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ゲイルとシューティングスター
颯たちブルーインパルスの隊員は、飛行隊隊舎の前に一列に並んで立っていた。「全員バケツを持って、飛行隊隊舎の前に立っていろ!」と蓮華2佐に叱られたわけではない。今日は東京都新宿区陸上自衛隊・市ヶ谷駐屯地の防衛省から、なんと航空幕僚長が視察のため、松島基地にやって来るのである。全員緊張した面持ちだ。航空幕僚長といえば、統合幕僚長の次に権力を持つ存在。その航空幕僚長が基地に来るのだから、緊張するのは当然だといえよう。
しばらくすると二人の男性が飛行隊隊舎のほうに歩いてくるのが見えた。一人は松島基地司令の斎藤一之空将補で、もう一人が航空幕僚長に違いない。斎藤空将補と男性が飛行隊隊舎の前に到着する。蓮華2佐の号令で、颯たちは一斉に背筋を伸ばして敬礼した。
(あの人が航空幕僚長か……)
颯は敬礼したまま男性に視線を向けた。紺色の制服を飾るのは、色鮮やかな防衛記念章と、銀色に輝く四個の桜星の階級章。年齢は貴彦と同じ50代に見えた。藍色が混じった黒髪。綺麗な線を描く切れ長の目は青色を帯びた灰色をしている。
事務職といえば、相撲取りであるかのような、でっぷりと太った人を想像してしまうが、目の前の航空幕僚長はそうではない。すらりとした長身に、贅肉はほとんど一欠片もなく、全身の筋肉が念入りに鍛え上げられているのが分かる。航空幕僚長は前に出ると、隊員一人一人に労いの声をかけていく。そして航空幕僚長は、なぜか颯の前で足を止めた。
「君が鷲海颯1等空尉だな?」
「えっ? そうですが……」
「一度、大きくなった君に会ってみたかったんだよ。それに娘がいろいろと世話になったからね」
「あの、すみません。仰っていることがよく分からないのですが――」
戸惑いを露わに颯が尋ねると、航空幕僚長は相好を崩した。
「私の名前は燕流星。燕揚羽の父親だよ」
「ええええっ!?」
天地がひっくり返ったような衝撃を受けた颯は、思わず素っ頓狂な声を喉から迸らせていた。蓮華2佐が厳しい目を向けてきたので、颯は慌ててあんぐりと開けていた口を閉じる。無礼な真似をしてしまったから、きっと厳しく叱咤されると颯は覚悟していたが、燕流星航空幕僚長は片手で口を隠して失笑していた。
「そんなに驚かなくてもいいだろう。その様子だと、どうやら揚羽は君に話していなかったようだな。それに私と君は初対面じゃないんだぞ」
「初対面じゃない?」
「18年前、小松基地で会ったじゃないか」
と言われたが18年も昔のことなんて簡単には思い出せない。眉間に皺を刻んで煩悶する颯に、流星は苦笑しつつも助け船を出してくれた。
「私は幼い君にこう言った。『オレが飛んだあの青空を目指して、真っ直ぐに翔け上がれ』とな」
「はいいいいっ――ぐふっ!!」
再び叫んだ颯を黎児と黒金3佐が両側からの肘鉄で黙らせる。青空を目指して真っ直ぐに翔け上がれ。それは今まで一度も忘れたことがない大切な言葉、颯を無限の大空に連れていってくれる魔法の言葉だ。不躾だと分かっているが、颯は流星の端正な顔を凝視する。藍色が混じる黒髪も、青みを帯びる灰色の双眸も、18年前に出会った憧れのパイロットと同じだった。
犬鷲のシューティングスター、そしてブルーインパルスのエースと称された、TACネームはスワローテールのパイロットが、まさか揚羽の父親だったとは――。気づけなかった自分も間抜けだが、それよりも運命の不思議さに驚きたくなる。しかし揚羽も揚羽だ。もう少し早く流星が自分の父親だと教えてくれれば、颯はみっともない姿を晒さずに済んだのだから。
鬼熊3佐たちは先にブリーフィングルームに向かい、広報幹部の颯は蓮華2佐に連れられて、流星を飛行隊隊舎一階のブルーミュージアムに案内した。ミュージアム入口にはF‐86Fセイバー・T‐2・T‐4が、空を飛ぶ姿を描いた特大の絵画が飾られている。F‐86F・T‐2時代の貴重な資料、歴代のツアーパッチやガイドブックなどもすべて展示されており、ブルーインパルスの歴史を間近に感じることができるのだ。蓮華2佐の説明を聞く流星は、昔を懐かしんでいるような表情で、ミュージアムの展示物を鑑賞していた。
ブルーミュージアムを出た三人は、階段を上がって隊舎二階に向かい、廊下を進んで鬼熊3佐たちが待っているブリーフィングルームに入った。普段行っているプリブリーフィングの様子を流星に見てもらうと、ここに来る前に颯は蓮華2佐から聞いていたのだが、思いもよらない言葉が蓮華2佐の口から放たれたのだった。
「みんなも知っていると思うが、今日のセカンドフライトは5番機の後席に燕空幕長を乗せて、洋上アクロ訓練を行うぞ」
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってください! 燕空幕長を乗せて飛ぶなんて、俺は一言も聞いていませんよ!?」
「おい、ファイアフライ。お前、ゲイルに言っていなかったのか?」
黒金3佐に訊かれた黎児は瞬きしたあと、「ごめんちゃい!」と言ってぺろりと舌を出した。人を食った謝り方に、颯は黎児を一発殴りたい衝動に襲われたが、流星がいるのでここはぐっと堪えるしかない。颯は微笑む流星に肩を叩かれた。
「鷲海君。チャンバーは済んでいるから、安心してくれ」
(いやいやいやそういう話じゃないでしょう!)
