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貴方を、君を、愛しています★
紫陽花色の夕焼け空が松島基地の上に広がっている。金色に輝く薔薇色の雲が夕空の真ん中を貫いていた。さながら真っ二つに割れた天の裂け目が、勢いよく燃え上がっているかのような雄大な光景だ。紺色の制服を着た揚羽は、第11飛行隊のエプロンで独り佇み、口から白い息を吐きながら、茜色に染まったブルーインパルス仕様のT‐4を観賞していた。
ゆっくりと確かな彩りを見せて春夏秋冬季節は巡り、揚羽が第21飛行隊に着隊してから10ヶ月が経った。中間検定、そして最終検定に合格した揚羽は、この日飛行教育航空隊の教場で、戦闘機操縦課程の修了証書を授与したのだ。揚羽の修了式に立ち会ってくれた、主任教官の波川2等空佐や教官たちは、まるで自分のことのように喜んでいた。明日揚羽は松島基地を旅立つ。ブルーインパルスのT‐4を見られるのは今日が最後になる。だから揚羽は修了式が終わったあと、第11飛行隊の区画に足を運んだのだ。
「燕」
T‐4を観賞していると揚羽は名前を呼ばれた。青年パイロットが一面茜色に染まったエプロンに立っている。オリーブグリーンのパイロットスーツの上に、救命胴衣と耐Gスーツを着た青年は颯だ。颯はこちらに歩いてくると、揚羽の正面で足を止めた。揚羽を見下ろす颯は優しく微笑んでいた。
「修了式、終わったんだな。おめでとう」
「ありがとうございます」
「配属先はどこに決まったんだ?」
「築城基地の第8飛行隊です」
九州北部に所在し、西日本の防空の要となるのが、福岡県航空自衛隊築城基地だ。対馬や壱岐島など、日本海に浮かぶ島々にも即座に駆けつけることができる。第304飛行隊が抜けたあとには、青森県三沢基地からF‐2部隊の第8飛行隊が移動してきており、築城基地は優秀な対艦・対地攻撃能力と空戦能力を兼ね備えた、F‐2ベースとなっているのだ。
「華の第8航空団に配属が決まるなんて凄いじゃないか」
颯は喜んでくれたが、揚羽の心は曇天のように暗く沈んでいた。
「……鷲海さんと遠く離れちゃいますね」
空に飛ばしたシャボン玉が割れた時のような、小さくて儚い声で揚羽はぽつりと呟いた。ドルフィンライダーの任期は3年。現在颯は2年目なので、あと1年松島基地に留まる。対して揚羽は福岡県築城基地の第8飛行隊に着隊して、戦闘機部隊のファイターパイロットの道を歩む。学生の時よりも厳しく過酷な訓練が、待ち受けているのは間違いない。それは颯だって同じだ。最後の3年目は展示飛行を担当しながら、後任パイロットの育成にあたることになる。揚羽が会いたいと望んでも、気軽に会えるような関係ではなくなるのだ。透明の寂しさが秋の水のように、揚羽の中を果てしなく流れていった。
「やっと鷲海さんと分かり合えたのに、離れ離れになるなんて嬉しくないです。我儘だって言われるかもしれません。でも、私はまだ松島を離れたくない、もう少しだけ鷲海さんと一緒にいたいんです。鷲海さんに話したいことがいっぱい残ってる、教えてもらいたいことだってたくさんあるの。鷲海さんと会えなくなるなんて……そんなの嫌です」
切なさと寂しさを吐き出した揚羽は颯に視線を当てた。颯の瞳はしっとりと濡れていたが、彼は泣いていない。だが今にも泣き出しそうだった。つまり颯も揚羽と同じ気持ちを感じているのだ。一歩踏み出した颯は手を伸ばすと、揚羽の腰のあたりを横から抱くように引き寄せた。抱き締められた揚羽の、T‐4のフォルムようにしなやかに湾曲した華奢な身体は、空気の分子すら入れないほど、引き締まった颯の身体にぴったりと密着している。愛おしげに揚羽の髪を撫でる、颯の大きな手は下に滑ってくると、赤ん坊のように柔らかい彼女の頬を包み込んだ。
長身を折った颯の端正な顔が、彗星のように近づいてくる。数秒先の未来を予知した揚羽はそっと目を閉じた。羽毛のように柔らかい感触が揚羽の唇に押し当てられた。あの時された乱暴なキスとはまるで違う。優しさと愛情に満ち溢れたキスだ。颯の揚羽を想う気持ちが、重なった唇から心に伝わってくる。美しい音楽を聴いている時のような、穏やかな快感が揚羽を包み込む。緩やかに川を流れる水の如く、時間は二人の身体を通り抜けていった。
「――好きだ、揚羽」
重ねていた唇を離した颯が揚羽の耳元で熱く囁く。鳥籠の中の鳥が空に恋するような表情で、揚羽は颯を見上げた。
「……ずるいです」
「ずるい?」
「私が先に言おうと思っていたのに、先に言うなんてずるいです」
