を乗り越えることができる強い男だ。おまえと揚羽ちゃんは絶対に別れたりしない! 俺が保証してやる!」
颯は黎児に強い力で背中を叩かれる。逃げ続けてきたせいで貴彦との絆を失いかけた。同じ轍を踏む真似は二度としたくない。黎児に感謝を伝えた颯はブリーフィングルームを飛び出すと、ブルーインパルスの待機室がある隊舎に向かった。
「鷲海さんじゃないですか」
ブルーインパルスのファンたちが待ち構える隊舎の前で、颯は一人の隊員に声をかけられた。ダークブルーの部隊識別帽子を被り、同色のタイトなパイロットスーツを着ている。間違いなくブルーインパルスのドルフィンライダーだ。花形ドルフィンライダーの登場に、隊舎の前に集まっている女の子たちが黄色い声を上げた。
「お前、真白か?」
颯が訊くと青年は笑いながら頷いた。青年の名前は真白潤1等空尉。颯からリードソロの技術を教わった5番機のパイロットである。確か真白は今年で最後の3年目だったはず。ラストアクロを終えてブルーインパルスを卒業したと颯は思っていたのだが。真白が言うには、後任の5番機パイロットがまだ見つからないので、しばらくブルーインパルスで飛び続けるらしい。真白の周りに集まってきたファンたちに、どういうわけか颯も握手とサインに写真撮影をお願いされる。二人の美男子と交流したファンたちは、満足した様子で解散していった。
「相田は元気にしているのか」
「ラブですか? あいつはラストアクロを終えて、アグレッサーに異動しましたよ。暑苦しい奴がいなくなって清々しましたね。ところでどうしたんですか? 隊長に用があるなら呼んできますよ」
「いや、その、用があるのは隊長じゃなくて――」
口ごもる颯を真白は怪訝な面持ちで見ていたが、ややあって彼はなるほど分かったというふうに頷いてみせた。
「隊長じゃなくて『彼女』に会いにきたんですね。プリブリーフィングまで少し時間がありますから大丈夫ですよ。ここじゃあれですし、中に入って待っていてください」
真白に続いて隊舎に入った颯は階段を上がり、踊り場の手前で彼女が来るのを待った。しばらく待機していると、部屋から出てきた女性隊員が廊下を早足で歩いてくるのが見えた。6番機のドルフィンライダーで、颯の恋人の燕揚羽2等空尉だ。踊り場の前で待つ颯を見つけた揚羽は、小走りに廊下を駆けてきた。
「忙しい時間にいきなり訪ねて悪かったな」
「そんなことないです。……私も颯さんに会いに行こうかなって思ってましたから」
颯は二人きりで話せる場所を探して廊下を歩く。ちょうどフライトルームの一室が空いていたので、颯は揚羽を連れて中に入った。いつもなら明るく元気に近況を訊いたり話したりしてくるのだが、今日の揚羽は硬い表情を浮かべて黙り込んでいる。空腹の胃に吐き気がくるような不安を覚えているような表情だ。やはりあの出来事が揚羽の心に暗い影を落としているのか。ただ時間だけが無駄に過ぎていく。決意してここに赴いたはずなのに、揚羽を前にすると顔面の筋肉は感電したように動いてくれなかった。だがこのままでは問題は解決しない。颯は意を決して開口した。
「……揚羽のためだ、家族のためだって言いながら、結局俺は自分の我儘を揚羽に押しつけていたんだ。夢だったドルフィンライダーになって頑張る揚羽に、あんなことを言うなんて、俺は最低最悪だよ。これじゃあ嫌われても仕方がないな。器の小さい男だって幻滅したんじゃないのか?」
息を呑んだ揚羽が顔を上げる。二人だけしかいないフライトルームは、教会の告解室のように静謐な空気に包まれていった。自嘲するように口角を歪めた颯は視線を逸らした。揚羽が手を握ってくる。颯と視線を合わせた揚羽は、白いスカーフを巻いた細い首を「違う」と振った。
「幻滅なんてしませんよ。それは自衛官なら誰だって一度は考えることだわ。私は颯さんが大好きだし、心から愛しています。だからあなたがなんと言おうと、私の気持ちは絶対に変わりません」
熱い力を秘めた声で揚羽はきっぱりと言い切った。心に被さっていた暗雲が晴れて光が差し込んだように思えた。どこまでも真っ直ぐで純粋で、そして自分を一途に想ってくれる姿に颯の胸は震える。揚羽は躊躇いなく言ってくれた。ならば自分も揚羽の意思を尊重しよう。どうなるか分からない未来に、いちいち一喜一憂していたら幸せは掴めない。颯は揚羽の背中と腰に腕を回して抱き締めた。
揚羽と別れた颯は204の飛行隊隊舎に戻り、屋上に上がって展示飛行が始まるのを待つ。13時15分、ブルーインパルスの展示飛行は始まった。ダイヤモンド・テイクオフ&ダーティーターン。フォー・ポイント・ロール。サンライズ。そして新しく追加されたデュアルソロ課目の「フォーチューン・クローバー」に、2020年の東京オリンピックの空を飾った、五機編隊課目の「GORIN」など、ブルーインパルスは沖縄の青空にアクロバットを描き、集まった人々を感動の渦で包み込んでいった。
(頑張れよ、揚羽。俺も頑張るからな――)
サクラが花開いた青空に向かって颯は心の中で呟いた。六機のT‐4がフェニックス・ローパスで頭上を駆け抜けていく。6番機に乗る揚羽が手を振ってくれたような気がして、颯も大きく手を振り返した。だがこの時の颯は知る由もなかった。ブルーインパルスに悲劇が起こり、自分と揚羽に大きな試練が訪れることを――。

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