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未来に続く空
透きとおるような淡い水色の2月の空は、聖水で清められたかのような輝きで満ちている。綺麗に片付けた学生隊舎の自室を出た揚羽は、航空団司令と副司令、飛行指揮所や整備補給群に挨拶をして、C‐1輸送機に乗るため空輸ターミナルに向かっていた。C‐1輸送機は空席があれば、申請するだけで乗ることができ、言わずもがな料金は無料だ。仙台空港から民航機で飛んでいくほうが快適だと思うが、揚羽は今まで一度もC‐1輸送機に乗った経験がない。なのでこの機会に乗ってみようと思い立ったのである。
空輸ターミナルに着いた揚羽は目を丸くする。ターミナルに駐機されていたのは、チキンレッグに似たC‐1輸送機ではなく、対艦番長のF‐2Bバイパーゼロだったのだ。垂直尾翼には黒豹の部隊マークが描かれている。間違いない。あの黒豹のF‐2Bは、揚羽が着隊する第8飛行隊が運用している機体だ。
揚羽はターミナルを見回したが、揚羽が乗る予定の輸送機はどこにも駐機されていない。F‐2Bの周りに集まっているのは、第21飛行隊と第11飛行隊の隊員たちだ。揚羽に気づいた男性隊員が早足でやってくる。パイロットスーツを着た彼は颯だった。昨夜の愛の営みを思い出した揚羽は恥ずかしさを覚えたが、すぐに「おはようございます」と挨拶する。颯も恥ずかしそうに挨拶を返した。
「あの、鷲海1尉。どうして第8飛行隊のF‐2Bが停まっているんですか?」
「こっちに来たら分かるよ」
颯に手を引かれた揚羽はF‐2Bの前に案内された。揚羽は再び驚きで目を丸くする。F‐2Bの前に立っていたのは、数日前から基地を留守にしていた、遠藤龍二3等空佐だったのだ。遠藤3佐はパイロットスーツと救命胴衣、耐Gスーツを着ていた。とすると彼が黒豹のF‐2Bを操縦してきたのだろうか。目を白黒させて驚く揚羽を見た遠藤3佐は、愉快そうに口角を吊り上げた。
「久しぶりだな、スワローガール。さっさと後ろに乗れ。俺が築城まで連れていってやる」
「えっ? でも、私は輸送機で行くつもりなんですけれど……。それに遠藤3佐って、21飛行隊の教官なんじゃ――」
「俺はもうお前の担当教官じゃない、第8飛行隊のファイターパイロットだ。お前のお守りから解放されたと思ったら、よりにもよって築城基地に配属が決まるとはな。まったくこれから先が思いやられるぜ」
「それはこっちの台詞だ」と揚羽が反駁しようとしたその時だ。なんと遠藤3佐は豪快に破顔一笑したのである。地獄の閻魔大王と恐れられる鬼教官の、まさかの笑顔に面食らった揚羽の頭を、遠藤3佐の大きな手がぐしゃぐしゃに掻き回す。いつの間にか揚羽も遠藤3佐と一緒に笑っていた。信じられないかもしれないが、遠藤3佐は笑うとなかなか魅力的だ。不意に揚羽と遠藤3佐の間に誰かが割り込んでくる。二人の間に割り込んできたのは、全身から冷たい殺気をみなぎらせた仏頂面の颯だった。
「すみません、遠藤3佐。俺の彼女に馴れ馴れしくしないでもらえませんか?」
「なんだと? おい、イルカ野郎、今なんて――」
颯は電光石火の速さで揚羽を抱き寄せると、衆人環視の前で彼女の唇を奪った。熱烈なキスに揚羽の身体は甘く痺れる。まさかのキスシーンに、遠藤3佐と集まった隊員たちはびっくり仰天していたが、すぐに万雷の拍手喝采で二人を祝福してくれた。重ねていた唇を離した颯は、揚羽にだけ聞こえる声で、流暢な英語を喋った。
「First Look, First Shot, First Kill」
「どういう意味ですか?」
「敵よりも先に発見して、先に撃ち、先に撃墜する。俺は絶対に逃がさないし外さない。だから揚羽は俺のものだ。……絶対に誰にも渡さないからな」
颯に撃墜宣言されてしまった揚羽の顔は、耳まで紅葉のように真っ赤に染まった。最後に揚羽の頬に軽く口づけた颯は、隊員たちにからかわれてもみくちゃにされながら、後ろに下がっていった。波川2佐、蓮華2佐、鬼熊3佐の三人が揚羽の肩を叩き、黎児は満面の笑顔で彼女を抱き締めたが、直後颯に臀部を蹴飛ばされた。瑠璃と晴登は力強く握手をしてくれて、三舟1曹は「頑張れよ!」と親指を立てる。花菜は泣きながらも頑張って微笑んでくれた。
遠藤3佐に促された揚羽は、機体左側の梯子を上がって後席に座る。F‐2Bのコクピットに座った瞬間、揚羽は気持ちが凜と引き締まるのを感じた。これから先、自分が手にするであろう未知の時間に、揚羽の心は熱く高鳴る。細い山道を懸命に登ったら、突然視野が明るく開けて、眼下に美しい風景が現れるような、そんな目の覚めるような一瞬に出合えるかもしれないのだ。
エンジンが脈動を始めてF‐2Bのキャノピーが閉じた。チョークアウトしたF‐2Bが、ゆっくりと方向転換する。周囲を見やった揚羽は目を見張った。エプロンに集まった全員が揚羽に敬礼していたのだ。たった一人の旅立ちを見送るために、こんなにたくさんの人が集まってくれている。同じ空を目指し、命と心を預け合った仲間への、感謝の気持ちで涙ぐみながら、揚羽も敬礼を返した。
誘導路から滑走路に進入したF‐2Bが走り出す。周囲の景色が明瞭さを失い、色の洪水となって後背に流れていく。もうみんなの――颯の姿は見えない。寂しさが胸を噛んだが、揚羽は颯の言葉を思い出した。
どんなに遠く離れていても、揚羽と颯の心は繋がっている。だから夢を目指して頑張れと颯は言ってくれた。胸に宿った颯の言葉が夢の翼となり、揚羽を空に導いてくれるだろう。轟音を響かせたF‐2Bがハイレートクライムで飛翔する。希望の青に染まった大空が、揚羽の視界いっぱいに広がった。

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