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青空のスワローテール 作者:蒼井マリル

第6章 疾風の荒鷲

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天使に恋して

 黎児の様子がおかしくなったのは、第27戦闘攻撃飛行隊とのDACTが終わった翌日のことだった。エプロンにイーグルを駐機する際に、誘導係の整備員を危うく轢きそうになったり、ACM訓練の時に、誤って味方機を撃墜しかけたりなど、明らかに黎児は普段と様子が違っていた。死神に魂を奪われたような、あるいは河童に尻小玉を抜かれたような、心ここに在らずといった様子である。底抜けに陽気な黎児はいったいどこに行ってしまったのか。颯もそうだが、204の誰もが黎児を心配していた。

「お前、最近変だぞ。何かあったのか?」

 ファーストピリオドの飛行訓練のデブリーフィングが終わったあと、颯は黎児に話しかけた。ブリーフィングルームにいるのは颯と黎児だけだ。この日のACM訓練でも、黎児は自分のウイングマンを敵と誤認して撃墜しかけた。数えるとこれで四回目だ。さすがにこれは看過できないと思った颯は、黎児に理由を尋ねることにしたのである。だが黎児は答えない。ミーティングテーブルに頬杖をつき、ぼんやりとした顔で窓の外を見ている。そんな黎児の態度は颯の苛立ちを増幅させた。

「整備員を轢きそうになったり、味方を敵と間違えて撃墜しそうになったり、無茶苦茶しやがって、いったいどういうつもりなんだ。訓練なんてかったるくてやってられない、お前はそう言いたいのか? 光陽さんと鷹瀬さんに憧れて空自パイロットになったくせに、その体たらくはなんなんだよ。やる気がないのならさっさと辞めればいいだろ。俺は引き留めないぜ」

 些か強い口調になってしまったが、これくらい言わないと事の重大性を認識させられない。大切なのは事故の原因を未然に防ぐこと。重大な事故が起きてからでは遅いのだ。突然大きな音が部屋に響き渡る。椅子から立ち上がった黎児が颯を見据えていた。

「俺だって真面目にやってるよ! でもっ、でもっ、駄目なんだよ! 彼女のことを思い出すと、頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなるんだ!」

 眉尻を下げて唇を震わせる黎児の顔は、青褪めていて力もなく、悲しそうで恨めしそうで恥ずかしそうで、なんとも言いようがない表情だった。心の中で入り乱れたいろんな感情が、衝突を繰り返して激しい火花を散らしているようだ。

「彼女?」

「ジェイミー・ガブリエル中尉。……俺さ、ガブリエル中尉を好きになったんだよ」

 黎児の告白に颯は驚いた。ジェイミー・ガブリエル中尉は、数日前に颯と黎児と異機種間戦闘訓練をした、第27戦闘攻撃飛行隊のファイターパイロットである。颯も黎児もガブリエル中尉は男性だと思っていた。だが驚くことにガブリエル中尉は、金髪碧眼の綺麗な女性だったのだ。そのガブリエル中尉を黎児は好きになった? まさに開いた口が塞がらない思いだった。

「……ガブリエル中尉は明日岩国に帰るって聞いた。なあ、颯。俺はどうしたらいいんだ?」

 颯を見てきた黎児の瞳は熱く潤んでいた。ほんのりと上気した頬に熱く潤んだ瞳。まさしく恋する青年の表情だ。何度か衝突もあったが、颯と揚羽は時間をかけて関係を構築し、最後に愛を確かめ合うことができた。だがガブリエル中尉は明日岩国基地に帰る。もしかしたらアメリカ本土に帰国するかもしれない。そうなってしまえば、黎児は簡単にはガブリエル中尉に会えなくなるだろう。可愛い女の子を見つけたら、後先考えず口説きにかかる黎児が、臆病風に吹かれている、訓練に集中できないほど煩悶している。間違いない、黎児は本気で恋をしているのだ。颯は黎児の肩に両手を置くと、真摯な眼差しで彼を見つめて開口した。

「今日の訓練が終わったら、彼女をデートに誘って告白しろ。思いは言葉にしないと相手に伝わらないんだ。何も行動しないで後悔するより、行動して後悔したほうがいいだろ? 尻込みするなんてお前らしくもないぞ。ふられたら朝まで一緒に酒を飲んでやる。とにかく当たって砕けろ」

「なんだよそれ。酔った勢いでお前を襲うかもしれないぞ。それでもいいのか?」

「上等だ。返り討ちにしてやるよ」

 花瓶を割った子供のように涙ぐんだ黎児がいきなり抱きついてきた。世話の焼ける友人だと苦笑しながら、颯は嗚咽で震える黎児の背中を叩く。そこに忘れ物を取りに和泉拓海3等空尉がブリーフィングルームに入ってくる。抱き合う颯と黎児を見た和泉は目を見張り、「先輩たち、そんな関係だったんスか!?」と大声で叫んだ。いつもの陽気さを取り戻した黎児が和泉を煽り立てる。鼻息荒く興奮する和泉の誤解をとくのに、颯はかなりの時間を費やしたのだった。



 ブルーインパルスの4番機に乗り、5番機と6番機が空に描いた巨大なハートを、スモークの矢で貫いていた自分が、こともあろうに自分のハートを射貫かれるとは、夢にも思ってもいなかった。