揚羽が子供みたいな我儘を言うと、颯は花の蕾が咲いたように顔をほころばせた。
「じゃあ、言ってくれよ。……俺も揚羽の口から聞きたい」
「私も鷲海さんが好き、大好き。初めて会った時から、あなたに憧れているの。離れる前に、もっとあなたの側にいきたい、近づきたい。だから――」
人差し指で唇を塞がれたので、揚羽は最後まで言えなかった。微笑む颯は「分かっている」というふうに頷いてみせる。空でハンドシグナルを交わしているように、揚羽は颯と喋らなくてもきちんと意思が伝わった。それはつまり二人の心が通じ合った証。揚羽と颯は引力に引き寄せられて固く抱き合った。颯は揚羽の身体を割れやすい硝子細工のように抱き締める。揚羽は颯の胸に頬を寄せ、彼の心臓の鼓動に耳を傾けた。エプロンに細く長く伸びる影は一つに重なり合い、演劇の幕が下りるように早く色を変えていく、清冽な冬の黄昏の中に溶けていった。
★
松島基地をあとにした揚羽と颯は、夜空に浮かぶ月も星も凍えそうな、冬の道を手を繋いで歩いていた。梟の鳴き声が聞こえてきそうな静かな夜だ。硝子のように澄みきった夜空では、三つ星のオリオン座が東の空で銀色に輝いている。基地官舎に着いた揚羽は颯に続いて三階に上がり、しんと静まりかえった彼の部屋に入った。部屋に入ってからすぐに、揚羽は壁に押しつけられて、颯のキスの洗礼を受けた。
「――シャワーはどうする? 先に浴びるか?」
「……いえ、このままでいいです。鷲海さんはどうします?」
「……俺もこのままでいいよ」
囁くように答えた颯は揚羽の身体に腕を回すと、彼女を横抱きに抱き上げた。颯はその体勢のまま廊下を進んでドアを開けると、寝室のベッドの上に揚羽を仰向けに寝かせて、キャノピーのように覆い被さった。ハニーベージュの髪を掻き分けた颯が、揚羽の額や頬、首筋に音を立ててキスを落とす。颯の股間はもう硬く張り詰めていて、擦れ合うたびに揚羽の両脚の間は熱く燃えた。
「鷲海さん」
「ん?」
「笑わないでくださいね。……その、私、初めて、なんです」
「揚羽は俺に大切な初めてをくれるんだ。……笑うわけないだろ」
「……はい」
濃厚なキスを交わしながら情熱を高め合った揚羽と颯は、四肢を絡ませながら生まれたままの姿になった。初めてピアノの鍵盤を弾くように、揚羽と颯は時間をかけて互いの身体を愛撫する。揚羽の意識は颯の中に入っていき、肌と肌が一体になったような感覚に包まれた。颯の唇と指は連動するように動き出し、揚羽は彼の熱い体温に包まれる。大きな波に身を任せた揚羽の、まだ清らかな乙女の部分の中心は、颯を受け入れるために濡れていた。
熱く濡れる揚羽の部分に、硬く立ち上がった颯のものが触れる。初めての揚羽を怖がらせないように、手を絡めた颯は「大丈夫だ」と囁きながら、ゆっくりと彼女の中に入ってきた。二人の心と身体は快感の波動の中に溶けていく。そして揚羽の下腹部の中心点で熱い塊が弾ける。魂を蕩かすような甘美な感覚に貫かれた揚羽は、身体を震わせながら颯の首に両腕を回してしがみついた。快楽の余韻が強くて震える揚羽の身体を、颯は唇を重ねながら優しく愛撫する。繋げていた身体を離した揚羽と颯は、一緒にシャワーを浴びてベッドに寝転び、揚羽は颯の胸に頭を乗せた。颯の洗い髪の爽やかな香りが、揚羽の鼻腔にふわりと届いた。
「……不思議ですね」
「不思議?」
「初めて出会った時、私は鷲海さんと大喧嘩したじゃないですか。それなのに、私は鷲海さんを好きになって、鷲海さんも私を好きになってくれて、こうやって愛してくれた。だから不思議だなって。出会う前の私たちが、今の私たちを見たら、きっとびっくりしますね」
「そうだな」と笑った颯は身を起こすと、続けて起き上がった揚羽を真っ直ぐに見つめた。
「どんなに遠く離れていても、俺の心は揚羽と繋がってる。それに俺たちは同じ空を飛んでいるんだ。いつかきっと会えるさ。だからお前は夢を目指して頑張れ。お前は絶対にドルフィンライダーになる。俺が太鼓判を押してやる」
「鷲海さん――」
言葉に詰まり、揚羽は涙を滲ませながら頷いた。自分を思ってくれる颯の言葉に、揚羽の心は光芒のような愛情で満ちていく。それは颯も同じだった。見つめ合った揚羽と颯は、手を絡めて握り合い、胸、腰、太腿をぴったり密着させて、今夜最後のキスをした。幸福感が波のように打ち寄せるのを感じながら、揚羽と颯は穏やかな気持ちで眠りに落ちる。鴛鴦のように寄り添って眠る二人を、窓から差す青白い月の光が優しく照らしていた。

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