5番機の後席に乗って飛ぶつもりでいる流星に、颯は心の中でつっこんだ。
チャンバーとは低圧訓練を含む航空生理学実習の通称で、その由来は低圧訓練装置の「チャンバー」からきている。航空生理学実習は、飛行が人体に及ぼす影響や、障害に対する対策を学ぶ。低圧訓練は低圧訓練装置の中に入り、約35000フィートと同じ気圧や低酸素症を、実際に体験する。一説には陸上自衛隊で行われる、約30キロの装備を身につけて、雪上行軍を数時間行うのと、同じだけの体力を消耗するといわれている、身体に負荷がかかる訓練なのだ。
「あの、燕空幕長、視察というのは口実で、本当は私に会うために松島にいらっしゃったのですか?」
もしやと思った颯が尋ねると、流星は「おや」と双眸を瞬かせた。
「ばれてしまったか。秘書の佐渡は石頭でね、松島行きを許してくれなかったんだよ。松島に行かせてくれないのなら、入間からT‐4に乗って一人で松島に行く! と佐渡に言ったら、彼は渋々許してくれたというわけだ。あの時の佐渡の顔は見物だったぞ」
流星は茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。
「鷲海君、君は娘の命を救ってくれた恩人だ。直接赴いて礼を言う。それが礼儀だろう?」
颯の胸に震えが走る。憧れの人を乗せて空を飛べるのだから、断る理由なんてない。プリブリーフィングを終えた颯たちは救命装備室に向かい、救命胴衣と耐Gスーツを身に着ける。颯の予備のパイロットスーツと救命胴衣にフライトグローブ、耐Gスーツとヘルメットが流星に渡されて、颯は彼の着替えを手伝った。紺色の制服を脱いだ流星の姿態は、筋肉で引き締まっていて年齢を感じさせない。パイロットスーツに着替え、救命胴衣と耐Gスーツを着けた流星は、誰もが目を奪われてしまうほど凜々しくて格好良かった。
「馬子にも衣装とはこのことだな」
「そっ、そんなことはありません! とてもよくお似合いです!」
「ありがとう、お世辞でも嬉しいよ。さあ、行こうか」
まったく自分は何を言っているのだ――。言ってからすぐに颯は後悔した。18年ぶりに憧れのパイロットと再会できた喜びと興奮で、颯は些か我を忘れているのだ。こんな間抜けな姿を揚羽に見られたら、確実に馬鹿にされて笑われる。両手で頬を叩いた颯は、緩んでいた気持ちを引き締めて、先にハンガーを出た流星のあとを追いかけた。
搭乗前の外部点検を済ませた颯は5番機に搭乗する。些か緊張しながら機付き整備員とハンドシグナルを交わし、プリタクシーチェックを終わらせた。5番機の垂直尾翼のストロボライトを点滅させた颯は、ランウェイ端の最終チェックポイントにタキシングで向かい、離陸前のエンジンスタートを完了した。
F3‐IHI‐30ターボファンエンジンの高音も、スモークと燃料の匂いも、気のせいだろうか、いつもと違うように感じる。4番機の次に離陸した5番機は、デルタ隊形の左側に占位して、訓練空域の金華山半島東岸沖に針路を定めた。

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