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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第6章 疾風の荒鷲

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大空の盾

 9月に入っても空気は熟れたように暑く、厳しい残暑が長く続いていた。元気に鳴く蝉の声が、地獄の釜で煮られているような残暑を、さらに耐え難くしている。颯は飛行隊長の平山2佐と黎児、そして和泉拓海3等空尉と朝から警戒待機アラート任務に就いていた。航空自衛隊は敵が日本の領空に侵入しないように、24時間365日警戒監視している。万が一領空侵犯の恐れがある航空機を発見した場合、すぐさま航空機を緊急発進させ、対領空侵犯措置を取る。この緊急発進を「スクランブル」と呼ぶのだ。

 兵装・燃料・整備状態を万事整えて、警戒態勢を保っている戦闘機を「アラート機」と言い、それらが待機している格納庫を、「アラートハンガー」と呼ぶ。アラートハンガーには四機の戦闘機のほか、パイロットと整備員の待機室が中央にあり、基地の中でも常に緊張している場所と言われている。アラートハンガーは、戦闘機が並んでいるエプロンとは、随分離れた滑走路の端にあるのが特徴で、これは滑走路の末端から、アラート機が素早く離陸できるようにするため。エプロンから滑走路まで、誘導路をゆっくり走っていたら、スクランブルの発令から5分以内で離陸することは不可能になる。つまりできるだけ早く、アラート機が離陸のポジションにつけるように考えられているわけだ。

「鷲海1尉って何回もスクランブルしてるんですよね。警告射撃までいったことはあるんですか?」

 パイロットが待機するアラート待機室。平山2佐がトイレのため、待機室を離れたのを見計らって、和泉が長椅子に座って雑誌を読む颯に話しかけてきた。和泉のTACネーム、サイレンの由来となった高い声は、気のせいかいつもより上擦っている。それに瞳もきらきら輝いていた。和泉は気持ちが昂ぶっているのだ。普通アラート任務は緊張すると思うのだが。いったいどんな精神構造をしているのか。雑誌を閉じた颯は和泉に視線を向けた。

「ああ、一度だけあったな。警告射撃をする前に相手は立ち去ったよ」

「あと少しで撃てたのに残念ですね! 鷲海1尉も撃てなくて悔しかったですよね!」

 無邪気に笑う和泉の言葉を耳にした瞬間、颯の思考は耐えられない憤激でいっぱいになった。嵐のように激しい怒りは、稲妻を閃かせながら颯の全身を駆け巡る。長椅子から立ち上がった颯は、顔の端まで目尻を吊り上げて和泉を睨みつけた。さながら蛇に睨まれた蛙の如く、青褪めた和泉は身を強張らせた。

「――お前、今なんて言った?」

「えっ? あと少しで撃てたのに残念だ、撃てなくて悔しかったですかって……」

「あと少しで撃てたのに残念だ? 撃てなくて悔しかった? ふざけたことをぬかすんじゃねぇよ、この馬鹿野郎が!! するとなんだ!? お前は戦闘機を撃墜したいから空自パイロットになったのか!? 俺たちは『専守防衛』を信条とする自衛隊だぞ!! 俺たちは戦闘機を撃墜するために訓練をしているんじゃない、日本の空を守るために訓練をしているんだよ!!」 

 逃げようとした和泉の胸倉を掴んだ颯は、雷鳴のような大声で怒りを叩きつけた。頭に集まった血液が泡を立てながら沸騰する。一発顔面を殴らないと気が済まない。怒り心頭の颯は右拳を振り上げた。だが颯は黎児に後ろから羽交い締めにされたので、振り上げた右拳が和泉の顔面を砕くことはなかった。巣を叩き落とされた雀蜂の如き怒りは収まらず、颯は黎児を振り払うと再び和泉に掴みかかった。尋常じゃない光景に飛行管理員も腰を浮かせたその時だ。用を済ませた平山2佐が待機室に戻ってきた。待機室に入ってきた平山2佐は、ぎょっとした顔で立ち止まった。

「いったい何をしているんだ!? 蛍木! 二人を引き離すぞ!」

 平山2佐と黎児が協力して颯と和泉を引き離す。黎児が平山2佐に一部始終を説明すると、彼の表情は瞬時に険しくなった。喧嘩両成敗と言わんばかりに、平山2佐の拳骨が隕石のように、颯と和泉の頭に落ちてくる。

「和泉、鷲海の言うとおりだぞ。撃てたのに残念だ、撃てなくて悔しかっただなんて、私たちパイロットは決して思ってはいけない。私たちは撃墜したくて戦闘機に乗っているわけじゃない。私たち航空自衛隊は、日本の空を守る大空の盾になるために、毎日訓練をしているんだ。ここは簡単に戦闘機を撃墜できる、エースウォンバットのゲームの世界ではないんだよ。しかし撃つ時がきたら、その時は撃たなければいけない。だから撃つ覚悟は常に持っておくんだ」