 今日最後の訓練を終えた黎児は那覇基地を発ち、那覇空港の南側に位置する、豊見城市に属する瀬長島に続く、海中道路を車で走っていた。ハンドルを回しながら黎児は助手席を見やった。助手席に座っているのは金髪碧眼の女性――ジェイミー・ガブリエル中尉だ。キャミソールとデニムジーンズ、頭にメッシュキャップを被っている。清水の舞台から飛び降りる覚悟で、黎児はガブリエル中尉をデートに誘ったのだが、意外にもあっさりと、彼女はデートの誘いを受けてくれた。

 年間約28万人が来島する瀬長島は那覇空港に隣接していて、離着陸する航空機を間近で見物できるためか、家族連れや航空ファンが多く訪れ、スポッティングや撮影がよく行われていた。また島北東部に四つの市営野球場が整備され、キャンプや海水浴にウインドサーフィン、潮干狩りや釣りも楽しむことができる。さらに島の西海岸に隣接した傾斜地には、観光商業施設「ウミカジテラス」が展開しているのだ。

 黎児は瀬長島ホテルの海中道路側のスペースを整備した展望公園に向かった。展望公園に到着した黎児は駐車場に車を停め、ガブリエル中尉と肩を並べて遊歩道を歩く。途中の緑地帯では、豊崎までの海や豊見城道路の与根高架橋が望め、夕日を受けて茜色に染まった飛行機が、空を飛んでいくのも見られた。女の子を喜ばせる言葉は豊富にある。今までだってたくさんの女の子に愛の言葉を囁いてきた。それなのに今は言葉が出てこなかった。

 海中道路側から一番遠い、ホテル側の展望台で二人は自然に足を止めた。展望台の向こうに広がるのは、紫紺色の水平線を長く曳く海だ。水平線の彼方に沈みゆく夕日の、炎のような陽光が海原を緋色に染めて、波が踊るたびに光の粒が弾けている。沖縄の自然が造形した美しく雄大な景色に、ガブリエル中尉は目を奪われていた。潮風になびく金色の髪に、茜色に染まった純白の肌。海原を眺めるガブリエル中尉の姿は、まるで天界から降臨した炎の天使のように美しかった。

 瞬間黎児の鼓動は高鳴り、心臓の律動が速くなった。胸の奥が締めつけられ、甘く切ない痛みの塊が心を刻む。胸に湧き上がった衝動に突き動かされた黎児は、ガブリエル中尉の細い肩を抱き寄せて視線を合わせると、覗き込むような姿勢で彼女にキスをした。ガブリエル中尉は瞠目したが抵抗しなかった。顔を持ち上げて、突然のキスを受け入れている。黎児はもう少しだけ、唇の柔らかい感触を楽しみたかったが、ガブリエル中尉が苦しそうに身じろぎしたので、慌てて顔を離した。途端に理性が戻り羞恥心がこみ上げる。相手の了承もなしにキスするなんて正気の沙汰じゃない。

「ごめん、俺、馬鹿だよな。……好きでもない男に無理矢理キスされて、嫌だったよね」

 いったん言葉をとめた黎児は、決意の深呼吸をして言葉を続けた。

「君に言いたいことがあるんだ。俺、君のことが好きなんだ。君は覚えていないと思うけれど、あの時見た君の笑顔が、とても素敵で、綺麗で、忘れられなくなった。君が俺に興味がないってことは分かってる。それでもいい、俺はこの想いを君に――」

 黎児は目を見張った。今度は黎児がガブリエル中尉にキスされていたのだ。背伸びをしたガブリエル中尉は、白魚のような両手で黎児の頬を挟み、目を閉じて唇を重ねていた。海猫が鳴き、波が岸壁に打ち寄せる音だけが静かに響く。揚羽への恋が散ったあと、自分が真剣に恋をすることは、もう二度とあるまいと黎児は思っていた。けれど胸を熱くさせるこの感情は「恋」だ。終わったと思っていた恋は、まだ終わっていなかった。黎児が真実の愛に辿り着くその時を、辛抱強く待っていてくれたのだ。重ねていた唇を離したガブリエル中尉の緑色の瞳は、沈みゆく夕日のように熱く燃えていた。

「……笑わないでくださいね。私も基地で会った瞬間、蛍木1尉に恋をしたんです。誰かを好きになったのも、こんなに胸が熱くなったのも初めてだわ。私からも言わせてください。黎児さん、私もあなたが好きです」

「ジェイミー、君は俺の運命の人だ。岩国に戻ろうがアメリカに帰国しようが関係ない。君と遠く離れてしまっても、俺は必ず会いに行くよ。だから俺の恋人になってくれるかい?」

「――はい」

 神の奇跡のような夕日の浮かぶ空は、紫色を帯びる薔薇色に燃え上がり、瀬長島の大地を茜色の残照に染めていく。今日見た夕日を自分はきっと一生忘れないだろう。真実の愛を見つけた喜びが、光り輝きながら全身に満ちていくのを感じながら、ガブリエル中尉と一緒に過ごせる最後の夜に、黎児は彼女と愛を分かち合ったのだった。
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