 低い調子の落ち着いた、平山2佐の声が紡いだ言葉は、颯たち三人の胸を強く衝いた。10年以上ファイターパイロットとして飛んでいる平山2佐の、経験、自負、思いのすべてが集約された、静謐を滲ませる言葉だった。長い年月をかけて彫刻を彫るような、落ち着いた態度と声音で平山2佐が颯と和泉を諭したのは、スクランブルを前に緊張させたくないという、彼の思いやりの表れなのだろう。黎児が遠慮がちに挙手した。

「あの、平山2佐。一つ言ってもいいですか?」

「なんだ?」

「エースウォンバットじゃなくて、エースコンバットですよ」

 黎児が指摘すると平山2佐は両目をぱちくりさせた。提出したテストの答案用紙に、名前を書き忘れたのを思い出した時のような表情だ。颯たちは笑いそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えていたが、ついに耐えられなくなり口を全開にすると、天井を突き抜けそうに腹いっぱいに声を上げて笑った。平山2佐は最初は憮然としていたが、喉の奥から笑い声を押し出し始める。平山2佐の声も混じった晴れやかな笑い声は、つい先程まで殺気立っていた待機室の空気を明るくしていった。

「……すみません、鷲海1尉。僕、空自パイロットとしての自覚が足りていませんでした。反省しています」

「いや、悪いのは俺も同じだよ。一人で気負い込みすぎていたんだ。怒鳴り散らして悪かった。平山2佐が言ったこと、絶対に忘れるんじゃないぞ」

「はい!」

 颯と和泉が亀裂を埋めた直後だ。飛行管理員が待機するカウンターに置かれた電話が鳴り響いた。颯たちは一斉に飛行管理員のほうを見やった。飛行管理員は緊張した面持ちで受話器を耳に当てている。飛行管理員の顔に滲む緊張の色が、次第に増していくのを見た颯は直感した。南西防空管制群の防空司令所から、スクランブルが下令されようとしているのだ。そして受話器を置いた飛行管理員が颯たちを見返した。

「ホットスクランブル!」

 飛行管理員が一声すると同時に、颯と黎児は待機室を飛び出した。黎児は2番機が格納されているハンガーに走り、颯は1番機が格納されているハンガーに駆け込む。同じく待機室から駆け込んできた、整備員と武器弾薬整備員たちが、イーグルの発進準備を整えていた。610ガロンハイGタンク、AAM‐5・04式空対空誘導弾、AIM‐7スパロー中射程空対空ミサイル、M61A1・20ミリ機関砲が、1番機のイーグルに兵装されている。

 コクピットに搭乗した颯は、アラートハンガーの中でそのままエンジンを始動させ、タキシングで滑走路に向かった。管制塔と交信した颯は、スロットルレバーを押し上げて双発のエンジンを全開にする。巨大な二基のエンジンノズルを、アフターバーナーの青い炎で燃え上がらせた勇猛果敢な荒鷲は、ハイレートクライムでさながらロケットのように飛翔した。続いて黎児が乗る2番機も、ベイパーを曳きながらハイレートクライムで離陸してくる。颯と黎児はアフターバーナーを切り、機体を水平に立て直して編隊を組む。航空交通管制圏・進入管制区管制官と交話したあと、南西防空管制群の要撃管制官との回線が繋がれた。

 最初に国籍不明機アンノウンにスクランブル発進したのは、小松基地第303飛行隊のアラート機だった。現場空域に到着した、303のパイロットが退去するよう勧告すると、国籍不明機は素直に引き返したという。しかしアラート機が小松基地に帰投してからしばらくして、第55警戒隊のレーダーサイトが、尖閣諸島に向かっている国籍不明機を発見したのだ。送信されてきた情報と照らし合わせた結果、それは303がスクランブル発進した国籍不明機だと分かった。そして颯たち第204飛行隊に、スクランブルが発令されたのである。

 那覇基地をスクランブル発進した颯と黎児が、針路を南西に定めて飛んでいると、北からこちらに向かってくる大きな機影が見えた。颯と黎児は速度を上げて慎重に接近する。目視で確認できる距離まで近づくと、赤いリボンと星の国籍記号が、胴長の機体に描かれているのが分かった。あれは中国の国籍記号だ。ソ連のTu‐16バジャーをライセンス生産した、中国空軍のH‐6双発大型爆撃機だった。303のアラート機が退去勧告したH‐6に違いないだろう。

『ワルキューレ01、目標発見タリホー侵入機ボギーは中国空軍のH‐6爆撃機と判明』

『侵入機は尖閣諸島に向けて直進している。領空まで15マイル。接近して変針通告せよ』

『ワルキューレ01、了解。これより変針通告に移る』

 要撃管制官に指示された颯は、操縦桿を倒して1番機をH‐6の後方上空につけた。2番機に乗る黎児は、操縦桿を片手で操りながら、対象機の写真撮影をしている。これは相手政府に抗議するための証拠だ。よって迎撃機は二機発進するのが普通となる。

『Attention attention. We are JAPAN AIR SELF DEFENSE FORCE. Your plane is coming close to 15 miles of Japanese air space. Change the course promptly. (注意、注意。我々は日本の航空自衛隊だ。貴機は日本の領空15マイルまで接近中だ。ただちに針路を変更しろ)』

 颯は国際緊急周波数でH‐6のパイロットに変針通告した。だがH‐6が変針する様子は見られない。続けて颯は中国語で注意喚起と警告をする。六回注意喚起と警告をしたが、やはり反応らしきものは認められなかった。誘導して強制着陸させろと要撃管制官が指示をしてきた。操縦桿を倒して高度を下げた颯は、1番機をH‐6の真横につける。次に颯は機体を左右に傾けて左に離脱する。これは「迎撃機の誘導に従って追従せよ」という合図だ。機体信号を送ったがH‐6は動かない。尖閣諸島を目標に飛び続けている。

 機体信号に従わなかった場合、現場指揮官から警告射撃の許可が下りる。警告射撃を実施しても侵入機が退去しなかったら、横田基地の航空総隊司令部から市ヶ谷の防衛省に連絡がいき、航空幕僚長、統合幕僚長、そして防衛大臣から自衛隊の最高司令の内閣総理大臣に状況が伝えられ、実弾による撃墜の可否が下されるのだ。

 颯の心臓は早鐘の如く脈動する。撃てる能力はあるし、撃つ覚悟も持っている。だができることなら撃ちたくない。目の前を飛んでいる爆撃機のパイロットは颯と同じ人間だ。泣いたり笑ったり怒ったりするし、家族と恋人に友人が帰りを待っている。しかし日本国民の命を守るためには、相手の命を奪わなければいけないのだ。颯が握る操縦桿はあたかも命の重みを背負っているかのように重い。1分1秒が酷く長く感じられる。撃つか撃たないか。颯が究極の選択を迫られるなか、H‐6は唐突に機首の向きを変えると、爆音を響かせながら中国本土のほうに引き返していった。

『ワルキューレ01、侵入機は北に針路を変更した』

『了解。速やかに帰投せよ』

 要撃管制官から帰投を指示された颯と黎児は、現場空域を離れると那覇基地に帰投した。全身湯気が立たんばかりに汗でびっしょりだった。大量の汗はなめくじのように身体を滑り落ちていく。梯子でコクピットを下りた颯は、パイロットスーツのジッパーを下ろすと、首筋に伝わって流れる汗の珠が、鎖骨の窪みに溜まったのを手で弾いた。極度の緊張で自律神経がおかしくなっていたようだ。失禁しなかったのがせめてもの救いだろう。

 たった一度のスクランブル発進で、10年以上寿命が縮んだような気がする。気を緩めれば地面にへたりこんでしまいそうだった。これまで何回かスクランブル発進したことはあるが、喉元にナイフを突きつけられたような緊張感に、まだ慣れることができない。いや、慣れてはいけないのだ。常に緊張感を持って対処するのが、警戒待機任務とスクランブル発進なのだから。

 警戒待機任務と304のパイロットに引き継ぎを終えた時には、颯は手足の感覚がなくなるほど疲労していた。まるで一晩中荒波に揉まれていたようだ。足が棒のようになるという言葉が、まったく実感のある形容だと分かった。今にも倒れそうな自分を励ましながら官舎に帰る。とにかく眠い。頭の中は鉛か腐った泥が詰まったようにぼんやりしていた。シャワーを浴びた颯は強烈な眠気に耐えきれず、ボクサーブリーフを穿いただけの格好でベッドに倒れ込んだ。アラームをセットしようと、颯はスマートフォンに手を伸ばしてホーム画面を開く。すると揚羽からのメールが届いていた。

【303の次に204のみなさんがスクランブル発進したと聞きました。どうか無事でいてください。ゆっくり休んで落ち着いたら、電話でもメールでもいいので、連絡してくださいね。――揚羽】

 揚羽の姿を思い出した颯は微笑んでいた。颯の視界に映る世界が暗澹たる闇に覆われていく。今度会ったら揚羽に言いたい大切なことがある。そんなことを思いながら、颯の意識は果てしない深い眠りの海に沈んでいった。
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